或るロリータ

A Certain Lolita

初恋が叶わなかったすべての大人に捧ぐ

昔にもどってやり直したい。そんなことばかり考えていた頃があった。まだ世間から見れば青春と呼ばれる季節に身を置いていた頃のことだ。

子供と大人との境目がはっきりと存在しているはずはなくて、人は段階的に大人になってゆくものだと思うけれど、少年時代の延長線上にあるはずの今の自分が振り返っても、なぜだかあの頃と今とが地続きにあるとは思えない。

過去の自分に対して「子供の頃」という形容を初めて使ったのは、中学二年生のときだろうか。私はそれまで自分自身が子供であることに何の疑いも持たなかった。親に守られ、実家の中であたたかく暮らし、毎日学校へ通う。そのことに不満も納得もなかった。それが世界のすべてだと思っていたからだ。

あるとき急に人と話せなくなった。それまでも授業中にクラスメイトの前で発表したり、好きな娘と二人きりになったり、特定の状況においては緊張して声がふるえることはあったけれど、決して毎日何かに怯えながら暮らすようなことはなかったし、自分の弱さを恥じながらも人と接することは好きだった。私はどこまでも目立ちたがり屋で、だけど目立つほどの度量もない自分が悔しくて、もがいてばかりいた。

そんな性格が災いしたのだろうか。あがり症の最たる原因は、「失敗するのが怖い」=「人に良く見られたい」というところにあると聞いたことがある。私は人に良く見られることにとにかく固執していて、人前で先生に褒められてクラスメイトから尊敬のまなざしで見られる瞬間がいちばん幸福だった。学校行事にはとにかくムキになって取り組んだし、何かあれば少しでも面白い発言をしようと努めた。クラスで人気者のサッカー部や野球部のやつらや、生徒会長を務めるような器のやつには到底敵わなかったが、それなりに自分を愛せるくらいの評価は得られていたはずだ。

だからこそ、中学生になってから、徐々に勉強や部活動の成績、それに容姿や流行へのアンテナといった、真っ当な部分に評価の軸が移り始めると、どこかで取り残されている感覚がし始めた。小学校のあのにぎやかな教室の中で、宿題を忘れるバカなやつ、給食を何杯もおかわりする太ったやつ、運動神経抜群の爽やかなやつ、計算だけは得意なやつ、やたらと字の上手いやつ、バレエを習っていて身体のやわらかいやつ、そういった多種多様なキャラクター達が集まった個性の許される空間、一側面だけで愛されるか否かが判定される単純な組織のあり方は終わりを告げたのだ。

大人になればなるほど人は総合点で評価されるようになって、それは私にはひどくつまらないことだった。周りと同じ基準をクリアしつつ、その中でわずかな個性を飾りつける。それが上手な生き方とされ、さらに恋愛というものが遠いメルヘンからいっぺんに明るみに出て、それ以降恋愛が生涯を通して課される大きな宿題となる。

小学生の頃、私には好きな女の子がいた。近しい友達以外には公言していなかった。なぜなら小学生時分の、特に男子にとって、女子はいわば敵対する存在で、女子と仲良くするだけで指をさされるものだったからだ。今思えばそこには嫉妬に近い照れ隠しのような、巨大な同調圧力が働いていたのだろうが、とにかくその頃の私にとって好きな女の子がいるなんてことは、口が裂けても認めてはならないことなのであった。

だからその娘と二人きりで逢ったときには、いけないことをしている気持ちになって、だけどそこには確かによろこびがあって、だけどそれは背徳感のまじった甘苦いよろこびで、だから周りの友達に対して優越感も何もなかった。それが中学になった途端、今度は「恋人の有無」が一気に最強のステータスになり、これまでひた隠しにしていた恋心は、打ち明けても構わないものとなった。だが、長年に渡り無理矢理に心を押さえつけて過ごしてきた少年が、急に自分の恋心との付き合い方を変えられるものだろうか。彼女との関係に何かしらの進展を起こしたいと思いつつも、その術がわからず、相変わらず私は「女子と話すことが恥ずかしい小学生」という忌まわしい貨物を積んだまま、青春という長いトンネルに突入した。

中学一年生のあいだは、同じ学年の中で恋愛関係に発展する者もほんの一組二組で、そのたび学年じゅうのニュースになって、羨望の混ざったひやかしの目線の方が強かった。二年生になるとカップルの数も増えて、もちろんそうでない者の方が多数派ではあったのだが、どこかに感じている劣等感のためか、色恋沙汰をからかう声は少なくなった。そして三年生にもなると、恋愛経験の有無で確実に差が出てくる。未経験の者は、「そもそも付き合うってなんだろう?」「あいつらは付き合ってどんなことをしているのだろう?」そんな疑問ばかりで勉強も手につかず、何もかもが未知の世界のまま身体だけが成長してゆく淋しさにうろたえる。一方で既に特定の相手のいる者は、もはや初めて出来た恋人の存在というものに浮かれるだけの期間を経て、次に将来のことを考え始める。すぐに結婚という言葉を持ち出すのはまだ中学生らしいと微笑ましくなるかもしれないが、一度くらいそうして責任の所在を自分の中にも感じることのできる経験というものは、必ず人を強くするものだ。

