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或るロリータ

A Certain Lolita

バレンタインデーの思い出

それはまだ私が小学生だった頃の話である。私には好きな女の子が何人かいた。幼少期から惚れっぽい性格をしていたのだ。幼稚園の頃なんておんなじ水色組の中だけでも十人以上好きな娘がいたくらいだから、小学生になって大分マシになったといえる。

1年3組の教室はいつも騒がしかった。日本中の小学校の一年生の教室を覗いてみたところで、全員が大人しく授業を受けているクラスが一体いくつあるだろうか。それを数えるのには片手の指でさえ持て余してしまいそうだ。私のいた1年3組もその例に漏れることはなく、子供たちの甲高い声が飽和して古い木造校舎を軋ませていた。

私はもっとも南寄りの最前列、陽だまりのできる席にいた。目の前には先生の机があって、左手にはベランダがある。冬晴れの日にはそこは最高の席だった。窓ガラスの向こうに見える空を、ぼんやり眺めるのが好きだった。

「先生、チョコレート持ってきてもいいですか?」

そんな質問が女子達から発されるようになったのは、二月に入ってまもなくのこと。世間ではバレンタインが近づいていた。女子達は手作りチョコレートの準備に浮かれていたし、男子も口には出さずともどこかそわそわしていた。結局みんな浮かれていたのだ。

家へ帰っても、「一体いくつチョコレート貰えるんやろうね」そんな会話が成された。息子が小学校へ上がって初めてのバレンタインだ。異性からどのくらい好意を抱かれている人間であるのか、初めてそれが数字として現れる日となれば、母親も気になるのは当然のことである。そうしてこういう時の母親は往々にして無神経だ。私は必要以上の期待を寄せられることへのプレッシャーを感じながら当日を迎えた。

いつもと変わらない朝だった。いつもと変わらない朝食をたべて、いつもと変わらない時間に家を出る。通学路で出逢う友達も、何ら変わらない様子だ。校舎へ入り、下駄箱で靴を履き替える。下駄箱の中には上履きの他になにも見当たらなかった。

それから教室へ向かう。教室の様子はいつもと変わらない。甘いチョコレートの匂いなどどこにもしない。黒板の隅を確かめたが、確かに2月14日だ。席に着いて、さりげなく机の中を探ってみる。

……そこには、あった。

上等そうな赤い小箱に、愛らしいリボンが巻かれてある。誰だろう、確かめたかったが、ここで開ける訳にも行かない。私はそれを机の一番奥に押し込んで、何事もなかったかのように友達へ話しかけるのだった。

「気づいた?」

私に耳打ちしたのはトイレから戻ってきたらしい隣の席の女の子だった。彼女は私の家の近所に住んでいた。大きな洋風のあたらしい家は近所でも目立っていた。ひとりっ子の彼女はその家で甘やかされて育ったのだろう、ひどくわがままな性格をしていた。気に入らないことがあるとすぐに癇癪を起こして、しまいには泣き出すのだ。裏表がなくて話しかけやすかったけれど、節々に覗く高慢ぶりには気圧される部分があって、平和主義者の私には扱いづらい相手であった。

そんな彼女が、「気づいた?」と私に問うということは、つまりはそういうことなのだろう。机の奥に仕舞い込んだはずの宝物に対して、私は複雑な感情を抱いた。その娘は私に何人かいる好きな子のうちのひとりではなかったのだ。

放課後、その日は公文式の教室へ行く日だった。私は机の中身をこっそりとランドセルに移し替え、いつもと逆方向の道を歩いた。

「はい、あげる」

公文の先生は小さな個包装のチョコレートを私にくれた。

「学校でもチョコレートもらった?何個?」

呑気にそんなことを尋ねてくる。まったく、ただ数が多ければ良いってものじゃないだろう、と思いながらも私は、先生からもらったそれを一個にカウントすることにした。

その日はひどく気疲れして家へ帰った。ランドセルから取り出した例の箱を、急いで冷凍庫に仕舞い込む。不幸にも私は、チョコレートを冷凍室でキンキンに冷やして食べるのが大好きな嗜好の持ち主だったのだ。気づかれないように冷凍食品の下に隠したが、それはあっけなくばれた。

