或るロリータ

A Certain Lolita

ポケモンに支配された街の中で

街がいっぺんに明るくなった。明るくなりすぎてしまった。憂鬱なものはみんな騒々しくなり、病もみんな健康になり、あらゆるビルとビルの隙間にまで光が当たるようになった。街に陰などどこにもなくなった。昼が永遠に終わらなくなった。

こんなに天気のよい真昼には外に出てみようかと、陽射しの中へ飛び出してみれば、そこらじゅうにうつむいて歩く人々。緑色の画面を切羽詰まった顔で見つめながら歩いている。夫婦もカップルも赤ちゃん抱えたギャルメイクの母親も、スーツ姿のサラリーマンも休憩中の警備員も、みんなおんなじだ。この街は電脳世界になってしまった。これまで日陰に隠れていた人々もみんな公然へと躍り出て、そうして感情を持たない機械仕掛けのようにそこらじゅうを歩いている。私はゾンビに襲われた街の中を、ひとり駆け抜けるような気分だった。

ポケモンGO』というものの存在を知らなかったわけではない。けれどそんなものは一部のゲーム好きな若者たちがまっさきに飛びつくだけのことだろうと思っていたのだ。何もテレビで大きな地震が起きたあとのように連日そのことを報道しているわけでもないし、選挙通知のように全家庭に手紙が届くわけでもない。だからなおさら一部で盛り上がって終わってゆくひとつのコンテンツに過ぎないと思っていたのだ。

だけどその朝、私は外に出た途端、世界がまるで昨日までとちがっていることに気がついた。そこにいるすべての人々が、街そのものが、ポケモンのためだけに存在しているような気がしてしまうのだ。彼らは何事もないふりをして私に微笑みかけながら、けれどそれは円滑にポケモンを捕獲するためのつくり笑い。本当はもうそこには感情などなくて、ただポケモンだけが彼らにとって最優先の事項なのだ。私のことを知っている人間など、この街にはひとりもいなくなった。

私は友人の家へ駆け込んだ。「大変だ……、」そう言いかけて、彼のスマホの画面の中でポケモンがうようよ動いているのが目に入った。彼は「どうしたの?」と心配するふりをしながら私の方を向いたが、その目の中にきっと私は映っていない。彼はもう私のことなど忘れてしまったのだ。

私はひとりさまよい歩いた。おなじようにさまよい歩く人たちがたくさんいる。片手にスマホを持ってさえいれば、彼らも私を仲間だと思い込むだろう。そうすることで私も「世間」の一部になったふりをすることができるのだ。もう、この街で本当に感情を残しているのは私ひとりかもしれない。感情を残して生きるということは、時代に取り残されてしまうということだ。すべての人類を乗せて出航しようとする船を、ひとり港に立って見送るということだ。もう、ここで生きる道などないのかもしれない。けれど私は、変わってしまうことが怖かった。

家に帰って、私は原稿用紙に向かった。何か書こうと思ったが書けなかった。友人や妹から「ポケモンGOやってる?」そんなラインが次々届く。私はスマホを放り投げて眠った。

目が醒めると真夜中だった。無性にのどが渇いて、コンビニへビールを買いに出た。すると、こんな真夜中なのにうろついている人が何人もいる。たった数百メートル、コンビニへ行くあいだにも、やつらは私の世界を侵してくるのだ。コンビニへ着くと、店員はいなかった。奥の休憩室を覗いてみると、緑の画面をじっと見つめて微笑む青いストライプの少女が見える。私はカウンターに百五十円を置いて店を出た。店先の国道では、頭から血を流して倒れる男性と、フロントガラスの割れた車が見える。倒れた男性はアスファルトに寝そべりながら血だらけの指でポケモンを捕まえている。運転手と思わしき男性も車に凭れてポケモンを捕まえている。気づけば交差点のあちこちでおなじような状況が起きている。信号はあやしく点滅を繰り返している。コンビニの裏では若い女性が裸にされて男にひどい暴力を受けている。けれど痛みよりポケモンに夢中である。いつしか夜空は真っ赤に燃えていた。朝焼けが来たのかと思った。けれどそれは街じゅうで起きた火事のせいらしかった。誰もそのことに気づいているひとはいない。私もビールを飲み干して、何も気づかなかったふりをして家へ帰った。そうして原稿用紙をぐしゃぐしゃに丸めて鉛筆を折り、枕元に落ちているスマホを拾って、そっとポケモンGOのダウンロードを開始した。