その時期になると、仮に手を繋いで歩くふたりに口笛でも吹こうものなら、「何子供みたいなことやってんだ……」と呆れられることは必至で、大人になる方法も分からない者の前で、大人になるための準備に頭を悩ませている者もいるという極端な構造が完成する。もちろん私は前者だった。

昔にもどってやり直したい。もっとも強くそう思っていたのはこの頃だろう。「中学生ごときで何そんなこと言ってるんだ」そう思われても仕方がない。現にその頃親からよく「人生まだ長いんだから、悲観する必要はない」なんて言われていたし、今思えばその通りなんだけど、それでもいちばん時間を巻きもどしたかったのがあの頃だということは変わらない事実である。

幼稚園か、せめて小学生にもどれたらいいのに。いつもそんなことを思っていて、でも、もどれたら何をやり直したいかというと、それは勉強でも運動でもなく、好きな娘との関係だった。どこかの分岐点で別の道を選んでいたら、きっと今あの娘が隣にいて、私だけに微笑みを向けてくれていたのだろう、そんなありもしないことを考えては憂鬱にベッドに沈み、高校に入る頃にはもう、私はすっかり青春を捨て去った人間になったつもりでいた。

もどりたい。けど、もどれない。それがいちばん辛かった。私が欲しいものはお金でも名声でも大企業への就職内定でもなく、過去へもどることなのだから。そして、それはどうしたって手に入りっこないってわかっていたのだから。

孤独に磨耗されながら私は高校を卒業した。それから就職して、流石に初恋の思い出なんて薄れてしまったが、やはりどこかに「もどりたい」という思いはいつもあった。

だが、最近、「もどりたい」と思う回数が極端に減っていることに気がついた。強いて言えば、故郷にもどりたいと思うことはあるが、過去にもどりたいと思うことはほとんどない。仮にもどったとして、今の状況と同じか、もしくはそれ以上の状態に持っていくために、また同じような努力をして、同じような選択肢を間違えないように選び続けて、そんなこと考えていたら途方もなくて、とてももどってやり直す気になどなれないのだ。本当はもう、もどりたくなんてないのかもしれない。

私が欲しかったのは、あの娘自身ではなかったのだ。私が欲しかったのは、何かをやり遂げたという感覚。引きずっていると思っていたのは、あの娘を手に入れられなかったことではない、何もせずに終わってしまった自分への不甲斐なさだ。後悔は消せないものだと思っていた。確かにそうだ。だが、やり直せない思い出の上から、やり直したくない思い出を上塗りすれば、もう過去になんてもどれなくなる。前に進むしかなくなるのだ。私は知らず知らずのうちに、そういう道を歩んでいたのかもしれない。

今、魔法が使えたなら、私はもうあの頃になんてもどらないだろう。そんな大層な魔法なんて、使おうにも手遅れなのだ。それでも何か魔法を使うとすれば、出口の見えないトンネルの中でもがき続けていたあの頃の自分に、一言だけこう伝えたい。「未来はそんなに悪いものじゃない。安心して悩んでいいよ」と。

 

 今週のお題「もしも魔法が使えたら」

秒速5センチメートル [Blu-ray]

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オンとオフが切り替えられない人生になってしまった

なんて言うと、大袈裟すぎるだろうか。しかし、近頃の私の悩みといえば、ほぼそれに尽きるといってもいい。中学生以降、私は学校なんて行かなくて済むなら行きたくないと思うたぐいの人間だった。部活も勉強も、趣味でさえ、一筋で打ち込むということを知らずに育ち、そのまま大人になってしまった。だから、会社だって行かなくて済むなら行きたくないという気持ちは今も変わらない。

それなのに、私の生活ときたら、まるでそんな不良人間とは真逆の、労働一色である。なにも会社に忠誠を誓ったいわゆる社畜というわけではないし、かといって生業や生きがいという言葉を使うにふさわしい昔ながらの仕事の鬼と呼ばれるのも的外れだ。それなのに気づけば私は寝ても醒めても仕事のことを考えていて、もはやブルーマンデーに突入したこの絶望的午前三時にさえ、風呂上がりの火照った体で文章を打ちながらもなお、頭の奥底では仕事のことがこびりついて離れない。それどころか頭を空っぽにするために浸かっていたはずのバスロマン入りの湯船にいてさえ、私は仕事のことを考えていた。無心に歯磨きをしていても、頭を洗っていても、深呼吸をしてみても、私の心はスーツを脱がない。

