或るロリータ

A Certain Lolita

鎌倉の紫陽花を見に行ったら夏が始まった

仕事を始めてからなにかと忙しいこと続きで、ろくに休めもしない休日が続いているところである。無尽蔵に湧いてくるやりたいことリストに、どうにか優先順位をつけつつ、ふと、念願の鎌倉へ今年も行けていないことに気づいた。毎年毎年、鎌倉の紫陽花に憧れつつ、上京してようやくその夢が叶えられる状況になったというのに、すっかり後回しのまま、六月が終わろうとしていた。

今週を逃したらきっともう行くチャンスはないと思い、無理矢理に予定を空けて私は鎌倉へと乗り込んだ。あいにくの曇天で、青空も見られなかったし、おまけに海は荒れ放題。だけどなんとか紫陽花を見るという目的は達成した。乗ってみたかった江ノ電にも乗れたし、訪れた場所が思いの外田舎で、故郷を少し思い出したりした。

正直、今年が始まってまだ半年しか経っていないという事実に驚きを隠せない。失業、引っ越し、転職とつづき、走り続けた半年間であった。この半年でいくつも歳をとったような気さえする。これまでの人生は、何も考えずにただ過ぎていった時間の早さに恐怖し、焦燥するばかりだったが、今、ようやく歳月と肩を並べて走っていると思えるのだ。けれど、こんなに早いスピードで走りつづけなければ、時の流れには追いつけないのかと思うと、いったい世の中のどれくらいのひとが、時代においてけぼりにされずに済んでいるのか疑問になる。私だって、そのうちまた、走り疲れて、立ち止まってしまうかもしれないし。

もうずっと、一週間があっという間に終わってしまうという体験をしている。そして、一度身体を横たえたら、二度と起き上がれなくなりそうで怖い。私は知らず知らずのうちに、これまで掬い損ねてきた青春の影を、必死で取り戻そうともがいているのだろうか。ゴールなんて存在するのかもわからない。けれど振り返ってこの半年を、私は後悔することなく生きることができた。だから走り続けることは決して間違っていないのだろう。

毎年、毎年、終わるたびに後悔してきた大好きな夏という季節に、これから立ち向かうのだ。今年こそ。

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今週のお題「2016上半期」

自分が今、幸せなのかが分からない

五月がもうすぐ終わる。夏がくるのだ。私は夏が好きだ。このまま走り続けていたら、夏なんてあっという間に訪れて、そうしてあっという間に過ぎてゆくだろう。そう思うと、一体どういう準備をして夏を迎えればよいのか分からなくなってしまった。

新しい仕事は楽しい。やりがいもある。賃金は安いけれど、これまでの私の人生で邪魔でしかなかった労働というものが、今や生きる活力にさえなりつつある。しかしふと、ひとりの夜になると、なんだか労働にすべてを注ぐことに疑いを持ち始めてしまう自分がいる。

大前提として労働は生きるために、生活するために行うものであろう。その労働が、自分を成長させるものであり、自分を楽しませる新鮮なものであったなら、より素晴らしいことには違いない。けれども労働が一日のすべてを背負ってしまったら、それは果たして正しいと言えるのだろうか。

ひょっとしてこの激しく鮮烈な毎日が永遠に終わらないのではないかという気がしておそろしくなる。気づけばお気に入りの革靴もぼろぼろだ。眠い目をこすりながら仕事をし、棒のような足を引きずって家に帰り、作り置きのカレーを掻き込んで、こんな風にしてときどきブログを書き、風呂に入り、布団に倒れ込む。なかなか寝付けない。耳元を掠めて飛ぶ小蝿のせいだろうか。寝付けないことに焦り、苛立ち、それでもどうにか眠りに就く。夢を見る。いつもよくない夢だ。悪魔も幽霊も登場しない、人間だけの悪夢を見るのだ。だから私は眠りが浅い。深夜、何度も目を醒ましては、また眠り、どうにか朝を迎える。結局また眠いまま、仕事に出かける。そんな毎日。