Netflix火花お題「夢と挫折」

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人に何かを伝えるということの難しさ

人は、自分のためだけに発せられた言葉の真理にはなかなか気づかないものである。学問にしろ恋愛にしろ、自分のためだけに用意された言葉、作られた言葉は、案外心に響かない。人は、日常の中からしか学ぶことのできない生き物なのだ。

だから本当に伝えたいことを相手に伝えるということはとても難しい。

たとえば政治に熱心な若者がいたとして、周りの友達や恋人とも国の将来への不安を語り合い、希望を導き出すための議論をしたいとする。けれど、仲間たちは政治になど無関心。そんなとき、どんなにその若者がひとりで熱く語り始めたとしても、その行為は場を白けさせる効果しか生まないだろう。考えてみればその若者だって、始め政治に興味を持ったとき、きっと誰かに強制されたわけではないだろう。偶然演説を聞いたのかもしれないし、政治家の著書を目にしたのかもしれないし、ネットで特集が組まれていたのかもしれない。きっかけは何であれ、「この人について知ろう」と身構えた状態ではなく、極めてフラットに、日常の中で、心を許している状態の中で入ってきた情報だからこそ、胸を打たれるものがあったのではないか。だとすれば、飲み会の席などで情熱を持って仲間たちの思想を正そうとするのは、見当違いな手段なのである。本当に行うべきは、日常の中で、自然と彼らが道を踏み外すきっかけを用意することなのである。

たとえば一緒にテレビを見ているとき、ザッピングのふりをしてちょうど政治番組を流してみたり、積ん読の一番上におすすめの書籍を目につくように置いておいたり、だけど決して自分から相手におすすめをしてはいけない。その人の人生の中で、きわめて偶然に、運命のように手に取ったものから衝撃を受けるということが大切なのである。

もちろん誰かに薦められてそのままのめりこんでしまう人も中にはいるだろう。だがそういう人は遅かれ早かれ何かしらの洗脳を受けて受動的に自分を構成してゆくものである。眼を向けるべきはそのほかの大多数の存在だ。あなたが今一番好きなアーティストに、最初にはまったきっかけはなんだったか、考えてみるといい。友達に「このアルバムめっちゃいいから聴いてみて」と渡されたことだろうか。そうかもしれない。けれど、私はちがう。私はこれまで、好きになったもののほとんどは、自分から見つけたものばかりだ。たとえば最近好きになってライブに行ったインディーズのバンドがあるんだけど、それはツイッターで誰かがつぶやいていたものを偶然見つけてそこから音源にたどり着いてはまったという流れ。これは一見他人に影響されているように思えるのだが、そうではない。決してその人は、私におすすめをするためにつぶやいていたからではないからだ。誰かを経由したとしても、間接的に、そして自らその情報にたどり着くということがここでは重要なのである。

私は普段歌謡曲ばかり聴いて、古い小説ばかり読んで、「趣味は音楽です」とも「趣味は読書です」とも名乗れないほど共感を得られる相手のいない悦びを持っている。だからときどき誰かと肩組むのが恋しくなって、カラオケで私が歌った曲に対して「うわー、俺その曲めっちゃ好きだわー」みたいな声があがる日が死ぬまでにくればいいなと思っているんだけど、かといってアルバムを渡したところで聴いてくれるような純真な友達は一人もいないし、カーステレオでさりげなく流していてもみんなおしゃべりに夢中で気づかなかったりで、一体人に何かを伝えることはどうしてこんなに難しいんだろうと思った。毎日毎日その人の家に行って見えるところにCDを置いて帰ろうかなとか考えても、そこまでするともはや偶然の出逢いを装うことはできないし、なんだかぐしゃぐしゃにして捨てられるのがわかっていながら駅前でチラシを配る人の気分だ。