考えようとして考えているわけじゃない。むしろ、考えないように努めている。考えないように努めすぎて、かえって意識してしまっているのか。なんという悪循環。首元に脳波を切り替えるスイッチでもついていればいいのだけれど、楽しい遊びの予定を立てようにも、次の同人誌の小説のテーマを考えようにも、知らず知らずのうちにまた仕事の案件に頭を悩ませている自分がいる。

私の頭の中のラジオはいつもチャンネルが狂っている。どんなに周波数を合わせても混線してくる外国の電波みたいに、四六時中ワーキングマーチが流れ続ける。「あの件は本当に大丈夫か?」「スケジュールは間に合うのか?」不安の化け物が拡声器越しに脅してくる。オールナイトどころか年中無休でマシンガントークは鳴り止まない。

疲れているのだろうか。たまには仕事を休んで家でだらだらしてみたり、どこか温泉旅行に出かけてみたり、いっそ南の島にでも行かなければどうにもならないレベルかもしれない。私の頭に常にあるのは「失敗したらどうしよう」という言葉。悲しいことにこれが教訓のようにどこまでもつきまとってくる。すべての結末を見届けるまで、どうにも安心できない人間らしい。自分ながら厄介だ。

私は夏休みの宿題を最後まで少しだけ残しておく子供だった。得意な科目や、簡単に処理できる宿題だけ夏休みの初日のうちに一気に終わらせ、そこですっかり安心しきって、重大な問題からは目を背けつづける。そのためいつもどこかでその問題が重荷になって、結局何に対しても全力で楽しめなくなる。無論、その問題は八月三十一日になれば否応無しに泣きながら片づくわけであるが。

しかし、仕事となるとそうはいかない。宿題のように、済ませれば終わりではないからだ。今の仕事を片づけたところで、私に長い夏休みは与えられない。生きるためには自ら宿題を探し、宿題をこなし、また宿題を探さなければならない。終わりがあるとすれば、それは仕事をやめるか、人生をやめるときである。

だったらやはり私は「やり残した宿題があっても負担に感じない方法」を見つけなければならないのであろう。それが世の大人たちに課せられたもっとも正攻法な自己防衛手段である限り。私はその手段を一切身につけないまま、ここまで来てしまった。はじめは情熱だけでどうにか片づいていた問題も、なんの鎧も持たない精神がプレッシャーの風にさらされつづけるうち、次第に心身ともにほころびが見え始めた。

お酒に頼ってみたところで、忘れられるのは一瞬だった。すべてを忘れたいなら、体を壊すレベルでお酒を飲み続けなければならないだろう。かといって、薬に頼るわけにもいかない。私の脳内は決して陰鬱な事柄ばかりで占拠されているわけではない。ただ、この社会を生き抜くために用意した兵士の自分が、いつまでたっても武器を置くそぶりすら見せてくれないというだけだ。

好きなことを仕事にすると、好きなことが好きじゃなくなると聞いたことがある。私は決して夢を叶えたわけではないが、ある意味好きなことに少しだけ近い仕事をしている。それがそもそもの元凶なのかもしれない。まったく興味もない仕事をしていたころは、時計の針が定時を回った瞬間に、私は社会人ではなくなった。明確に自分が自分に戻る瞬間があって、次の朝まで社会人である必要などどこにもなかった。あれが幸せだったかといえばそれもまた疑問だが、人生は往々にして加減を知らない。どこまで行っても極端なものである。全力で仕事をすることなんて、実は簡単なこと。問題は、その先で、情熱を飼い慣らせるかどうかだ。情熱に手綱を引かれてしまっては、もはやそれは自分の人生ではなくなってしまう。

「仕事終わりの一杯」が、今の私にとっては「仕事終わり」なんかじゃない。永遠に仕事中の一杯なのだ。眠っているあいだは解放されるのかと思えば、そこにも自由はなく、夢の中にさえ仕事の記憶が侵入してくるのも珍しいことではない。

これが当たり前だというのなら、これが大人だというのなら、私は大人になんてならなくてよかった。歩きつづけることでしか足の痛みを紛らわせない百年単位のマラソンみたいに、昨日の私をかばいながら、今日も私は生きている。何も知らない明日の私に、すべてを押しつける夕暮れが待っていることを知りながら。

古道具店で見つけた中身の読めない「マスク本」にワクワクする

三鷹の小古道具店「四歩」をご存知だろうか。駅前の大通りを少し歩いて、ふと路地裏へ折れたところで、ひっそりと店を構えている。小さな店で、目立つ看板もない。しかし、店先まで行くとその異様な雰囲気に圧倒されてしまう。「この店には何かあるぞ……!」と。

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店先には家具や食器、洋服といった家財道具が並ぶ。家に置きたくなる素敵なアンティークの数々だが、値段もお手頃なのがまたこの店に通いたくなる理由のひとつだ。狭い通路では思わずぶつかってグラスを落としてしまうんじゃないかとヒヤヒヤしてしまう。だから、何も持たずにふらりと訪れるのがいちばんだ。

