或るロリータ

A Certain Lolita

森田童子が死んでしまった

毎年六月になると必ず思い出す曲がある。切っても切れないみずいろで、私の心をつなぎ留めている儚い歌声がある。どこへ行って何をしようと、街も季節も私自身もすべて変わってしまっても、かならず戻れる場所がある。弱くて優しくてふるえてばかりいたあの頃の、少年の私が待つ孤独なサナトリウムが。

2018年6月12日という一日は、おそらくここ数年間のあいだでもっとも目の前に「森田童子」という文字が流れてきた一日だっただろう。そうして彼女の声を耳にした人が、この日本じゅうでもっとも多い一日でもあっただろう。街ですれ違う人、駅のホームで佇む人、電車から窓の外をながめる人、そう、耳にイヤホンをしている人がみんな、もしかしたらあの儚い歌声に胸を痛めているんじゃないかなんて、本気で考えてしまった。そんなこと、一昨日までは夢にも思わなかったのに。

訃報を耳にしたのは6月11日の真夜中。枕元でiPhoneに目を落としているときだった。もちろんショックだったが、それも一瞬。なんだか嘘みたいで、それに、はなから彼女に逢ったこともないのだし、本当に存在しているのかどうかも定かでないくらい、ある意味架空の人に近かったから、なんと言おうか、実感が湧かないというのが本音だった。死んじゃったんだ、そうか……そう思って、そのまま眠ることができた。

朝起きてから、少しずつ実感が湧いてきた。やっぱり森田童子について考えずにはいられなかった。通勤中は何も音楽を聴かなかった。感情というよりは、頭で彼女の死について思いをめぐらせた。私の中にある彼女の情報と、ネットに流れてくる彼女の情報を照らし合わせながら、うなずいたり、微笑んだりしながら、もやもやと一日を過ごした。

意外だったのは、彼女の死について言及している人が多かったこと。Twitterの数少ないフォロワーの中でさえ、何人もの人がかなしみの呟きを投下していた。実はみんな、彼女のことを知っていたんだ。いや、知っている以上の、「好きだった」に近い目線で呟いている人ばかり。森田童子のことなんて、誰も、普段話していないのに、こんなに認識されていたなんて。私は奇妙なにぎやかさを覚えて、何か狐につままれたような気持ちになった。たとえるなら、夏祭りの日のような。神輿の音が近づいてくると、普段バラバラにしか顔を合わせない近所の子供たちが、こぞって玄関から顔を覗かせて、それからその日は特別に門限が取り払われて、月の下ではしゃいだり、立ち話をしたりして……。あるいは大晦日の食卓のような。みんなで同じ番組を観て、同じ鐘の音を聞き、蕎麦をすする。

でも、祭りはいつか終ってしまうし、年もそのうち明けてしまう。彼女の死によって沸き起こった小さな台風は、数日もすれば去ってしまって、あとにはこれまで以上の淋しさが残るだけ。そう考えると、私はここに何か書き記さずにはいられなかった。もともとこのブログを始めたとき、自分の好きなことだけを書こうと決めていた。その中で、特に森田童子の話題に関しては、来たるべき時に書こうと。それはなるべくこのブログが認知されてからの方がいいだろうし、私の森田童子に対する熱情と追究とが一定に達したあとの方がいいだろうと思っていた。いずれ時は来るだろうと構えていたら、あっさりと彼女は逝ってしまった。何の準備もできていないままに、私は命題に向き合うことになった。

仕事がろくに手につかないまま一日を終え、帰り道。ゆっくりと歩きながら彼女の歌声を聴いた。やっぱりあの頃のままだった。でも、それはこの世界のどこかにいる人の歌声から、もうどこにもいない人の歌声に変わってしまった。その事実に胸の中がぽっかりと寒くなった。夕餉はひとり彼女の弔いをしようと決め、ビールを買った。家に帰り着いて食卓につき、マッチを擦ってランプに灯りをともした。パックの刺身が並んだ華やかな食卓を前にして、箸がつけられなかった。今から乾杯しようとしているわけを考えると、涙があふれてきた。急にあふれてきて止まらなくなって、声をあげて泣き出してしまった。本当は平気なんかじゃなかった。やっぱりかなしかった。どうしようもなく。逢ったこともない人なのに、初めからいないはずの人なのに、それでもなぜだかかなしかった。ベッドに倒れこんで、シーツに顔をうずめてめちゃくちゃに泣いた。それから泣き疲れてぼんやり天井をながめていたら、あの頃のことを思い出した。いつもこんな風にして彼女の歌声を聴いていたなあと。