思想に関しても同じことで、友人が「俺はこういうの絶対許せないわ」という趣旨の発言をしたとき、私が仮にそのことについて無頓着だったとしても、「別にいいんじゃね」という発言は控えるようにしている。なぜなら私にとってどうでもよくても、許せないと思っている人間にとっては、それが許せないと思えない人間の考えが理解できないからである。たとえそこで議論をぶつけて、どちらかがどちらかを言い負かしたところで、さて世間に何か変化があるだろうか。何の一石も投じることはできていない。だとすれば私はこの狭い席でお互いの勝敗を気にかけて討論番組の真似事をすることよりも、世間の憂さには目もくれず猥談にでも花を咲かせて少しでもうまい酒を飲むことの方が、それぞれの人生にとって平和的なのではないかと思うのである。そうして個々が平和を抱えていけば、その集合体としての世間も、結果的に平和になるのではないか。この世から戦争なんてなくなるのではないか。と思ったけどそんなことはないか。

鎌倉の紫陽花を見に行ったら夏が始まった

仕事を始めてからなにかと忙しいこと続きで、ろくに休めもしない休日が続いているところである。無尽蔵に湧いてくるやりたいことリストに、どうにか優先順位をつけつつ、ふと、念願の鎌倉へ今年も行けていないことに気づいた。毎年毎年、鎌倉の紫陽花に憧れつつ、上京してようやくその夢が叶えられる状況になったというのに、すっかり後回しのまま、六月が終わろうとしていた。

今週を逃したらきっともう行くチャンスはないと思い、無理矢理に予定を空けて私は鎌倉へと乗り込んだ。あいにくの曇天で、青空も見られなかったし、おまけに海は荒れ放題。だけどなんとか紫陽花を見るという目的は達成した。乗ってみたかった江ノ電にも乗れたし、訪れた場所が思いの外田舎で、故郷を少し思い出したりした。

正直、今年が始まってまだ半年しか経っていないという事実に驚きを隠せない。失業、引っ越し、転職とつづき、走り続けた半年間であった。この半年でいくつも歳をとったような気さえする。これまでの人生は、何も考えずにただ過ぎていった時間の早さに恐怖し、焦燥するばかりだったが、今、ようやく歳月と肩を並べて走っていると思えるのだ。けれど、こんなに早いスピードで走りつづけなければ、時の流れには追いつけないのかと思うと、いったい世の中のどれくらいのひとが、時代においてけぼりにされずに済んでいるのか疑問になる。私だって、そのうちまた、走り疲れて、立ち止まってしまうかもしれないし。

もうずっと、一週間があっという間に終わってしまうという体験をしている。そして、一度身体を横たえたら、二度と起き上がれなくなりそうで怖い。私は知らず知らずのうちに、これまで掬い損ねてきた青春の影を、必死で取り戻そうともがいているのだろうか。ゴールなんて存在するのかもわからない。けれど振り返ってこの半年を、私は後悔することなく生きることができた。だから走り続けることは決して間違っていないのだろう。

毎年、毎年、終わるたびに後悔してきた大好きな夏という季節に、これから立ち向かうのだ。今年こそ。

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今週のお題「2016上半期」

自分が今、幸せなのかが分からない

五月がもうすぐ終わる。夏がくるのだ。私は夏が好きだ。このまま走り続けていたら、夏なんてあっという間に訪れて、そうしてあっという間に過ぎてゆくだろう。そう思うと、一体どういう準備をして夏を迎えればよいのか分からなくなってしまった。

新しい仕事は楽しい。やりがいもある。賃金は安いけれど、これまでの私の人生で邪魔でしかなかった労働というものが、今や生きる活力にさえなりつつある。しかしふと、ひとりの夜になると、なんだか労働にすべてを注ぐことに疑いを持ち始めてしまう自分がいる。

大前提として労働は生きるために、生活するために行うものであろう。その労働が、自分を成長させるものであり、自分を楽しませる新鮮なものであったなら、より素晴らしいことには違いない。けれども労働が一日のすべてを背負ってしまったら、それは果たして正しいと言えるのだろうか。

