或るロリータ

A Certain Lolita

淋しさがつのりすぎて「孤独」をテーマにした本を作ってしまった

青春時代を通して誰にも負けない唯一のものがあるとすれば、私にとってそれはどこまでも孤独であったということだけだ。恋も、遊びも、勉学も、十代の私には手に負えないものだった。私は誰からも期待されず、また、誰かに期待することもやめた。だから私は、すべての答えを自分の中にだけ求めたのだ。

話す人のいない教室の中で手元の文庫本に目を落とし、夕暮れを待つ日々。淋しい田舎道を自転車で帰りながら、どこかへ行きたいと願う。それがどこなのかは、わからなかったけれど。

大人になっても、私と腕組んで歩くのは、いつだって孤独という恋人だった。孤独は一種の癒しでもあった。楽しいはずはないけれど、そのかわり、悪いことも起こりえない。足元にただよう霧のように、どんなときでも安心して私を憂鬱にさせてくれる。
だから私は夜がくるたび孤独を見つめ、孤独を愛した。

酒を飲み、淋しくなり、たちのぼる孤独の影をつかまえて解読する。孤独を題材に文章をつづることで、私は永久機関と化したのだ。noteやTwitterなど、ネット上のいくつかの場所に、ふらりと姿を現しては、ぽつりと孤独を書き残す。そんな夜が積み重なって何年にも及んだとき、やがて私は「この歳月を形にしてみたらどうなるだろう」と思うようになった。

過去の自分の文章を読み返すことは、正直、楽しいことだった。世にあふれるあらゆる書物のどれをとっても、自らの文章ほど簡単に思い出を呼び起こしてくれるものはないからだ。決して名文、美文の類いではないが、平成の或る一時期に孤独を患った青年の残雪として、見世物小屋へ入るような心持ちでこの本を手に取ってくれる人が現れたなら、あの淋しい青年の亡霊も幾らか救われるだろう。

 

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タイトルは「だってワルツが聞こえないから」。以前、noteに上げたテキストのタイトルから拝借した。

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目次はこんな感じ。

 

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各章の扉はこんな感じ。

 

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読んでいて陰鬱になるような文字列のつらなり。

 

では、内容について少しずつ紹介していきます。

 

過去の私のnoteとTwitterのつぶやきから、夜にひっそり読み返したいものをまとめました。
がらくたの箱をひっくり返して懐かしみながら選び抜くような作業でした。
特に統一性はなくとりあえずまとめただけの章です。

 

ノスタルジア

「夜」と少しかぶってしまうのですが、より淋しさに焦点をあてたものを集めました。
故郷にいたころに書いたものもあれば、上京して故郷を恋しがりながら書いたものもあり、自分自身の中にある「懐かしい」という感情のつまみを一気に回されてしまいます。



これ以降のページは小説になります。


ジン・ハウス・ブルース

以前noteショートショートフェスティバルに投稿した作品。
土曜日の午後に砂浜でお酒を飲むのが趣味の男性と、そこに現れた女性とのみじかい物語。

 

いつか春が来ても

主人公は、ひたむきに生きるひとりの女性。
たったひとりの大切な恋人がいる。
しかし、ある日恋人の前に現れたブルーのコートの女。
女の存在により、主人公は徐々に恋人に不信感を抱き始める。

 

ロマネスク

以前、季刊マガジン水銀灯に寄稿した作品。
「雪」というテーマをいただいたにもかかわらず、真夏を舞台に書いてしまった天邪鬼な作品。
女を知らない純粋な男が、たまたま上司に連れられた入ったキャバクラで、美しい女性に出逢う。
恋をあきらめかけていた男が、ふたたびロマンスに目醒める物語。

 

上下水道

かなり昔、とにかく青春のにおいのするものがすべて嫌いだった時期に書いた作品。
「初恋」という澄み切った探照灯に追われ続ける日々の中で、心と裏腹に身体は大人へ近づいてゆく。
抑えきれない欲望や、耐えきれない世間からの眼。
それらから逃れるために恋をすることは、果たして正しいのだろうか……。