はっきり言ってしまうと、私は森田童子が好きだ。そのことを打ち明けるまでに、結局十年もかかってしまった。あれから十年も経ってしまったことにおそろしくなってしまうけれど、十年前も、九年前も、そうして去年の今ごろも、私はいつだって森田童子を聴いて過ごしてきた。好きなアーティストを訊かれても、カラオケに行っても、絶対にその名は口にしなかった。できなかった。なぜだろう。ただ好きなだけじゃないからだろうか。彼女は私の青春のすべてと言ってもいい。真っ暗な濁りの中をやみくもに走り続けていた長い日々の中で、私が縋ることのできた唯一の存在だった。彼女と出逢わなければ、私は今ここにいなかったかもしれないし、私は今の私になれなかったかもしれない。

彼女の歌声を聴いていると、楽だった。何も考えなくてすむからだ。学校で友達ができなくても、好きな娘に恋人ができて心にひびが入っても、急に人と話せなくなって外に出ることがおそろしくなっても、私にまとわりつく社会の亡霊は、ひとたび自室のベッドの上で、あおむけになって彼女の曲に耳を傾けていると、心地よく剥がれ落ちてゆくのだった。学校から帰ってくると、夏は窓を開けて夕風に吹かれながら、暮れてゆく空のもと、蝉の声と混ざり合う彼女の声に目をつぶった。冬は炬燵にすっぽりと潜りこんで、ひたすら汗をかきながら彼女の声を子守唄のようにして眠るのが日課だった。その瞬間が楽しいとか、これが自分の趣味だとか、そんな意識はひとつもなくて、ただ生活の一部として、ご飯を食べるみたいに、お風呂に入るみたいに、そうやって毎日三時間は彼女の曲を聴いて過ごした。

夜は彼女の声がなければ眠ることもできなかった。まるで夢の世界へ向かってゆく夜行列車の発車音みたいだった。今思えば完全に依存していたんだけれど。それから少し経って社会人になり、私はちょっとだけ世間と向き合うことを決めた。もう大人になってもいいかな、とあきらめた。色んな音楽を聴くようになったけれど、どんなに周囲の音があざやかに入れ替わっても、森田童子だけは必ず私の中に居続けた。少しでもブルーな日には、やっぱり戻ってきてしまうのだった。そのためか、あの大人になんてなれるはずもない不安定な少年は、薬に頼ることもなくなんとか青年になれたのだ。

これは誇りでもなんでもないけれど、私は少なくとも今の二十代の中で、もっとも森田童子の歌声を聴くことに時間を費やし、心を使い果たした自信がある。だってそれしかなかったんだから。学生時代何をしていましたか、そう訊かれたときに、毎日炬燵に潜って森田童子を聴いていました、なんて、おまけに過去を振りかえりながら、じゅくじゅくの傷口をさわってばかりいました、なんて、誰が言えようか。かといって、単に「好きな歌手」に留まるほど、私は大人として平気に彼女の名前を口にすることはできなかった。それに、別に共感してもらうつもりもなかった。ただ、彼女の曲を聴くことは、私がすべての青春を投げ出して打ちこんだ大事業だったというだけだ。

上京して私は玉川上水沿いのアパートに住んだ。「まぶしい夏」という曲を聴きながらよく散歩をした。甘ったるい懐かしさに胸をきゅっとつままれるようだった。懐かしいという気持ちはすべて故郷に置いてきたはずなのに、不思議と彼女の曲は東京の街が似合う。辛い仕事の帰り道には「ラスト・ワルツ」を聴いていたし、エアコンのない真夏の部屋で真っ白なシャツを着て「逆光線」に心ごと凭れるのが私を落ち着かせた。彼女はだめになることを肯定してくれた。そこにある現実という景色がたとえ不幸だったとしても、目をそらさずに向き合いながら、それでいて戦いもせず受け入れる。だめだったらそれまでだと、流されるように。

実はちょうど一年ほど前、新宿のネイキッドロフトで「森田童子ナイト」というイベントがあった。森田童子を想う人々がつどい、飲んだり食べたりしながら、彼女の思い出について語り合う会である。もちろんそこに彼女本人はいない。夜の東京に出かけることにいつまでも慣れない私だったが、迷ったあげく、仕事終わりにひとり中央線に揺られたのを覚えている。狭い建物に、小さな立て看板がひとつ。注意しなければ見落としてしまいそうな場所だったが、ひとたび近づくと、開け放ったドアの向こうから彼女の歌声が一気に漏れ出してきた。ほっとしたと同時に、果たしてこんなに堂々と彼女の曲をおおっぴらに聴くことが許されるものなのか、と悩ましくもあった。暗い部屋の中はすでにたくさんの人影。もちろん自分よりずっと年上の人が多かったけれど、中には同年代の若い娘の姿もある。私は「雨のクロール」という特製カクテルを頼んだ。部屋じゅうに響く彼女の歌声は、集団でいながらも心地よい孤独を与えてくれて、まるで小学生のころ体育館で薄着になって、一斉に結核の予防注射を打ったときのことを思い出した。