ひょっとしてこの激しく鮮烈な毎日が永遠に終わらないのではないかという気がしておそろしくなる。気づけばお気に入りの革靴もぼろぼろだ。眠い目をこすりながら仕事をし、棒のような足を引きずって家に帰り、作り置きのカレーを掻き込んで、こんな風にしてときどきブログを書き、風呂に入り、布団に倒れ込む。なかなか寝付けない。耳元を掠めて飛ぶ小蝿のせいだろうか。寝付けないことに焦り、苛立ち、それでもどうにか眠りに就く。夢を見る。いつもよくない夢だ。悪魔も幽霊も登場しない、人間だけの悪夢を見るのだ。だから私は眠りが浅い。深夜、何度も目を醒ましては、また眠り、どうにか朝を迎える。結局また眠いまま、仕事に出かける。そんな毎日。

酒をやめた。外食もやめた。何もかもやめてしまおうと思っている。健康になりたい。清々しく生きてみたい。夜を愛して生きるのは、少しのあいだ休憩だ。そうしたら報われるだろうか。真昼の東京で胸を張って生きられる人間になれるだろうか。なんて、嘘だ。ほんとうはそんな人間になりたいわけじゃない。ただこうして、身体じゅうに鉛をまとわりつけたまま生きるのは、心まで寒くさせるから、夏がくるまえに衣替えをするだけなのだ。

 

 今週のお題「わたしの一足」

川の底からこんにちは [DVD]

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八代亜紀はなんて可愛いんだ

そんなことを言うと白い目で見られるのが世間である。

しかたがない。彼女は私よりずっとずっと年上だからだ。だけど八代亜紀の目つきが今でも色気を備えているのには間違いないし、歌声の魅力がいつまでも衰えないのも事実である。


Marty Friedman with Aki Yashiro

こんな動画を見つけた。

かっこよすぎて思わず三度見返した。

彼女の歌声がもともとどこか尖っていたのもあるし、彼女がジャズの歌い手をしていたこともある。ともかく彼女はこのようにして、単なる一演歌歌手というよりは、日本歌謡文化の女王といえる存在と言っても過言ではないのだ。舟歌を聴く前から酔っぱらっている私には、これ以上多様な表現をもって彼女の魅力を伝えうることはできないけれど、ここに紹介する動画を見ていただければ、その魅力は存分に伝わるものであろう。

 

さて彼女の曲の中で、私がもっとも好きなのは『雨の慕情』である。


雨の慕情 / 八代亜紀

心が忘れたあの人も
膝が重さを覚えてる

 こんな歌詞をさらっと歌っていいものか。

こんなに詩的で切迫した歌詞は、誰の目にも触れずに埋もれて行くのがこの国ではなかったのか。

雨の慕情はその知名度に反して、こんなに胸を打つ歌詞を備えている稀有な曲のひとつであると思う。懐かしの歌番組などで流れるたび、私は少し覚悟をする必要があるのだ。こんなに悲しい歌詞を、こんなに悲しい歌詞を、雨の日でもないのに聴きたい自分がどこかにいる……。

悲しい恋の歌を聴きたい夜もある

幸福より憂鬱が酒の肴になることは間違いない。今夜も私はビールにウイスキー、それでは飽き足らず安物の焼酎を煽りながらネットサーフィンに明け暮れている。それも悲しい恋の歌ばかりを探し求めて。暗い気分に浸れるのは、酒飲みにとって至福の時間である。騒ぎながら誰かと酒を飲むのももちろん楽しいが、ひとり沈んで酒を飲むのも上質な時間にはちがいないからだ。

そんな私の気分をどんな色からでもブルーに塗り替えてしまう、ほどよくアダルトな曲をいくつか紹介したいと思う。決して自殺願望が芽生えるような陰鬱とした曲ではなく、割に軽やかな曲調の中で悲恋を歌っているからこそ、心がすっと攫われてゆくものだ。

ロング・バージョン / 稲垣潤一


稲垣潤一 ロング・バージョン

さよなら言うなら今が
きっと最後のチャンスなのに
想いとうらはらな指が
君の髪の毛かき寄せる

 愛していない女を愛することのむなしさを表現した曲である。さよならを言うのは決して簡単なことではない。さよならを言うということは、自分が悪者になることへの片道切符であるからだ。人はどうしても傷つくことを先延ばしにして、明日の自分に何もかも託してしまう。けれどもそれは、いつか来る終りの時の悲しみを、一層深めるだけの行為である。分かっていながら、人は強くなれない生き物なのだけれど。

 