 

裏地に花

酔っぱらったときの私は無闇にキーボードを叩いてしまう癖があるのだけれど、そんな酩酊の夜に記憶さえあやふやなまま書き連ねた文章の欠片を束ねたもの。本書の中でもっともとりとめがなく、人に見せるのが憚られるものである。

 

 

 

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A5サイズ100ページ、カバーは4色、本文は黒とミッドナイトブルーの2色印刷です。
ちなみにカバーの写真は昔「尾道灯りまつり」で撮影しました。

もともと自分で楽しむために作ったのですが、ついでなので少しだけ余分に作っています。もし買ってやってもいいよという物好きな方がいましたら、以下のnoteをご購入の上、記載のアドレスか、Twitterなどのメッセージでご連絡ください。
そもそもnoteなんてよくわからない!という方もTwitterなどでメッセージください。

▶︎『だってワルツが聞こえないから』購入用ページ 

ちなみに以前写真集もつくってます。こちらは夏が好きな人向け。

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今週のお題「芸術の秋」

何かをやり残したと感じる夜にブログを書く

私がブログを書きたくなるのは、きまって後ろ向きな理由からである。仕事が上手くいっているとき、趣味を謳歌するのに忙しいとき、旧友たちと飲み明かしたとき……そんな日の私にはブログを書こうなんて発想はない。そもそもこのブログだって何の理念も目的もなく始めたものだし、私の綴る文章のどれにも壮大なテーマなど存在しない。私がブログを書きたくなるのは、酩酊時の手癖によるものか、あるいは何も成し得なかったわびしい一日の終わりに、焦って何か少しでも形になるものを残そうともがいた無残な爪痕なのである。

それはツイッターにも言えることである。私はここのところ滅多にツイッターを更新しない。140文字をつぶやく体力すらなくなってしまったからである。数年前までの私は、持て余した時間とくすぶった魂をひたすらダークなポエムに費やし、誰に発見されるでもなく夜毎タイムラインに140文字ぴったりのポエムを恥ずかしげもなく投下していた。そのことによって少なくともその夜の私は救われたわけである。今日はこんなにたくさん文章を書いた、と。しかし後になって見返せばそのどれもがゆきずりの女と関わったあとのシーツの乱れのように、空虚な情動の残滓に等しいものである。

私の書く文章にはまったくと言っていいほど生産性がない。もっとも私はこの世に存在する文章のほとんどが生産性など持ち合わせていないと思っているのだが。誰かの役に立つとか誰かの涙を誘うとか、あるいは家計費の足しになるとか、そういったわかりやすい釣果が得られれば誰もが自らの文章にもう少し価値を見いだせるのだろうけれど、得てして私たちは自らの文章を駄文と罵りながらどこまで広がっているとも知れないネットの水平線の彼方に投げ込むことしかできない。それはうまいこと二度三度、水切りの小石のように水面を跳ねて煌めく飛沫を見せて寄越すこともあるけれど、往々にして振り返ることもなく一直線に海底へ沈み込んでゆくのが関の山だ。沈んだあとには幽かな波紋が広がり、すぐに消える。その波紋、それこそが私の記す文章の唯一の価値なのではないだろうか。その場で、そこに視線をやっている人にしか、波紋の存在は気づかれない。沈んでしまえば、海底に数多ある石ころのひとつになってしまう。だからこそ、その一瞬のために、このネットの海原に儚く消え去る瞬間を見つけてくれるかもしれない人のために、私は文章を書いては放るのだ。

今この文章さえ、誰に届くかわからない。届いたところで、どんな作用をもたらすかもわからない。それでも私は、今日を慰めるためにひたすら文章を書き連ね、それを投げ込む。いくつもいくつも波紋をつくっては消し、それがやがて雨のように世界を覆い尽くすとき、私は私が文章を書く本当の理由に気づけたりするのだろうか。