店内には文房具やアクセサリーといった小物が煌めいている。ひとつひとつ手に取っては迷い、迷っては戻し、一周してまた手に取り、隅々まで行き渡ったセンスに絡め取られてしまい、決して手ぶらでは帰れなくなる。

ちなみに店の奥はカフェになっているようだ。まだ利用したことはないが、いつも店先のレプリカを見るたび食欲をそそられてしまう。そのうちランチでも利用してみたい。

さて、その日私が発見したのは「マスク本」だった。

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文庫本にそれぞれ丁寧な包装が施され、中は読めないようになっている。表に貼り付けられているのは抜粋された数行のみ。知っている一文に出逢うと思わずにやりとしてしまうし、反対に「なんだこれ……こんな本があったというのか……」と思わされるような新しい出逢いもある。(それに一冊300円って普通に安い!)

ワクワクが止まらず、一冊一冊手に取っては眺めてしまう。そして、今回連れて帰ることにしたのはこの一冊。

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さて、何の本でしょう。

それにしても、手書きの文字ってそれだけでほっこりした気持ちになる。文学好きのお姉さんが一文字一文字丁寧に書いたのだろうか、などと想像を掻き立てられながら……。

家財道具、文房具、そして文学。とにかく新しい出逢いが欲しいとき、つい足を運んでしまう店である。そして訪れるたび、「四歩」はいつも私たちを裏切らない。

淋しいおさかな (PHP文庫)

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夜の映画監督だったあの頃

私はお酒が好きだ。三度の飯よりお酒が好きだ。むしろ、三度の飯はお酒の愉しみを引き立てるために存在しているといってもいい。

地元にいた頃、私は毎日のようにお酒を飲んでいた。平日は仕事が終わると、まだ陽も暮れないうちに缶ビールを開けて晩酌を始める。テレビを見ながら、ネットを徘徊しながら、時には何か作業をしながらも常にお酒を飲んでいた。私の晩酌はいつも長時間に及んだ。

そして、週末になると友達と集まるのが恒例だった。元々お酒が好きな友人と二人で飲み歩いていたことを発端とし、徐々にその仲間を増やし、はじめはお酒を飲めなかった友人さえ、気づけば日本酒をがぶ飲みして酔っぱらうまでになってしまったほどだ。ダメな大人は増殖しながら、金曜日の夜を明るくしていた。

時には繁華街へ飲みに繰り出すこともあったが、二十歳そこそこだった私たちは、もれなく貧乏にちがいなく、酒場に行くたび財布の中身がすっかり空っぽになってしまうことは避けられなかった。それに田舎住まいだ。最寄り駅すら存在しない車社会では、お酒というものは家で飲むのがスタンダートであった。

酒場で飲むお酒は高い。安い店でも家で缶ビールを飲むのと比べれば当然高くつく。だがそれは酒場という雰囲気そのものの値段が含まれているというのもあるだろう。家なら百円の金麦で乾杯できるところを、わざわざ酒場の狭い席で乾杯するとき、私たちは「今日は何もかも忘れるぞ」という自制のダムを開いて、楽しい夜のひとときを送るためのチケットとして買った一杯目のビールで乾杯しているのだ。酒場でお酒を飲むということは、映画館で映画を見るのとよく似ている。あとでレンタルすれば確かに安く観られるんだけれど、あの用意された座席で、あの空間で、あのスクリーンで映画を観られるから、大枚をはたく意味があるのだ。

だとすると、家飲みは自分たちで映画を撮るようなものである。決して贅沢な空間が用意されているわけではない。待っていれば目の前に出てくる料理もない。脚本も、演出も、すべて自分たちで作り上げなければならないのだ。もちろん、何もせずにただ買ってきた枝豆をつまみながら缶ビールを流し込むのでもいい。逆に、とことんこだわって、酒場では決して味わえないような特別な時間を模索してみるのもいい。

家飲みを始めた当時は、いつも買ってきた安売りの惣菜やスナック菓子をつまむだけの、いかにも安アパートの一室が似合いそうな宴を開いていた。しかし回を重ねるごとに、私たちは貧乏なりに家飲みの質を上げることに努めはじめた。たとえば簡単な料理を作る者もいれば、庭で作った燻製を持ってくる者、旅先で見つけた珍しい地酒を持参する者もいた。それぞれがそれぞれの個性で演出をほどこし、金曜日の夜はみるみる彩られてゆく。

そして、飲みながら行うことといえば、誰かが持ってきた映画を観ることだったり、誰かが持ってきたゲームをすることだったり、トランプをしながら語り合うこともあれば、酔いが回ってきた折には、ギターを披露する者もいて、ただお金だけ払って提供される陽気な時間より、ずっと自分たちで夜をつくり上げているという感覚がした。