何気ない顔で生活しながら、この都会の中には、同じように森田童子を聴いて暮らしている人がいたんだ。それもこんなにたくさん。私はイベントの内容よりも、そんな不思議な空間に身を置いていることに終始はらはらしっぱなし。イベントが終ったあとに、「やっぱり森田童子はひとりで聴くものだ」と再確認したにせよ、あのつどいに参加できたことは、今となっては貴い経験である。

さて、ここまでこうして文章を書きながら、未だ私はこの記事の締めくくり方が判らない。きっと判りたくないのかもしれない。私が森田童子について書くときは、すでに何かあったときに違いないんだから。それだけは判っていたから。家族や友達のような近い存在であればあるほど、手紙なんて書かないもの。それこそ、結婚式か、告別式か。だからこれは私からの彼女に対する追悼文なのかもしれない。そんなつもりで書き出したわけではないけれど、でも、ニュースを見た故郷の母から急に連絡がきて、「あなたがショックを受けるだろうから言うべきかどうか迷ったけど」なんて言われたら、やっぱりそんな私が彼女の死をだまって見送ることなんてできるはずもない。

もっと色々書こうと思ったことはある。けれど別に書かなくてもいいことだ。そんなことばっかり。あの頃、好きな娘からの着信音を「G線上にひとり」に設定していたこと、高橋和巳を読み漁ったこと、セルロイドの筆箱を今でも使っていること、菜の花がいちばん好きな花になったこと。どれも気まぐれだけれど。だって私は別に彼女のファンなんかじゃないから。彼女のことを深く知りたいわけでもないし、彼女の真似をしたいわけでもない。ただひたすら彼女の作品に溺れて、救われただけの人間だ。姉のように、母のように、恋人のように、彼女に縋りつづけていた私の旅は、しかし決してひとりでは続かなかった。だから、ぼくの一生ぶんの敬愛の気持ちを、彼女に捧げたい。

最後に、彼女の死を受けて、ひとつだけ誓ったことがある。「生きていればいつか会える人」には、今すぐにでも会っておいた方がいいということだ。それは憧れのアーティストだったり、はるか昔の友人だったり、忘れられない恋人だったりするのかもしれないが、いつか会ってみたいとか、もう一度会いたいとか、そんな風に思いながら、会うことを先延ばしにして、会えないことを世間のせいにして、それで季節に流されてしまったら、きっともう、二度と会えないんだと思う。今、会えない人は、たぶん、死ぬまで会えないんだと思う。会いたいなら、今すぐに、会おうと努力するべきだ。もしそれでだめなんだったら、本当に会えないんだよ。それだけの話。勇気を、十年後の自分に押しつけてはいけない。どうせ目をそらすんだったら、きっと十年後だって、おんなじだ。

確かにこの時代を生きていたはずなのに、まるで遠い時代の出来事みたいに、彼女はこの世界から失われてしまった。出す宛てのない別れの手紙を書き崩して、インターネットの海に放り投げたそのあとで、私はこれからどのように生きていくというのだろう。

今はまだ、判らない。

「後悔」ってそんなに悪くない

誰より故郷が好きだった私を突き動かしたのは、他でもなく積み上げてきた後悔だったのかもしれない。後悔……あのころの私には、とにかくそれしかなかった。

青春と呼ばれるはずだった時代を、私はすべて後悔に費やした。あるときは立ち去ってゆく少年時代の面影に、あるときはありふれた進学や就職への苦悩に、またあるときは稲妻のような失恋に。私にとって青春はつねに「今」でもなく「未来」でもなかった。過ぎてしまった時代の、二度と手に入らないと判りきっている時期だけを、私は胸を張って青春と呼べたのだ。それはたぶん、今の、そうしてこれからの自分が、果たして青春というものをやってのける自信がなかったからだろう。勉学に励む生真面目さもなく、部活動に汗をかく根性もなく、クラスの女の子に向き合う誠実さも色気もない。私は過去といくつかの書物だけをむさぼり、そのまぶしい季節のほとんどをあっけなく使い切ってしまった。大人になって嘘をおぼえ、恋をおぼえてもなお、後悔というものは私の生活を指し示す羅針盤であることに変わりはなかった。

学校を卒業し、働きはじめた私は、毎朝八時から夕暮れまでの区切られた時間を労働に差し出して、およそ生活に困窮しないだけの賃金を得た。望んでいない立場に就きながら、心と裏腹に上手に大人になってゆく自分。日々、仕事をこなせるようになってゆく身体。幸い、心と身体を切り離したまま、人形のようにこなせる仕事だったから、自分を見つめる時間は十分すぎるほどにあった。

社会人一年目はほとんど人と会わぬまま、家に帰っては安い発泡酒をあおるだけ。楽しみはそれくらいだったから、少しは貯金の額も増えた。二年目に入ると、中学時代の友人と再会した。彼も私と同じように、世間をうたがって生きていた。それにお酒も飲める。私たちはすぐに昔の間柄にもどった。それからというもの、毎週末になると夜の街に繰り出すか、いずれかの家に集って宴をひらいた。貯金はみるみる減っていったが、かわりに心は何か煌びやかなものに満たされていった。これが、私の生きていく理由かもしれない。仕事をして賃金を得るだけの生活も、この金曜日のために存在しているのかもしれないと思った。