酒をやめた。外食もやめた。何もかもやめてしまおうと思っている。健康になりたい。清々しく生きてみたい。夜を愛して生きるのは、少しのあいだ休憩だ。そうしたら報われるだろうか。真昼の東京で胸を張って生きられる人間になれるだろうか。なんて、嘘だ。ほんとうはそんな人間になりたいわけじゃない。ただこうして、身体じゅうに鉛をまとわりつけたまま生きるのは、心まで寒くさせるから、夏がくるまえに衣替えをするだけなのだ。

 

 今週のお題「わたしの一足」

川の底からこんにちは [DVD]

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八代亜紀はなんて可愛いんだ

そんなことを言うと白い目で見られるのが世間である。

しかたがない。彼女は私よりずっとずっと年上だからだ。だけど八代亜紀の目つきが今でも色気を備えているのには間違いないし、歌声の魅力がいつまでも衰えないのも事実である。


Marty Friedman with Aki Yashiro

こんな動画を見つけた。

かっこよすぎて思わず三度見返した。

彼女の歌声がもともとどこか尖っていたのもあるし、彼女がジャズの歌い手をしていたこともある。ともかく彼女はこのようにして、単なる一演歌歌手というよりは、日本歌謡文化の女王といえる存在と言っても過言ではないのだ。舟歌を聴く前から酔っぱらっている私には、これ以上多様な表現をもって彼女の魅力を伝えうることはできないけれど、ここに紹介する動画を見ていただければ、その魅力は存分に伝わるものであろう。

 

さて彼女の曲の中で、私がもっとも好きなのは『雨の慕情』である。


雨の慕情 / 八代亜紀

心が忘れたあの人も
膝が重さを覚えてる

 こんな歌詞をさらっと歌っていいものか。

こんなに詩的で切迫した歌詞は、誰の目にも触れずに埋もれて行くのがこの国ではなかったのか。

雨の慕情はその知名度に反して、こんなに胸を打つ歌詞を備えている稀有な曲のひとつであると思う。懐かしの歌番組などで流れるたび、私は少し覚悟をする必要があるのだ。こんなに悲しい歌詞を、こんなに悲しい歌詞を、雨の日でもないのに聴きたい自分がどこかにいる……。

悲しい恋の歌を聴きたい夜もある

幸福より憂鬱が酒の肴になることは間違いない。今夜も私はビールにウイスキー、それでは飽き足らず安物の焼酎を煽りながらネットサーフィンに明け暮れている。それも悲しい恋の歌ばかりを探し求めて。暗い気分に浸れるのは、酒飲みにとって至福の時間である。騒ぎながら誰かと酒を飲むのももちろん楽しいが、ひとり沈んで酒を飲むのも上質な時間にはちがいないからだ。

そんな私の気分をどんな色からでもブルーに塗り替えてしまう、ほどよくアダルトな曲をいくつか紹介したいと思う。決して自殺願望が芽生えるような陰鬱とした曲ではなく、割に軽やかな曲調の中で悲恋を歌っているからこそ、心がすっと攫われてゆくものだ。

ロング・バージョン / 稲垣潤一


稲垣潤一 ロング・バージョン

さよなら言うなら今が
きっと最後のチャンスなのに
想いとうらはらな指が
君の髪の毛かき寄せる

 愛していない女を愛することのむなしさを表現した曲である。さよならを言うのは決して簡単なことではない。さよならを言うということは、自分が悪者になることへの片道切符であるからだ。人はどうしても傷つくことを先延ばしにして、明日の自分に何もかも託してしまう。けれどもそれは、いつか来る終りの時の悲しみを、一層深めるだけの行為である。分かっていながら、人は強くなれない生き物なのだけれど。

 

埠頭を渡る風 / 松任谷由実


埠頭を渡る風 2004年逗子マリーナラストライブ

 正面を向けない恋を、吹き抜ける風のような曲調に乗せて歌った一曲である。

ユーミンの曲の中では、いちばん好きな曲である。

地元にいたころ、行きつけの料理屋でよくかかっていて、思わず耳を傾けたのを憶えている。

steam.hatenadiary.com

 

スタンダード・ナンバー / 南佳孝


南 佳孝 「スタンダード・ナンバー」

 薬師丸ひろ子の『メイン・テーマ』というタイトルの方が、一般的には認知されているかもしれない。彼女の曲が女性目線で歌われているのに対し、この曲は男性目線になって一部歌詞が変わっている。昔はこうしてアンサーソング的なものが度々作られる時代だった。遊び心が効いていてとても好きだ。