その頃私はまだ煙草を吸っていて、仲間内には煙草を吸う友達がもう一人しかいなかったので、ときどき二人で連れ立って外に出た。雲のない夜には、星を見ながら二人でひと息ついて、一転して仕事の悩みなどをこぼしたりする。そうしていると、家の中にいた連中も休憩がてら玄関先に飛び出してきて、結局ぞろぞろと近所の公園まで散歩に行ったりする。

今、故郷を離れた私が、いちばん恋しいのがあの時間だ。東京には素敵な酒場がたくさんあるし、田舎とちがって仕事帰りにふらりとそこらのお店に立ち寄ることもできる。だが、ここにはあの仲間たちはいないし、広い家もない。並んで星空を眺めることもできやしない。どんなに上質なお酒を飲むときでも、そこに混じる孤独の苦味が、あの頃を恋しくさせるのだ。

疲れた夜にはコンビニで少し高いビールを買って帰り、綺麗なグラスに注いで飲む。大好きな音楽をかけながら、少しずつ酔っぱらっても、淋しさは掻き消えない。長い長い夜という映画をひとりきりで撮影しながら、私は今もどこかに仲間たちの影を捜している。

今週のお題「家飲み」

女性が髪を切るということ

女性が髪を切るということがどういうことかは、男にはよくわからない。実は深い意味なんてないと言われているけれど、その一方で、やっぱり何かしらの意味があるのではないかとも疑ってしまう。結局私たちはその真相を知ることなどできないのだ。あの日女子生徒たちだけを残して体育館を後にした気だるい午後の校舎も、なにも教えてはくれなかったし、どこか悶々とした、靄のようなものを心のうちに秘めたまま、やがてそれをかき消すためにまたはしゃぎ回って。だから私たちにとって女心というものは、いつまでも神聖で、ミステリーで、漢検一級みたいに難解なものなのだ。

私は髪の毛に対して情など湧いたためしはない。ただ決まった周期で、伸びたら切ってを繰り返しているだけだ。ずっと適度な長さを維持して伸びも減りもしないでいてくれたらどんなに楽だろうと思うくらいだ。女性は違うのだろうか。女性は気分転換に美容院に行ったりする。男から見れば大して長さの変わっていない髪のまま「すっきりした」「さっぱりした」という。あの赤と青のうねりの店内では一体何が行われているというのか。

だけどその気持ちも少しだけならわからなくはない。なぜなら女性は髪の毛と付き合う期間が長いからだ。肩まで、背まで、果ては腰のあたりまで髪を伸ばしている女性も時に見かけるけれど、彼女らはきっと長い歳月をともに過ごしてきた髪の毛を、一種相棒のように思っているのではないだろうか。たとえば男にして見れば履き古したジーンズや革靴、腕時計やジッポなどがそれに当たるだろうか。毎日手入れをし、美しく艶めいて、ときどき人に褒められたりするならば、愛着が湧かないはずがないだろう。

だったら尚更、そんな大切な相棒に別れを告げるときには、なにかきっかけがあるに違いないと思ってしまうのが道理である。私は今日、偶然インスタグラムを見ていた。普段は登録だけしていて滅多に開くことはないのだが、気まぐれにアプリを起動してみたのだ。そうしたら「知り合いかも」的なゾーンに、少年期仲のよかった幼馴染の女の子が表示されていた。彼女は埃かぶった空き教室みたいになっている私のページと違い、精力的に更新し、数百人というフォロワーを抱えているようだった。

なんとなく彼女の投稿を流し見していると、「髪を切ったよ」とコメントを添え、加工を施された写真があった。化粧をし、大人びていて、しかしかつての面影はそのままの彼女の写真を見て、私はふと思い出したことがあった。そういえば、いつか同じような場面を見たことがあるな、と。

彼女は幼いころからずっと髪を伸ばしていた。もちろんそれなりに手入れはしていたのだろう、小学校に上がってからはおおよそ背中あたりの長さを維持していた。彼女の髪は色素が薄く、陽に透かすと金色に輝いて綺麗だったものだ。彼女とよく遊んでいたのは小学校の高学年くらいまでで、徐々に疎遠になってしまったが、私はいつも心のどこかで彼女のことを気にかけていた。

ある日、彼女が長い髪をばっさりと切ってしまったことがある。首にもつかないくらいの、涼やかなショートヘアーに。久々に会ったとき、少し照れながらも自慢気に「髪切ったんだよ。似合ってる?」そんなことを訊かれた記憶がある。私はそのときひどいショックを受けていた。それはかなしみとかよろこびとかそういったストレートな感情ではなくて、貯めていたローソンのサンドイッチのシールがいっぱいになったのに、期限内にお皿と交換しそこねていたときのような、あるいは浴槽の栓をするのを忘れたまま、何十分もお湯を出し続けていたときのような、別にどうということはないんだけれど、取り返しがつかないわけでもないんだけれど、ちょっとぽっかり淋しいような、そんな気持ち。