青春をやり残したまま大人になった同級生は意外に多いらしく、酒の匂いを嗅ぎつけて、なぜか中学のころよりもずっと高い頻度で、何人もの友人が週末に顔を見せるようになった。私のつまらない日常の中にほんの少し、非日常の瞬間が訪れるようになったのだ。

ただし、私はそれで後悔をかき消すことができたのではない。ただ上手に目をつぶることができるようになっただけだ。誰もが部屋を後にして、空のグラスをひとり片づける朝明けに、私はいつも夢を見た。この場所を飛び出して、どこか遠くへいく夢。後先なんて考えずに、やりたいことをひたすらやって、そうして輝くもよし、だめになるもよし。なによりこの部屋に居続けることより、ずっとましに思えた。

やがてグラスを交わしても私ひとり、胸の中の東京にばかり焦がれるようになった三年目、私たちの長い同窓会に夕暮れが訪れた。いよいよ私は、出ていくことを決めたのだ。私には学歴も資格も才能もない。上京する準備など、何一つ整っていなかった。この場所にいて、楽しくあきらめていくこともできたはずだ。それでも私は決めたのだ。それが初めての失敗であったなら、私はまだあの部屋にいたかもしれない。けれど私は、もう、いやというほど後悔をして、後悔なんてし飽きたのだ。それも、すべて「やらない後悔」に帰結する。私は指をくわえて何もかもを見送ることだけに関しては、どんな大人より深く知り尽くしたつもりだった。その先に、何もないということも。

「やって後悔」することが、どんな気持ちなのか、一度くらい知ってみても悪くない。だめになったら戻ってこよう。失敗を重ねた人間の、最後の強みである。ある秋の日に、私は故郷を発った。

死ぬ以外の失敗なら、なんでもしてやろう。そんな気持ちで転んでは起き上がり、今、ここにいる。東京の街にもようやく慣れてきた。やっぱり故郷が恋しいが、ここで私を必要としてくれる人もいる。浪費したはずの青春時代に読みふけった書物や、稲妻のような失恋の心境、無駄だと思い込んでいたかつての仕事での経験も、面白いくらいすべて今の仕事につながっている。後悔なんて、後悔なんて、さなぎの中で必死に蠢く、どろどろしたスープみたいなものじゃないか。必要だったんだ。私にとって。あの悩み抜いた日々がなければ、私は今、ここにいないのだから。

 

限りない自由なんて、ただ淋しいもの

一人暮らしをしてみたいと、誰もが一度は思ったことがあるはずだ。特に思春期の時分には、親の愛がどこかうとましく感じられて、自分にはもうそんなものは必要ない、それより都会のアパートで一人暮らしをして、好きなものに囲まれた部屋で思うままに時間を過ごしたい、と、大人の生活に幻想を抱いたりする。

私も例に漏れずそんな夢を見ながら学生時代を過ごしたが、将来というものについて割とまともに考え始める頃になると、実家住まいのまま生まれ育った故郷に居続けるのがきわめて賢明な判断に思え、淡い希望は途端に失った。就職してわずかばかりの給料が入るようになると、六畳の自室に家具や家電のもろもろを押しこんで、実家に居ながらして小さな一人暮らしの部屋を完成させた。狭い部屋に不釣り合いな大型テレビで映画を見ながら酒を飲み、夕涼みに窓を開ければ、ちょうど西陽に染め上げられた山並みがなまめかしくシルエットに変わってゆく。そんな風景が見えると、やっぱり田舎も悪くない、と思ったりする。

だから突然の転職が決まり、初めて一人暮らしをすることになったとき、私の中ではもう、喜びより不安の方が大きかった。恋や仕事に折り合いをつけながら、決して高くない給料の中でささやかな贅沢を積み重ねていくことに、私は何も不自由していなかったから。これ以上ひとりになりたいとも思わなかったし、これ以上どこかへ行きたいとも思わなかった。海の底の砂のように、じっと明かりの差すのを待って、流れてゆく水や魚を眺めているだけで、十分に楽しかったからだ。

都会への憧れがなかったわけじゃない。けれどそれはこのじっと安定した水底のような生活を投げ打ってまで追いかけるものではないと思っていたし、第一、私ひとりに私の人生を背負えるほど、まだ大人になりきれてなんかいない。結局は、両親や、家や、故郷に守られながら、その中で一人暮らしのふりをしながら生きてゆくのが私にはお似合いだ。そうやってうじうじと悩んでいても、旅立ちの日は迫ってきた。ただ、どんなに怖くても、自分自身の覚悟だけは裏切れなかった。私は故郷を捨てたのだ。