女性バージョンが、いわゆる悲劇のヒロインであるのに対し、男性バージョンはさらりとかっこつけて歌い上げている中に、その女性の傷心に気づきながらも気づかないふりをしているという、どうにも救いようのない仕上がりになっている。悲しみを表現できる人は強いのだ。悲しみを誰にも打ち明けられない人の方が、きっといつでも辛い思いをしている。

 

恋人も濡れる街角 / 中村雅俊


恋人も濡れる街角 1984 live version

中村雅俊の代表曲である。作詞作曲は桑田佳祐

歌詞とメロディーのセンスが、もうこの上ないほどに絶妙で、こんな曲を作ってくれたという事実だけで私は身悶えして雨上がりのアスファルトでばたばたと寝そべりたい思いである。

エロティックな歌詞のあいだに、失恋した孤独な男を描いている。

 

さらばシベリア鉄道 / 大瀧詠一


さらばシベリア鉄道 / 大滝詠一

大瀧詠一の声はカクテルのようだ。爽やかさの中に、甘さ、酸っぱさ、ほろ苦さがあって、おまけに海の色をしている。

大瀧詠一松本隆のコンビは、売れ線でありながら詩的な曲をつくるから反則だ。

 

裏切りの街角 / 甲斐バンド


裏切りの街角 甲斐よしひろ

甲斐バンドの代表曲。このころがいちばん甲斐よしひろの声が乗っている気がする。目をつぶれば雨の街が浮かんでくる、珠玉の一曲。

 

全部、君だった / 山崎まさよし


山崎まさよし / 全部、君だった

昭和歌謡至上主義な私は、最近の曲なんて全部クソだ、特に歌詞がクソだ、と仄かに偏見を持ち始めていたんだけれど、中学生のころにハマっていた山崎まさよしの曲を聴き返してみたら、まるで文学のような美しい歌詞の世界にどっぷりと浸ることができた。

淋しさを表現するのに、研ぎ澄まされた表現はやはり必要である。

 

さて、今夜も酒がうまい。

憂鬱を共有したい人は、いつか一緒に飲みましょう。

ちなみに、ここに挙げた曲の半分くらいが、私のカラオケのレパートリーだったりする。

今年あなたはスナックでどんな曲を歌いますか

あなたの十八番は?と訊かれると困ってしまうが、知らない人の前でもまず歌いたい曲というのはいくつか存在する。そのひとつが風の『22才の別れ』である。

風というバンドはかつてフォークソング全盛期のかぐや姫伊勢正三がやっていたバンドである。バンド自体の知名度は低く、『22才の別れ』がかぐや姫の楽曲だと思っている人も少なくないのではないだろうか。

そんな『22才の別れ』であるが、度々CMソングなどにも起用されており、おそらく誰も耳にしたことがあるはずだ。ちなみに有名な『なごり雪』も伊勢正三の作った曲であり、それぞれ男性の視点と女性の視点から歌われた曲である。

 


二十二才の別れ

変わってゆく自分、一方で相手には変わらずにいて欲しいと願う、このやりきれなさ。思い出だけはどうにか自分の中で守っていきたいという。人はどうにも大人にはならなければいけないらしい。ずっと子供のままでいられたら……誰もそう願ったことがあるのではないだろうか。

私は次にスナックへ行くことがあったなら、この曲を歌おうと思う。そうして泣こうと思う。涙を流してスナックのテーブルを濡らすのだ。乾き物が乾き物でなくなるとき、私はまたひとつ思い出から遠ざかる。

ジュリーのようなエロい男に憧れる

エロいと言われる男に憧れる。それは決して飲み会の席で下ネタを言って許されるというようなアドバンテージが欲しい訳ではない。スカートめくりをして大目に見られたい訳でもない。いいや、それらが許されるならそれに越したことはないけれど、私が憧れてしまうのは、女性が思わずうっとりしてしまうような「エロさ」をその人自身が持っているという状態のことを指している。もっとも私は女性の気持ちなんて判らないから、すべて憶測で語ることしかできないんだけれど、少なくとも私は性別の壁を超えてそのエロさを滲ませている男をひとり知っている。それはジュリーこと沢田研二である。