私が淋しかったのは、彼女の長い髪がもう見られなくなってしまったことに対してではない。彼女が私になんの相談もなしに(恋人でもないのだから当然だが)髪を切るという人生の一大決心をして、私がまだうじうじと子供のままでいるのに彼女は前を向いて大人になろうとしていて、やがて私のことも忘れられてしまいそうで淋しかったのだと思う。

そして、彼女よりはだいぶ遅れたが、いつしか私も大人になった。そんな風にショックを受けたという感情すら、今まで忘れていたのだから。前へ進むということは、色んなことを忘れるということ。彼女が思い出とともに長い髪を切ったときのように、私もまたあの日の淋しさをどこかへ捨ててきて、今を生きている。忘れられたなら、忘れかえしてやればいいのだ。

それに、人は忘れたものに対してだけ、「思い出す」ことができるのだ。だから、案外、忘れたものっていうのは、特別なものだったりするのかもしれない。

 

髪を切る8の理由。(特典CDなし)

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いま、私の手元に夏がある

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どうやってこの本の存在を知ったのか憶えていない。おそらく誰か知り合いのつながりのツイッターなんかで偶然発見したのだと思う。それよりも最初にこの表紙が目に入ったときのイラストといい、表題の短歌といい、手書きの文字といい、すべてが私の捜していたものにちがいなくて、存在をしらなかったはずなのに私はこの本をずっと待ちわびていたように思う。ひとめぼれだった。

私はすぐさま作者の方のツイッターのホームに飛んだ。この歌集は一般販売も行っているらしい。通販で、とも考えたが、吉祥寺の「百年」という古書店にも置いているらしく、その店は何度か前を通りかかったことがあったので、ならば今すぐにでも、とコートを羽織った。

同時に、私はこの本を手にするのが少し怖かった。なぜならそれがあまりに私の感性の奥深くまで突き刺さってくることが判ったからだ。ともすると私はこの本のページをめくりはじめてから閉じ終えるまでに、長い歳月を要するかもしれなかった。私はこれまで、夏が好きで、夏にかかわるすべてのものが好きで、絵も、文章も、音楽も、とにかく世界中から夏のかおりのするものをかき集めてつめこんだ部屋の中で暮らしているような人間だった。だからこそ、私はこの本の表紙を見た瞬間に、感じ取ってしまったのだ。これは私の追い求めてきたものたちを、そのすべてを、ぎゅっとこのサイズに凝縮した、水色爆弾だと!

すっかり春の陽気だった。寒がりの私にはまだコートが必要だったが、生ぬるい風はわけもなくセンチメンタルになるような別れの気配を孕んでいた。いつか卒業した日のことを思い出して、誰もいない長い廊下を思い出して、戻りたいほどの過去でもないのに、戻れないという事実に泣きたくなりながら、駅までの道のりを歩いた。真昼の駅ではあちこちに子供の姿があった。電車もがらがらで簡単に座ることができた。その清々しい風景のなにもかもが私を憂鬱にさせる要素ばかりだったが、それより今は、やがてくる夏のことを考えるべきだった。もうすぐ私は、夏に逢える。

「百年」の店内は混み合っていた。髭の似合う男性や、背の高いカップル、都会の景色に溶け込めるような人ばかり。私だけが不釣り合いな気がして、息の詰まる思いだったけれど、店内をぐるりと一周、そうして見つけた。ああ、本当にあった。やっぱり東京は凄いところだ。画面の向こうにいる凄い人たちと自分とが、同じ地平に生きているということを教えてくれる。ネットの向こうが決して断絶された世界でないことを証明してくれる。故郷にいたころの私は、あの狭い部屋の中から、どこへも行けなかったというのに。

それから私は意気揚々、まるで初めてラブレターをもらった日の帰り道のように、早くこのときめきを繙きたい気持ちでいっぱいだった。気分がよくて、ちょっと寄り道して、春らしくロゼのスパークリングを買って帰った。

そうしていま、私の手元に夏がある。

夏は、人にとって特別な季節だ。ただ暑くてうっとうしい季節だという人もいるけれど、それはつまり、夏という季節を無視できないということでもある。四季それぞれによさがある。その上で、やっぱり夏を中心に一年が回っているという気がするのである。もっともそれは私が夏という季節に心底惚れ込んでいるからそう思うだけなのかもしれないけれど。

私はもう二十回以上夏を経験している。季節なんて、延々とめぐりくるものだから、二十回というと反対に少なく思えてしまうけれど、ならば、それぞれの夏がどういうものだったか、すぐに思い出せるかというと、それはできそうもない。たとえば近所の友達と石畳に寝そべって雲を眺めたのが何度目の夏だったか思い出せないし、クーラーの効いた部屋で家族全員でトトロを観たのが何度目の夏だったかも思い出せない。思い出だけは次々とよみがえってくるけれど、記憶はどれもまばらで、具体的な日月とのつながりは浮かび上がってこない。私は夏を記憶するばかりで、記録しそこねていたようだ。