 

 今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」

社会では「すり減らさなかった人」が勝つ

先日、中学校と高校をともに過ごした同級生から電話がかかってきた。内容は、気まぐれな近況報告みたいなものだった。彼とは学校で特別仲がよかったというわけではない。教室にほとんど話せる相手のいない私に対して、彼は成績は悪かったが部活だけはひたすら続け、先生たちからもよくいじられるタイプだった。本人もひょうきん者で、悪さをしてはまた叱られ、それでもヘラヘラと笑っているものだから、なんだかんだでいつもクラスの人気者だった。圧倒的な「陽」と形容するにふさわしい彼と比較すれば私は陰どころか「暗闇」だった。

そんな人気者の彼だが根は優しく、私が教室の隅でさびしそうにしていると、同じ中学のよしみからか声をかけたりしてくれることもあった。しかし、私は変なプライドもあった上に、人と話をすることを避け続けていたせいで声の出し方を忘れかけていて、彼の誘いに応じることはほとんどなく進んで孤独を選びつづけた。

そんな彼とも、高校を卒業してから、なぜだか一緒に飲みに行くことがあった。先述の通り同じ中学出身で、家は割と近所だったのだ。私が通っていたのは工業高校だったから、卒業したらほとんどの生徒が就職する。工業高校のクラスメイトとはつめたいもので、仲間のように見せかけながら敵同士でもある。三年間の成績の優劣で、応募する会社を優先的にえらべるのだ。おまけに半数が東京や大阪をはじめとする県外への就職。もともとそれぞれが県内のあらゆる地域から通学しているし、卒業してからも仲良くしつづけるという間柄は相当に珍しいものといえた。そんな友情の結末を、はなから孤独だった私はどこか得意げに、「それ見たことか」とあざ笑っていた。

彼からの誘いがきたのは、就職して仕事も落ち着き始めたころ。お互いに新入社員の初々しさなどとうになく、生きるために働くというシンプルな答えに嫌気がさして、会社の爆発を願いながら通勤する毎日を送っていた。彼は煙草をたくさん吸っていた。これが大人だと言わんばかりに。元々「田舎のヤンキー」気質のあった彼だから、そのあたりはまだ若いなあ、と、なじりつつも、実は私も煙草を覚えたばかりだった。その日は彼から一本だけ煙草をもらった。

両手に幸福を抱えてシーソーに乗ったとすれば、高校時代の彼なら私を青空まで吹き飛ばしていただろう。それくらい彼は輝いていたし、私は目も当てられなかった。ところが就職して彼の前に生計という問題ができた。それはお調子者というだけではどうにもならない。そうして人と会話など永遠にできるはずがないと思っていた私は、初めて触れる社会の辛苦にもまれながら、真人間の方向へと矯正されていた。その二つの作用により、私たちの重量はほとんど均衡に近づいていた。むしろ、ときどき見せる彼の憂いに満ちた表情と、ため息とともに吐き出す紫煙とは、シーソーの傾きをゆるやかに反転させていることの証拠ともいえた。

彼とは数回飲みにいったきりで、それきり会わなくなった。

私が東京で暮らすようになったことは、風の噂で知っていたらしい。数年ぶりの彼の言葉は相変わらずの故郷訛りだったが、そこに幽かな緊張があった。大人が大人に話しかけるときの、誰もが顔に貼り付ける幽かな緊張。それが私をも身構えさせた。努めて昔のように、いくつも冗句を交わしたけれど、ふたりのあいだに流れる歳月がそれを吸い込んだ。