横浜とは名ばかりのさびれた町の片隅で、駅からだいぶ歩いた暗い路地にあたらしい私の住みかはあった。建物自体は綺麗だったけれど、狭くて無機質で、それに故郷よりずっと空が低く見えて、ここでやっていけるという自信なんてこれっぽちも持てなかった。なけなしの貯金を崩して買い揃えた家具をいくつか置いたところで、部屋の雰囲気はちっとも明るくならない。いくら自堕落に過ごしたところで叱り飛ばしてくる家族はいないし、訪ねてくれる友達もいない。この町の誰もが私のことを知らないなんて、そんな淋しいことはないだろう。

何をしても許される日々の中では、私は何もできなくなった。自由とはなんなのか考えたが、このそこらじゅうに落ちている埃みたいなものがそうなのだとしたら、大人ってずいぶんつまらないものなんだと思った。段ボールを貼りつけた窓からは光が入らず、部屋はいつも暗かった。薄い布団に包まれて誰の声も聞こえない部屋で眠るとき、私はあまりの人恋しさにおかしくなりそうだった。

結局私はすぐにその部屋を引き払い、もう一度、別の場所であたらしい生活を始めることにした。仕事がつらくて孤独を楽しむ余裕さえなかったのも一因だろうけど、初めての一人暮らしは苦い思い出に終わってしまった。最後の荷物を積み出して、何もなくなった部屋は、初めて訪れたときのように空っぽだった。窓の段ボールを剥がして久しぶりに陽を浴びて、どこか生き生きとして見えた。次にここに住む人には、きっと素敵な部屋に見えるにちがいない。別れ際になると少しだけ名残惜しさがこみ上げてきて、あわててドアを閉めた。さようなら。次こそは、負けない。

お酒をやめることにした

突然だが、お酒をやめようと思う。これは目標ではなく、決断だ。思えば私は青春の終わり頃からずっと、お酒とともに生きてきた。遥かなる思い出の数々はそのほとんどが酔いどれだ。飲むことでしか夜の行き方がわからなかったし、一杯飲むごとに延長されてゆく週末の真夜中のなんと麗しいこと。次はどの店に入ろうかと友人と肩を組みながら歩く街の、路面にうつるネオンや赤提灯はため息の漏れるほどに美しく、幻想的だった。長らく夢を見ることをやめていた私にとって、金曜日の夜だけは、いつかやり残したファンタジーを再現してくれた。孤独な夜さえ、淋しささえ、ひょっとしたら幸福だった。グラスの中でひとりでに崩れる氷の音が、風鈴のように静寂を打ったとき、部屋じゅうがたちまち夏になる。目を閉じれば思い出の数々があざやかに私を遠いあの日へ連れ出して、心はいつでも少年に戻れるのだ。オイルランプの細い火を見つめながらウイスキーを口に含めば、私は何にだってなれたし、どこへでも行けた。まるで魔法みたいだった。

だからお酒をやめるのだ。魔法はいつか解けるから。永遠でないものにすがりついて、実体のない思い出にすがりついて、一歩もあとずされない帰り道をふり返りながら、うしろ向きのまま未来へ向かってゆく。名残惜しさはときどき人生のほろ苦いスパイスになるかもしれないが、私はもはやスパイスだけで空腹を満たそうとする哀れな大人になってしまっていた。私には向かうべき明日がある。時間を止めている場合ではないのだ。だからもう、何かを忘れるためにお酒を飲むのはこれでおしまい。またいつか私が杯を手にするときは、その夜を記録しておきたいときだけだ。残念ながら私はもう魔法は使わない。使わないですむように、生きて、生きのびてゆきたい。

最後の夜はそれもまた金曜日だった。初めて逢う人と、そうでない人とが半分の宴席で、ただ何も考えずに多量の日本酒を浴び、気づけば夜は深かった。そこからの記憶はあいまいな夢のよう。ただ、悪夢にはちがいなかった。どこの駅かも知らぬ駅に飛び降りて、もはや自分が何者なのかも見失って、暗闇に浮かぶホテルの青いネオンにするすると蛾のように吸い寄せられて、ふるえる指先で名前を書き、金を支払い、沈み込んだシーツの中で本当の悪夢を見た。朝陽がすべてを明らかにしたとき、私はもう引き返せない罪人だった。便器にしがみついて何度嗚咽を漏らしても、すべてのあやまちは流れ出てゆかなかった。悪夢の余韻を引きずりながら、私は朝の街を歩いた。

頭痛と、吐き気と、悪寒との、魔法を使いすぎた者に必ず表れる副作用にうめきながら、山手線に乗り、ひと駅ごとに口元を抑えながらホームに転がり落ちて、何度も息を吸った。家までの道のりが永遠のようだった。人はこうして簡単に社会からはみ出してしまうのだ。ときどき電車で見かける奇人変人の類に、その瞬間の私も間違いなく数えられるだろう。誰にも迷惑をかけない場所へ逃げ隠れたかったが、そんな場所、この都会のどこを探してもなさそうだった。