そうしてこの先何十回夏がくるのだろうか。少なくともこれまで経験した夏の二倍の回数は残っているはずだ。それが果たして、多いのか、少ないのか。実はそれを決めるのはこれからの私自身ではないだろうか。

でもこれから何十回も夏が来て、
夜のベランダでお酒のんだり
泳いだあとにくっついたり
「バニラコーク」の味を想像したりするから
人生は楽しくてしょうがない(本文中より引用)

 想像するだけでわくわくして、あとになって何度も思い返せるような出来事を、あらたに積み重ねていけばよいのだ。そうすることで、夏は私たちの心の中で増幅してゆく。人生にとってかけがえのないものとなる。

私は決して青春をあきらめてはいない。あの夏はもう戻ってこない、そんな言葉で夏を思い出の箱の中に押し込めてしまうのはもったいない。それに、大人には大人にしかできない夏の楽しみがあるはずだ。(たとえばお酒にまつわることなど)

少年の日の夏が帰らないのは、確かにその通りかもしれない。だけど、果たして私はあの夏をもう一度繰り返したいのだろうか? むしろ、それ以上に輝ける夏を追求するべきであろう。もう過去にはもどれない。私はそのあきらめを受け入れることにした。思い出をときどき酒の肴にすることはあるけれど、夏がくるたび、私はそのあきらめを越えてみたいのだ。今年の夏こそ、何かあるかもしれない。いや、何もなくたっていい。私はただ、夏を後悔しないように歩みたい。

       ♡

というわけで、みなさんもよろしければ、夏という季節から放たれた弾丸のような一冊、気だるく甘酸っぱいバニラコークの味に身悶えしてみてはいかがだろうか。

短歌や文章を書かれているのは伊藤紺さんという方で、無論、夏が好きなのだろうという思いがつぶさに伝わってきた。短歌というのはもしかしたらこの世でもっとも強力な表現方法のひとつなのかもしれない。限られた文字数の中では、こねくり回した文法のからみ合いなどは当然使えないから、いつもふわりと、口笛のようにやさしい。歌の前後にも、途中にも、とてつもない余白があって、その余白には、目をつぶってしまってもいいし、とことん追いかけてみてもいい。短歌は、読み手の感受性に多くを委ねてくれるところがあって、だからこそ、ときどき、その余白が思いがけず殺しにかかってくることがある。この本を読んでいる中でも、ひとつふたつ、思わず胸を撃ち抜かれたような歌があった。厄介なことに、それらは一度頭に焼きつくと、永久的に反芻されて、離れなくなってしまうのだ。だから短歌はおそろしい。

イラストやデザインを担当されたのはeryさんという方だそう。脱力感のあるイラストとポップな色使いで紙面がとても華やか。だけど小物などは緻密に描き込まれていたり、レトロ感のあるフォントや、文字の添え方にセンスの炸裂を感じる。たぶん、きっと、もの凄くお洒落で都会的な人なのだろうと勝手に想像してしまった。

 

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この手作り感も素敵。

夏がくる前にこの本に出逢えてよかった。そして、とてもバニラコークを飲んでみたくなった。

 

昔作ったやつ↓ 

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失業からスタートした私の2016年

ちょうど去年の今頃だった。地元で勤めていた仕事を辞め、上京し、新しい仕事を始めて一か月ほどが経過していた。上京する前に抱いていた東京へのイメージは、かつて旅行に訪れた際の東京駅や日本橋の襟を正したビル群や、活気あふれる上野浅草のあたりであって、東京なんてどこもそんな異空間が広がっているものだとばかり思っていた。だが実際に配属されたのは東京でもなければ横浜とは名ばかりの片田舎、大きな国道が横切っていて、排気ガスとため息に汚れ、さびれた商店街の中を人はみなうつむいて歩き、駅前の蕎麦屋が美味いこと以外は愛すべきところなど見つからない町だった。私の住んでいた社員寮は新築だったが狭くて壁が薄く、じっとしていられないほど寒い六畳一間の、もはや小綺麗な牢獄だった。

最寄り駅は三つあったがどれも遠く、真冬の月の出ている時刻に家を出る私には、何枚コートを羽織っても骨のきしむような痛みを伴う長い道程だった。休みの日にはJRの駅を利用して、近くの大きな街へ買い物へ出かけた。日用品を揃えるのにも電車へ乗らなければならなかった。腕のちぎれるほど買い物袋を抱えて戻った夜半、ほんの数駅離れるだけで都会の匂いがしていたのに、と、高架より静まり返った町を見下ろして憂鬱。無人駅の灯りは薄暗く、自動販売機の光のみ暗闇に浮かび上がる。帰る故郷はどこにもなく、待っているのはあの狭い牢獄だけだった。