「よかったらまた、飲みに行こう。帰ってきたときはいつでも誘ってよ。」

彼の口調はずいぶんと私を気遣っていた。彼にとって私はもう、東京で暮らす遠い人になってしまったのだろうか。地元の古びた居酒屋で燻り合っていたあの頃から、彼のかなしみはずっと育ちつづけていたようだ。電話口ではほんの二言三言だったが、彼は弱音を吐いた。誰にも打ち明けられなかったが故の、事故のような弱音だと思った。

私だって決して、何の苦労もなく東京で輝かしい生活を送っているわけではない。だが、自分を苦しめる暗い感情のやつらとは、どこかでうまく付き合わなければ、上手に生きてゆくことなんてできやしない。いくら教室の中で人気者でも、いくら勉強ができて、運動ができて、女の子にもてたとしても、それは一瞬の煌めき。青春の結末にしか影響しない。

私たちが生きてゆかなければならないのは、青春のその後である。教室の中での評価は、永遠ではない。もちろん、思い出に救われることはあるけれど。社会は長い防衛戦だ。あらゆる角度から私たちは心と身体を削られる。そうしたときに、うまく切り抜けたり、別のことで気分転換をしたり、ちゃんと自分自身をフォローしたり、ときには誰かに助けを求めたり、暗い気持ちをしっかり対処して、いつも通りの明日を獲得しなければならないのだ。防衛に失敗するたび、すり減ってゆく。心が、身体が、魂が。世間は悪党よりも非情で、「ここらへんでやめとくか」なんて思ってくれやしない。自分で自分を守れなければ、すり減って、すり減って、なくなってしまうだけだ。

彼は、もうずいぶんすり減っているように思えた。私が何かを成し遂げて彼に勝利したのではない。ただ、彼の方が先にすり減ってしまっただけだ。私は誰にも勝っていない。勝っているように見えたなら、それは、そう見える人たちがみんな、負けてしまったのだろう。私たちはこの長い道のりを、自分をすり減らさないことに神経をすり減らして生きてゆく。そうして最後の最後まで、少しでも他人よりすり減らさなかった者だけが、いつのまにか表彰台に立っているのが人生なのだ。

思い出がお酒の味を変える夜

金曜日が好きだ。それは今でも変わりない。学校が嫌いで仕方なかった中学生のころから今日に至るまで、私は金曜日のために生きてきたといっても過言ではない。金曜日という黄金色の甘い時間のために、どんな辛い毎日にだって耐えるのだ。いつか、金曜日がくる。そのことだけが救いだった。

ひとつ前の仕事は、曜日にかかわりのなく出勤の必要がある職場だった。クリスマスもお正月も、存在しないようなものだった。その環境は私の中に作り上げられていた金曜日至上主義をいとも簡単に壊してしまった。今日は金曜日か、みんな羽を伸ばして飲みに行ったりするんだろうな、そんな風に世間を眺めるだけ。思えばあれは時間と健康とが無慈悲に賃金と直結させられる人の道を外れた環境だった。もちろんそういう仕事を誇りに続ける人たちを否定するつもりはない。ただ私には少し、合わなかったというだけだ。

今の仕事は土日が休みである。元どおり私は金曜日が好きになった。さらによいことに、金曜日への執着は少し薄らいだ。時計とにらめっこして、定時を迎えたらそそくさと荷物をまとめる仕事ではない。金曜日こそむしろ、少しくらい残った仕事を片付けてから帰るのもいいか、と思えるようになったのだ。いかにも都会的で大人びていて、本当はそんな風に仕事というものとうまく付き合える日が来てしまったのはどこか淋しくもあるけれど。

今日の帰り道。ここのところ続いている雨のせいで、傘を持つ手は疲れたし、気に入りの革靴もとうぶん履けそうにない。夜道の楽しみは水たまりに反射する街の灯りを宝石のように目でひろいながら帰ることくらいしかなくなっていた。職場の最寄りの駅から各駅停車に乗り、歯抜けのように空いている座席に腰を下ろす。ぼんやり窓の外を眺めながら、適当な音楽を聴く。