沢田研二といえば昭和の大スターだ。私は二十代だけれど周りの友人は私がカラオケでいつもジュリーを歌うからその名は知っている。だが、触れる機会のないままに育ってきたほとんどの若者は、ジュリーのことなんてまるで知らないのではないだろうか。

あの頃のアイドルが総じてレベルが高かったというのは、単なる年配者の懐古主義ではないだろう。今にしてYouTubeなどで昭和時代のテレビ番組の映像を観てみると、そのオーラの違いに度肝を抜かれる。たぶん無言でステージに突っ立っているだけでも観客に息を飲ませるであろう美貌をして、姿を隠していても聴き惚れさせるような歌声を持っている、そうした反則的存在がジュリーなのである。私はこの文章をひどく酔っぱらった状態で書いているから、おおよそこのあたりで文章があられもない方角へ破綻してしまいそうだから、そろそろそのジュリーの魅力については動画とともに紹介するのがよいだろう。


沢田研二💃サムライ✩1978.1.21R

とてもかっこいい。かっこいいとしか言いようがない。私はこの年にして未だにジュリーに密かに憧れながら、スナックではいつもジュリーを歌うんだけど、最近めっきりスナックに行かなくなってしまったから、それも叶わなくなっている。たとえば女の子が金髪のナイスバディの外国人のねーちゃんを見て、「この人エロい」と思うのと同じような感覚で、ジュリーは男から見てもエロい。そうしてジュリーを見るたびにエロいという言葉がどんどん明るいものになってゆく気がする。人は、エロくあろうとすることが、実は重要なんじゃないかしら。そんなことを思いながらジュリーの動画を見て酒を飲む四月の末。

どんどん何もできなくなってゆく自分が嫌で

仕事を始めてもうすぐ二ヶ月が経とうとしている。仕事をしていなかった頃の私は時々ハロワに行くことを除けば、毎日ブログを書くくらいしかすることがなくて、ブログを書くことでネット上に自分が今日生き通したという記録を書き残していないと、生きているという実感がまったく湧かなかったのである。ブログを書くことで日銭を得られるわけでもないし、明日の夕餉にはなんの好影響ももたらさぬまま私は何かにせき立てられるように毎日ブログを書くことを義務のようにさえ感じていた。

それが何、いざ就職してみればやはり私もそこいらの一社会人と変わりのない存在であったということだ。私は自分が人一倍情熱を持ち合わせている稀有な青年だと自負していたけれど、たった一日八時間の労働に疲れ果てて、家に帰りつけばパソコンを開くことすらままならない脆い人間であったことを情けなく思っている。夜が深い青に染まり始める頃、いつも中央総武線の下り列車に乗って揺られて帰る。満員電車の息苦しい人混みの隙間から、夜の街を眺める。「家に帰ったら小説を書こう」そんな風に思いながら私は揺られる。

夜道はいつもひとりぼっちだ。前を歩くオフィスレディや女子高生や、そのほかあらゆる美しい人々の艶やかな後姿に、夢を見ているような気分になりながら、玉川上水沿いを歩く。川岸に腰掛けた若い男女がふたり、囁き合っている。それは密やかだが性の香りがして、それでいて清潔だった。真っ暗になる直前の、この、狂気と退廃の狭間にある時間帯がいちばん好きかもしれない。私以外のみんなも、この夕闇に命を握られているような気分になるからだ。みんな一緒に死ぬのなら、それは平和であると思う。

そんなことを考えながら歩いているといつのまにか家に着いている。郵便ポストをチェックして、エレベーターを上がって、鍵を開けてドアを開く。暗闇にただいまと心の内でつぶやく。暑い、なんだかとても暑い。上着を脱いで、ベッドに倒れ込めば、私はもう酩酊を欲している。冷蔵庫を開けて、ビールの栓に爪をかける。ああ、今夜も世間を揺るがす文学は書けそうにない。一行だって筆を走らせることができそうにない。私は今日も負けたのだ。疲労に負けて、労働に負けた。これが大人か。なんと口惜しい。やらないでいいことをやれるだけの情熱がなくなったとき、私は「あの頃の私」以外のすべての少年にとっての、立派な大人、というものになってゆくのだろう。

 

今週のお題「私がブログを書く理由」