日を追うごとに身体はおかしくなっていった。自分は呑気でマイペースで、ストレスなんてほとんど感じない人間だと思っていた。だが、毎日雨の中にさらされている生活の中で風邪をひかない人間がいないように、私もまたあらゆる苦しみに傘もささずに打たれながら歩く暮らしをしていたから、当然だ。学生時代は本ばかり読んでいて、スポーツの経験もろくにない私が、真冬にもかかわらず寒空の下で全身の衣服がしぼれるほど汗に湿る重労働をし、先輩社員からは罵詈雑言を浴びせられ、一切の休憩は与えられず、定時なんてあってないようなもの、月の出ている時間に出社し、月の出ている時間に家に帰る日々、ふらつく足取りで電車に転がり込んで、駅から家までの帰路も足をひきずりひきずり、意気込んでいた自炊などほとんどできる余裕もなく、スーパーで買った半額の弁当に手をつけようとするも疲労で箸が震えて思うように食べられず、倒れこんだ六畳一間の硬い床で眠り、風呂に入る時間さえないこともしばしばあった。生きている意味などないように思えたが、そのことに気づく暇さえ与えられなかった。

年の瀬を迎える頃には私はボロボロだった。身体に不調が出ているだけで、心は平気だと強がってはいたけれど、おそらく精神状態もかなり不安定だった。毎日、寝る前になるとわけもなく涙が止まらなかったからだ。体調不良で一日だけ会社を休んだ。すると心がすうっと軽くなった。逃げ道だってあるということを思い出した。こんなところでなにしてたんだと急に自分が馬鹿らしくなって、そうして会社への憎しみも湧いてきた。私は仕事を辞めることを決意して、それから数日後、震える手で会社へ電話をかけた。辞めるのはとても簡単だった。きっと辞める人間が後を絶たないのだろう。去る者追わず、といった姿勢で、辞めると決まった途端、その日だけは妙に全員優しかった。

辞めてしばらくすると故郷から家族が遊びにきてくれた。飛行機のチケットを取ったときにはまだ私が退職を決める前だったから、都会で心機一転働く息子を労うつもりで会いにきてくれるはずが、あっというまに職を失い、完全に行き場の見えなくなった息子の待つ東京へ会いに来るのはよい気分ではなかっただろう。しかし両親は辞めたことを咎めたりはしなかった。そんな会社、辞めて正解だったと言ってくれた。だめになったらいつでも帰ってくればいい、お前には逃げる場所があるんだから、といつになく優しく言ってくれた。まだまだ、こんなもんじゃ終わらないよ、今に見てろ。私はやれるところまでやるつもりだった。全て投げ出してここまで来たんだ、怖いものなんてなにもない。気丈に両親を見送ってやった。

 

もう一年も経つんだということに驚きを隠せない。あの町で最後に食べた蕎麦の味や、荷積みしたトラックで夜明けの道をひとり走ったこと、かじかんだ手と白い月。寒くなってくると冬の匂いに乗せられてあのときの感覚が少しだけよみがえる。思い出したくもないし、前は思い出すたびゾッとして、言い知れぬ恐怖にのたうちまわったりしていたけれど、一年が経ってようやく、落ち着いて振り返ることができるようになった。苦しみに固められた日々を、時間の流れが少しずつ風解してくれたようだ。

今の仕事は前の半分くらいの給料しかもらえない。だが日ののぼった時間に明るい道を歩いて通勤することができるし、椅子に座って昼ごはんを食べることができる。眠気や疲労とは相変わらず闘っているけれど、身体を痛めつけながら働くなんてことはない。前の仕事の給料がよかったのは、健康や寿命を削り取って差し出していたからにほかならない。私のもっとも貴ぶ若さというものを、全部ないがしろにして、踏みつけて、ぐちゃぐちゃにした焼け野原にあぐらをかいてスーパーの半額弁当を食べていたのがあの頃だった。行き先の違う急行電車に乗り込んで、降りるタイミングを失ってしまっていた。あのまま乗り続けていたら、どこへたどり着いていただろう。ロールサインには、地獄の文字が見える。

私は長らく不幸というものを味わっていない。もう、慣れきってしまったのだ。不幸を味わう舌が馬鹿になってしまったのだ。決して帰りたい日々ではないが、あの日々がなければ今の私もなかったのだと思うと、複雑な気分である。だがそれも、うまいビールを飲むための一仕事みたいなものだと思えば、人生にはそういう時期が不必要とは言い切れなくなるものである。

もう、なにもかも、思い出に変わってしまったんだから、だったら、あれこれ悩むことはない。今さえ確かなら、それでいい。それに、歪みや不幸をたくさん詰め込んだ人生の方が、かえって煌びやかだ、そんな気がする。