やがて終点についた。そこが私の住む街だ。せわしない構内。学生風、サラリーマン風、主婦、老人、子供、また学生……。尽きることのない人波にぶつからないよう歩きながら、駅の外へ出る。傘をさすほどでもない雨に撫でつけられるように、地上へつづくコンコースを横切る。そのとき、薄闇のしめったベンチでひとり腰掛けてスーパーの弁当を食べている青年を見た。私と同じくらいか、少し年下だろうか。うつむいてひたすら箸を動かしている。彼の足元には窪んだアスファルトに薄く張った水たまり。映る月もなく真っ黒によどんでいる。

彼の姿はとても淋しげだった。だけどそのせいばかりではない。私は記憶の奥深くにうずめたはずの苦い思い出を、否応なしに掘採させられた。ひとり住まいの狭い社員寮。さびれた街。電灯のまばらな帰り道。汚れた仕事着に、痛む肉体。足をひきずるように小さな駅から這い出て、駅前のスーパーに立ち寄る。初めての一人暮らしに意気込んで買い揃えた調理道具も、ほとんど用をなしていなかった。時間と気力と体力と、あらゆるものが私の生活から抜け落ちていた。スーパーで半額の弁当を買うのにさえ、朦朧とした意識の中では精一杯なのだった。

食の細かった私が、いくらでも食べられると思うくらい、疲弊は脳髄にまで達していた。半額の弁当に、半額の菓子パンをいくつか、さらには半額の惣菜の揚げ物まで籠に加え、最後に安い発泡酒を放る。そうして駅から少し離れた住まいまで戻るとき、私はいつもここで夜に磔にされてしまいたいと思った。永遠に朝がこなければいいと思った。出口の見えないトンネルを、休む間も無くひたすら重いトロッコ漕いで、目から飛び散る火花と、黒煙のようなため息。私は我慢できずによくスーパーを出るとすぐに発泡酒の缶を開けた。ぐびぐびと飲みながら帰った。それまで気がつかなかったが、都会にはよくそういうおじさんがいる。彼らもきっと私と同じような思いをしているのだろう。

今日、駅のコンコースのベンチで弁当を食べる青年を見て、いいや、彼は急いでいただけで、何もみじめな思いなどしていないのかもしれない。それでも私は、ふいにあの夜の自分を重ねないではいられなかった。世界のどこにも自分の横たわれるベッドがないような、そんな気持ち。唯一の癒しは、我を忘れるためのアルコール。いけないことだと知りつつも、それだけは無差別に私をだめにしてくれた。今でもお酒に癒されたい夜はある。そんなとき、あの苦い思い出という肴を噛みしめながら酒を含むと、今というなんでもない日常から、幸福の香りがはっきりと立ち上ってくるのが感じられる。

 

今週のお題「私の癒やし」

故郷から東京へ戻る飛行機で、昼と夜の隙間を見た

今年の夏は、いつにも増してあちこちへ旅に出た。そう言いながら、例年どこかへ出かけている気がするが。

初めて足を踏み入れた四国の地や、水色の瀬戸内海。棚田祭りや風鈴市、ひまわり畑など、夏を象徴するにふさわしいシーンは数え切れないほどあった。お陰で私は九月に入った今もなお、夏という要素をつめこむだけつめこんだ壮大な映画を観せられたあとのように、まだ感情の処理が追いつかないまま肌寒さに上着だけを羽織っている。

クーラーのいらなくなった土曜日の昼間に窓を開けると、心地よい風とともに物悲しい蝉の独唱が流れこんできて、ようやく別れを実感する。「そうか、夏は終わったんだな」と。

夏の終わりは決まってセンチメンタルである。蒸し暑い真夏日に仕事で延々東京の街を歩き回っていた時は、ぬぐってもぬぐっても流れてくる汗に不快きわまりなく、「もう少しくらい涼しくなってくれないかな」と願っていたのに、いざ朝夕の風がひんやりし始めるとすぐにこれだ。きっとその向こうに見え透いている秋、そして冬の気配が、陽気な日々の終幕を予感させるためであろう。