ようやく家に帰り着いてから、ずっと考えた。これは本当に私に必要なものだったのかと。楽しい記憶と悲しい記憶を交互に思い出しながら、いつか私を救ったはずのその魔法が、今の私にはもう必要なくなったんじゃないかと気づいたのだ。私はもう魔法の楽しさを十分に知り尽くした。それでもなお世の大人たちにはまだまだ青いとなじられてしまいそうだが、彼らはきっとうまく魔法と付き合うことに成功した人たちなのだ。背伸びしすぎた私の道は、ここで閉ざされたというだけの話。

もちろん、もう二度とお酒を一滴も口にしないなんて、そんな大それたことを言い切るつもりはない。これは俗に言う無期限活動休止である。アルコールの匂いのしない独房の中で、自分とお酒との関わりについて、しばらく考えてみようと思うのだ。関係各位にはつまらない思いをさせてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいだが、ちゃんとウーロン茶で酔えるように練習をしておくつもりなのであしからず。

淋しさがつのりすぎて「孤独」をテーマにした本を作ってしまった

青春時代を通して誰にも負けない唯一のものがあるとすれば、私にとってそれはどこまでも孤独であったということだけだ。恋も、遊びも、勉学も、十代の私には手に負えないものだった。私は誰からも期待されず、また、誰かに期待することもやめた。だから私は、すべての答えを自分の中にだけ求めたのだ。

話す人のいない教室の中で手元の文庫本に目を落とし、夕暮れを待つ日々。淋しい田舎道を自転車で帰りながら、どこかへ行きたいと願う。それがどこなのかは、わからなかったけれど。

大人になっても、私と腕組んで歩くのは、いつだって孤独という恋人だった。孤独は一種の癒しでもあった。楽しいはずはないけれど、そのかわり、悪いことも起こりえない。足元にただよう霧のように、どんなときでも安心して私を憂鬱にさせてくれる。
だから私は夜がくるたび孤独を見つめ、孤独を愛した。

酒を飲み、淋しくなり、たちのぼる孤独の影をつかまえて解読する。孤独を題材に文章をつづることで、私は永久機関と化したのだ。noteやTwitterなど、ネット上のいくつかの場所に、ふらりと姿を現しては、ぽつりと孤独を書き残す。そんな夜が積み重なって何年にも及んだとき、やがて私は「この歳月を形にしてみたらどうなるだろう」と思うようになった。

過去の自分の文章を読み返すことは、正直、楽しいことだった。世にあふれるあらゆる書物のどれをとっても、自らの文章ほど簡単に思い出を呼び起こしてくれるものはないからだ。決して名文、美文の類いではないが、平成の或る一時期に孤独を患った青年の残雪として、見世物小屋へ入るような心持ちでこの本を手に取ってくれる人が現れたなら、あの淋しい青年の亡霊も幾らか救われるだろう。

 

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タイトルは「だってワルツが聞こえないから」。以前、noteに上げたテキストのタイトルから拝借した。

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目次はこんな感じ。

 

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各章の扉はこんな感じ。

 

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読んでいて陰鬱になるような文字列のつらなり。

 

では、内容について少しずつ紹介していきます。

 

過去の私のnoteとTwitterのつぶやきから、夜にひっそり読み返したいものをまとめました。
がらくたの箱をひっくり返して懐かしみながら選び抜くような作業でした。
特に統一性はなくとりあえずまとめただけの章です。

 

ノスタルジア

「夜」と少しかぶってしまうのですが、より淋しさに焦点をあてたものを集めました。
故郷にいたころに書いたものもあれば、上京して故郷を恋しがりながら書いたものもあり、自分自身の中にある「懐かしい」という感情のつまみを一気に回されてしまいます。



これ以降のページは小説になります。


ジン・ハウス・ブルース

以前noteショートショートフェスティバルに投稿した作品。
土曜日の午後に砂浜でお酒を飲むのが趣味の男性と、そこに現れた女性とのみじかい物語。

 

いつか春が来ても

主人公は、ひたむきに生きるひとりの女性。
たったひとりの大切な恋人がいる。
しかし、ある日恋人の前に現れたブルーのコートの女。
女の存在により、主人公は徐々に恋人に不信感を抱き始める。

 

ロマネスク

以前、季刊マガジン水銀灯に寄稿した作品。
「雪」というテーマをいただいたにもかかわらず、真夏を舞台に書いてしまった天邪鬼な作品。
女を知らない純粋な男が、たまたま上司に連れられた入ったキャバクラで、美しい女性に出逢う。
恋をあきらめかけていた男が、ふたたびロマンスに目醒める物語。

 