埠頭を渡る風 / 松任谷由実


埠頭を渡る風 2004年逗子マリーナラストライブ

 正面を向けない恋を、吹き抜ける風のような曲調に乗せて歌った一曲である。

ユーミンの曲の中では、いちばん好きな曲である。

地元にいたころ、行きつけの料理屋でよくかかっていて、思わず耳を傾けたのを憶えている。

steam.hatenadiary.com

 

スタンダード・ナンバー / 南佳孝


南 佳孝 「スタンダード・ナンバー」

 薬師丸ひろ子の『メイン・テーマ』というタイトルの方が、一般的には認知されているかもしれない。彼女の曲が女性目線で歌われているのに対し、この曲は男性目線になって一部歌詞が変わっている。昔はこうしてアンサーソング的なものが度々作られる時代だった。遊び心が効いていてとても好きだ。

女性バージョンが、いわゆる悲劇のヒロインであるのに対し、男性バージョンはさらりとかっこつけて歌い上げている中に、その女性の傷心に気づきながらも気づかないふりをしているという、どうにも救いようのない仕上がりになっている。悲しみを表現できる人は強いのだ。悲しみを誰にも打ち明けられない人の方が、きっといつでも辛い思いをしている。

 

恋人も濡れる街角 / 中村雅俊


恋人も濡れる街角 1984 live version

中村雅俊の代表曲である。作詞作曲は桑田佳祐

歌詞とメロディーのセンスが、もうこの上ないほどに絶妙で、こんな曲を作ってくれたという事実だけで私は身悶えして雨上がりのアスファルトでばたばたと寝そべりたい思いである。

エロティックな歌詞のあいだに、失恋した孤独な男を描いている。

 

さらばシベリア鉄道 / 大瀧詠一


さらばシベリア鉄道 / 大滝詠一

大瀧詠一の声はカクテルのようだ。爽やかさの中に、甘さ、酸っぱさ、ほろ苦さがあって、おまけに海の色をしている。

大瀧詠一松本隆のコンビは、売れ線でありながら詩的な曲をつくるから反則だ。

 

裏切りの街角 / 甲斐バンド


裏切りの街角 甲斐よしひろ

甲斐バンドの代表曲。このころがいちばん甲斐よしひろの声が乗っている気がする。目をつぶれば雨の街が浮かんでくる、珠玉の一曲。

 

全部、君だった / 山崎まさよし


山崎まさよし / 全部、君だった

昭和歌謡至上主義な私は、最近の曲なんて全部クソだ、特に歌詞がクソだ、と仄かに偏見を持ち始めていたんだけれど、中学生のころにハマっていた山崎まさよしの曲を聴き返してみたら、まるで文学のような美しい歌詞の世界にどっぷりと浸ることができた。

淋しさを表現するのに、研ぎ澄まされた表現はやはり必要である。

 

さて、今夜も酒がうまい。

憂鬱を共有したい人は、いつか一緒に飲みましょう。

ちなみに、ここに挙げた曲の半分くらいが、私のカラオケのレパートリーだったりする。

今年あなたはスナックでどんな曲を歌いますか

あなたの十八番は?と訊かれると困ってしまうが、知らない人の前でもまず歌いたい曲というのはいくつか存在する。そのひとつが風の『22才の別れ』である。

風というバンドはかつてフォークソング全盛期のかぐや姫伊勢正三がやっていたバンドである。バンド自体の知名度は低く、『22才の別れ』がかぐや姫の楽曲だと思っている人も少なくないのではないだろうか。

そんな『22才の別れ』であるが、度々CMソングなどにも起用されており、おそらく誰も耳にしたことがあるはずだ。ちなみに有名な『なごり雪』も伊勢正三の作った曲であり、それぞれ男性の視点と女性の視点から歌われた曲である。

 


二十二才の別れ

変わってゆく自分、一方で相手には変わらずにいて欲しいと願う、このやりきれなさ。思い出だけはどうにか自分の中で守っていきたいという。人はどうにも大人にはならなければいけないらしい。ずっと子供のままでいられたら……誰もそう願ったことがあるのではないだろうか。

私は次にスナックへ行くことがあったなら、この曲を歌おうと思う。そうして泣こうと思う。涙を流してスナックのテーブルを濡らすのだ。乾き物が乾き物でなくなるとき、私はまたひとつ思い出から遠ざかる。