夏の終わりに焦りがつきものなのは、夏だから何かしないといけない、そう思っているからだ。夏には、何かしないといけないと思わせる魔力があるのだ。そうして大抵の場合、何もできずに終わってしまう。海やお祭り、ビアガーデンや高校野球観戦と、夏にふさわしいイベントは確実に消化しているはずなのに、それでも人は満足できない。夏は必ず未完成のまま行ってしまう。来年に向けた課題を残して。

夏は別れた恋人のようだ。悪いところさえ恋しく見えてしまう。楽しかった思い出とともに、もっとああしておけばよかったなんて、自省をくり返す。毎年毎年、そこまでを含めて夏の恒例行事みたいになっている。そりゃ、センチメンタルになるのも無理はない。夏は魔性の女なのだから。

そうして今まさに魔性の女に苦しめられている最中の私が選ぶこの夏の一枚は、故郷から東京へ戻る飛行機の中で偶然撮影した一枚である。七月の始め、世間が夏休みを迎えるより一足早く、私は故郷へ向かった。夏の田舎はいいものだった。家族や旧友に会い、ゆるやかな時を謳歌した。だから、私はいつも、帰りの飛行機では疲れ果てて眠ってしまう。今回も例に漏れず私はハット帽を深くかぶり、座席で夢の世界へと落ちたはずだった。

ところがふとした拍子で飛行中に眠りから覚め、窓の外に目をやった瞬間、あまりの美しさに息をのんだ。眼下にうつる街はすっかり夜の体裁で、黒い大地に無数の灯りがちらばっていたけれど、視線を上げてみれば、そこには夜と夕暮れと青空の混ざりあったような、なんとも言えぬ神秘的な風景が広がっていた。空との距離が近いためか、その色は地上から見るよりずっと濃艶だった。

まさに、昼が逃げていく後ろ姿をとらえたようだった。夜の果てでは、こんなに美しい逃亡劇が繰り広げられていたというのか。母親の宝石箱をそっと開けて覗きこむような気持ちで、昼と夜の隙間を見た。ほんのわずかな時間であっというまに夜に食べられてしまったが、その儚さが、めまぐるしく過ぎた私の夏を飾る一枚にふさわしいのではないだろうか。

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今週のお題はてなブログ フォトコンテスト 2017夏」

 

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「選ばない」という選択をやめた20代前半

私は何かを選んだことがない人間だった。生まれた田舎町でそのまま育ち、親や友達ともそれなりに仲良く、喧嘩をすれば普通に落ち込み、与えられた幸福には素直に喜ぶ少年時代を過ごした。だが、一歩間違えば、私の少年時代はもっと悲惨なものだっただろう。なぜなら、私は生まれ育ったステージから一歩も動くことなく、幸福も不幸も、みんな当たり前のものとして受け入れていたのだから。

恋においてさえ、それは同じだった。初恋というものは往々にして淡い思い出のまま終わってしまうものなのかもしれないが、それは人生において一度きり、初めてのことだから許されるのだろう。村下孝蔵風に言うならば、「遠くでいつも君を見ていた」だけの、そんなやり方の恋をおよそ十年あまりも続けて、いっさいの経験値も得ることなく、私は青春時代における一大事業、「恋」を見事にスルーしてしまったのだ。

恋だけならいいだろう。進路においてもまた、私は何も選択しなかった。

地元の幼稚園からそのまま同じメンバーで小学校に入学し、中学もほとんど変わらないメンバーのまま過ごした。だから改めて友達など作る必要もなかったし、私は自分が当然社会に出てもやっていける人間だと信じて疑わなかったのだ。まるで生きてさえいれば神様が立派な大人というものに仕立て上げてくれるとでも思っていたように。