上下水道

かなり昔、とにかく青春のにおいのするものがすべて嫌いだった時期に書いた作品。
「初恋」という澄み切った探照灯に追われ続ける日々の中で、心と裏腹に身体は大人へ近づいてゆく。
抑えきれない欲望や、耐えきれない世間からの眼。
それらから逃れるために恋をすることは、果たして正しいのだろうか……。

 

裏地に花

酔っぱらったときの私は無闇にキーボードを叩いてしまう癖があるのだけれど、そんな酩酊の夜に記憶さえあやふやなまま書き連ねた文章の欠片を束ねたもの。本書の中でもっともとりとめがなく、人に見せるのが憚られるものである。

 

 

 

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A5サイズ100ページ、カバーは4色、本文は黒とミッドナイトブルーの2色印刷です。
ちなみにカバーの写真は昔「尾道灯りまつり」で撮影しました。

もともと自分で楽しむために作ったのですが、ついでなので少しだけ余分に作っています。もし買ってやってもいいよという物好きな方がいましたら、以下のnoteをご購入の上、記載のアドレスか、Twitterなどのメッセージでご連絡ください。
そもそもnoteなんてよくわからない!という方もTwitterなどでメッセージください。

▶︎『だってワルツが聞こえないから』購入用ページ 

ちなみに以前写真集もつくってます。こちらは夏が好きな人向け。

steam.hatenadiary.com

 

今週のお題「芸術の秋」

何かをやり残したと感じる夜にブログを書く

私がブログを書きたくなるのは、きまって後ろ向きな理由からである。仕事が上手くいっているとき、趣味を謳歌するのに忙しいとき、旧友たちと飲み明かしたとき……そんな日の私にはブログを書こうなんて発想はない。そもそもこのブログだって何の理念も目的もなく始めたものだし、私の綴る文章のどれにも壮大なテーマなど存在しない。私がブログを書きたくなるのは、酩酊時の手癖によるものか、あるいは何も成し得なかったわびしい一日の終わりに、焦って何か少しでも形になるものを残そうともがいた無残な爪痕なのである。

それはツイッターにも言えることである。私はここのところ滅多にツイッターを更新しない。140文字をつぶやく体力すらなくなってしまったからである。数年前までの私は、持て余した時間とくすぶった魂をひたすらダークなポエムに費やし、誰に発見されるでもなく夜毎タイムラインに140文字ぴったりのポエムを恥ずかしげもなく投下していた。そのことによって少なくともその夜の私は救われたわけである。今日はこんなにたくさん文章を書いた、と。しかし後になって見返せばそのどれもがゆきずりの女と関わったあとのシーツの乱れのように、空虚な情動の残滓に等しいものである。

私の書く文章にはまったくと言っていいほど生産性がない。もっとも私はこの世に存在する文章のほとんどが生産性など持ち合わせていないと思っているのだが。誰かの役に立つとか誰かの涙を誘うとか、あるいは家計費の足しになるとか、そういったわかりやすい釣果が得られれば誰もが自らの文章にもう少し価値を見いだせるのだろうけれど、得てして私たちは自らの文章を駄文と罵りながらどこまで広がっているとも知れないネットの水平線の彼方に投げ込むことしかできない。それはうまいこと二度三度、水切りの小石のように水面を跳ねて煌めく飛沫を見せて寄越すこともあるけれど、往々にして振り返ることもなく一直線に海底へ沈み込んでゆくのが関の山だ。沈んだあとには幽かな波紋が広がり、すぐに消える。その波紋、それこそが私の記す文章の唯一の価値なのではないだろうか。その場で、そこに視線をやっている人にしか、波紋の存在は気づかれない。沈んでしまえば、海底に数多ある石ころのひとつになってしまう。だからこそ、その一瞬のために、このネットの海原に儚く消え去る瞬間を見つけてくれるかもしれない人のために、私は文章を書いては放るのだ。

今この文章さえ、誰に届くかわからない。届いたところで、どんな作用をもたらすかもわからない。それでも私は、今日を慰めるためにひたすら文章を書き連ね、それを投げ込む。いくつもいくつも波紋をつくっては消し、それがやがて雨のように世界を覆い尽くすとき、私は私が文章を書く本当の理由に気づけたりするのだろうか。

 

 今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」

社会では「すり減らさなかった人」が勝つ

先日、中学校と高校をともに過ごした同級生から電話がかかってきた。内容は、気まぐれな近況報告みたいなものだった。彼とは学校で特別仲がよかったというわけではない。教室にほとんど話せる相手のいない私に対して、彼は成績は悪かったが部活だけはひたすら続け、先生たちからもよくいじられるタイプだった。本人もひょうきん者で、悪さをしてはまた叱られ、それでもヘラヘラと笑っているものだから、なんだかんだでいつもクラスの人気者だった。圧倒的な「陽」と形容するにふさわしい彼と比較すれば私は陰どころか「暗闇」だった。

そんな人気者の彼だが根は優しく、私が教室の隅でさびしそうにしていると、同じ中学のよしみからか声をかけたりしてくれることもあった。しかし、私は変なプライドもあった上に、人と話をすることを避け続けていたせいで声の出し方を忘れかけていて、彼の誘いに応じることはほとんどなく進んで孤独を選びつづけた。

そんな彼とも、高校を卒業してから、なぜだか一緒に飲みに行くことがあった。先述の通り同じ中学出身で、家は割と近所だったのだ。私が通っていたのは工業高校だったから、卒業したらほとんどの生徒が就職する。工業高校のクラスメイトとはつめたいもので、仲間のように見せかけながら敵同士でもある。三年間の成績の優劣で、応募する会社を優先的にえらべるのだ。おまけに半数が東京や大阪をはじめとする県外への就職。もともとそれぞれが県内のあらゆる地域から通学しているし、卒業してからも仲良くしつづけるという間柄は相当に珍しいものといえた。そんな友情の結末を、はなから孤独だった私はどこか得意げに、「それ見たことか」とあざ笑っていた。

彼からの誘いがきたのは、就職して仕事も落ち着き始めたころ。お互いに新入社員の初々しさなどとうになく、生きるために働くというシンプルな答えに嫌気がさして、会社の爆発を願いながら通勤する毎日を送っていた。彼は煙草をたくさん吸っていた。これが大人だと言わんばかりに。元々「田舎のヤンキー」気質のあった彼だから、そのあたりはまだ若いなあ、と、なじりつつも、実は私も煙草を覚えたばかりだった。その日は彼から一本だけ煙草をもらった。

両手に幸福を抱えてシーソーに乗ったとすれば、高校時代の彼なら私を青空まで吹き飛ばしていただろう。それくらい彼は輝いていたし、私は目も当てられなかった。ところが就職して彼の前に生計という問題ができた。それはお調子者というだけではどうにもならない。そうして人と会話など永遠にできるはずがないと思っていた私は、初めて触れる社会の辛苦にもまれながら、真人間の方向へと矯正されていた。その二つの作用により、私たちの重量はほとんど均衡に近づいていた。むしろ、ときどき見せる彼の憂いに満ちた表情と、ため息とともに吐き出す紫煙とは、シーソーの傾きをゆるやかに反転させていることの証拠ともいえた。

彼とは数回飲みにいったきりで、それきり会わなくなった。

私が東京で暮らすようになったことは、風の噂で知っていたらしい。数年ぶりの彼の言葉は相変わらずの故郷訛りだったが、そこに幽かな緊張があった。大人が大人に話しかけるときの、誰もが顔に貼り付ける幽かな緊張。それが私をも身構えさせた。努めて昔のように、いくつも冗句を交わしたけれど、ふたりのあいだに流れる歳月がそれを吸い込んだ。

「よかったらまた、飲みに行こう。帰ってきたときはいつでも誘ってよ。」

彼の口調はずいぶんと私を気遣っていた。彼にとって私はもう、東京で暮らす遠い人になってしまったのだろうか。地元の古びた居酒屋で燻り合っていたあの頃から、彼のかなしみはずっと育ちつづけていたようだ。電話口ではほんの二言三言だったが、彼は弱音を吐いた。誰にも打ち明けられなかったが故の、事故のような弱音だと思った。

私だって決して、何の苦労もなく東京で輝かしい生活を送っているわけではない。だが、自分を苦しめる暗い感情のやつらとは、どこかでうまく付き合わなければ、上手に生きてゆくことなんてできやしない。いくら教室の中で人気者でも、いくら勉強ができて、運動ができて、女の子にもてたとしても、それは一瞬の煌めき。青春の結末にしか影響しない。

私たちが生きてゆかなければならないのは、青春のその後である。教室の中での評価は、永遠ではない。もちろん、思い出に救われることはあるけれど。社会は長い防衛戦だ。あらゆる角度から私たちは心と身体を削られる。そうしたときに、うまく切り抜けたり、別のことで気分転換をしたり、ちゃんと自分自身をフォローしたり、ときには誰かに助けを求めたり、暗い気持ちをしっかり対処して、いつも通りの明日を獲得しなければならないのだ。防衛に失敗するたび、すり減ってゆく。心が、身体が、魂が。世間は悪党よりも非情で、「ここらへんでやめとくか」なんて思ってくれやしない。自分で自分を守れなければ、すり減って、すり減って、なくなってしまうだけだ。

彼は、もうずいぶんすり減っているように思えた。私が何かを成し遂げて彼に勝利したのではない。ただ、彼の方が先にすり減ってしまっただけだ。私は誰にも勝っていない。勝っているように見えたなら、それは、そう見える人たちがみんな、負けてしまったのだろう。私たちはこの長い道のりを、自分をすり減らさないことに神経をすり減らして生きてゆく。そうして最後の最後まで、少しでも他人よりすり減らさなかった者だけが、いつのまにか表彰台に立っているのが人生なのだ。