高校受験は、少し悩んだ。それは将来自分がどうなりたいとか、そんなまともな理由ではなくて、同郷の友達とばらばらになってしまうこと、知らない人の方が多い環境で新たな生活を始めることへの不安からだった。ああ、そのままエスカレーター式にみんな同じ高校に行って、そのまま同じ会社に就職できればいいのに。幼稚園のころの自分に問いたかった。「友達って、どうやって作るんだっけ?」

結局私は勉強をするのが嫌だからという理由で工業高校へ進学した。そこでどういった技術を身につけて、どんな仕事に就きたいとか、そんなことはいっさい考えずに。たった三年後の話なのに、遠い未来の話だと先送りにして、目をつぶっていたのだ。

それから暗澹たる高校時代をなんとか乗り切って、卒業を迎える。就職だ。そのころ、新卒で就職した会社には基本的に一生勤めるものだと思っていた。私の住む田舎ではそうだった。新卒が重要なことには変わりないが、それが都会での認識とだいぶちがう。転職なんてよほどのことがなければ考えないし、いざ転職したとしてもそれはよくない理由によるもので、さらに条件のよい会社へ移れる可能性などないという認識なのだ。(もちろん、進学などで県外へ出たものはその常識のずれに気づくはずだ)

つまり、結婚してマイホームを建てて、子供を育てることを目標とし、少しでも条件のいい大企業へ入るために高校で必死に成績を上げ、さらにいえばレベルの高い高校に入るのもそのためで、実は中学のテスト勉強もみんなそのために頑張っていたのか、あの頃からみんな将来を見据えていたのか、と驚愕した。テストは順位を上げて親にお小遣いをもらうためのものではなかったのだ……。

と、その頃になって気づいても後の祭りで、というより別にそれがさして重要なことだとも思わず、就職間近になってさえ、私にとってそれはいつか描いた「将来」ではないのだった。将来っていつ来るのかなあ、そんな風にのんきに考えながら、またもや軽い気持ちで大して仕事内容もわからない地元の企業へ就職してしまう。

その企業で数年間働くうち、私はようやく気づいてしまった。「あれ、人生ってずっとこのままの感じで終わるんじゃね?」

それもそのはず、片田舎でつまらない仕事をして安い給料をもらって、定時に帰社して金麦を飲む毎日から、どうすれば政治家とか野球選手とかクリエイターとかいうパッとした職業になれたり、素敵な恋人ができて幸せな家庭を築けたりする未来が結びつこうか。誰が導いてくれようか。

「何も選ばない」。それを繰り返した私の人生は、おそろしいほどに失うことの連続だった。およそ誰もが通るはずの青春という期間を経て、大切なものを失いまくっていた。二度と取り戻せないほどに。そして問題なのは、何を失ったのかさえ自分でもよくわかっていないこと。少なくとも子供のころに見ていた夢はとっくに失っていた。

そうか、選ばないって、楽なんだ。楽だけど、虚しい。あの時も、あの時も、みんな、勇気を出して選び続けていたんだな。その先にある幸せを自分でつかみ取るために。私は初めての「選択」にひどく恐怖した。責任が、こんなに重いものだなんて。

「実は、東京に行くことになりました。仕事を辞めさせていただきます。」

もう、戻れない。二十代前半。その責任の重さが、ちょっと嬉しかった。これからは、失敗しても、すべて自分のせいだ。だって私が「選択」したんだから。

「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由(ワケ)

「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由(ワケ)

 

 

棚田に無数の灯りがともる「ホタルかがり火まつり」で素敵な夏のはじまりを

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先日、秩父の方で行われた「寺坂棚田ホタルかがり火まつり」なるものへ行ってきた。コンセプトは「棚田を楽しむためのイベント」らしい。こんなに素敵なイベントを今まで知らずに過ごしてきたなんて……と少し悔しい気持ちになりながらも、これは夏開きにぴったりだと、カメラ片手に乗り込んできた。

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