「凄いやん。誰にもらったん?」

母親がそんな愚問を投げかけるのは、単に無神経なせいばかりではないらしい。何かを戴いたら必ずお返しをするという母親の流儀に背いて、この怠惰な息子がきっとひとりの女の子の健気な思いを踏み倒すだろうと見抜いてのことだった。私は白状した。

三月始めの暮れ方のこと、私は母親に連れられて近所のジャスコにいた。イベント用のフロアに大々的に掲げられた「ホワイトデー」の旗と、山積みのクッキーやマシュマロ。「なんでもいい」「安いやつでいい」とぼやく私を背に、母親は、「これがいいんじゃない?」「これとか可愛いよ」とひとりはしゃいでいる。結局、母親の選んだクッキーを店員が大げさに包装して、私に手渡した。

やがてホワイトデー当日が訪れた。例のブツは学校には持って行かずに、一旦家に帰ってから渡しに行くことにした。午後五時頃だっただろうか。紫がかった空が私の曖昧な感情を表しているようだった。彼女の家の呼び鈴を鳴らす。「はい」と彼女の母親の声がする。私は少し緊張しながら名乗る。

「くれると思わなかった〜!」

扉を開けた彼女は終始笑顔だった。こんな、私が選んですらいない市販のクッキーをもらって喜ぶなんて、ばかみたいだ、……なんて思うほど、少年は純粋さを失っていなかった。むしろ、つられて嬉しくなったのだ。

(そうだ、チョコレートくれるだけでありがたいよな、お返しもこんなに喜んでくれたんだし!)

私はいいことをした気分で家に帰ったのだった。

       ♡

それから一年後のバレンタインデーのことだ。2年3組の教室は相変わらず騒がしかった。変わったことといえば私の席が陽の当たらない場所に移ったことと、隣の席に座っているのがくだんの彼女ではなくなってしまったことくらいだ。

私には好きな女の子が何人かいた。この一年間で沢山友達を増やしたし、授業中に毎回発表もした。二重跳びの最高記録だってサッカー部のあいつに負けちゃいない。だから、好きな娘のうちの誰かが、私に想いを寄せるようになっていても不思議ではなかった。

ふたつ前の席に、好きな娘のうちのひとり、ミナちゃんが居た。私は彼女の背中を刺殺するほど見つめていた。今にも彼女が振り返って、私の元へ駆け寄ってくるのを待ち望んで、一秒一秒過ぎて行った。授業中にも、休み時間にも、ミナちゃんは振り返らなかった。給食の時間には、同じ班のミナちゃんとは机を向かい合わせることになる。私はミナちゃんの一挙一動に釘付けだった。だが、ミナちゃんは太宰治の斜陽さながらにスープをヒラリと口へ運ぶばかり。私は少しずつ焦り始めた。

そうして1%のカカオ成分さえ手に入れることのできないまま、教室ではもう帰りの会が開かれていた。

(もしかして、もらえないのでは……?)(いやまさか、まだわからないぞ)(期待するのはよそう)(彼女、恥ずかしがって渡せないだけだって)

私の中の天使でも悪魔でもない凡庸な心の住人がそうした押し問答を繰り返しているうちに、やがて放課のチャイムが鳴った。私はあきらめた。教室をがやがやと出て行く人波の中でうつむきながら、ゆっくりとランドセルを肩にかけた。

顔を上げると、ミナちゃんが振り返っていた。どこかはにかみながら、こっちを見ている。その姿は、私を救ってくれる天使のように思われた。射すはずのない後光が射して、ミナちゃんがまぶしい。何か言わなければ、そう思いながらも言葉が出なかった。……だが、何も言わなくて正解だった。

十数秒ののちに、ミナちゃんがサッカー部のあいつの元へ駆け寄るのを目の当たりにしたからだ。天使は奴の腕を掴んで、教室の外へ出て行ってしまった。

私は絶望した。絶望しながらふと、あのわがまま娘の存在を思い出した。あいつなら、今年もくれるかもしれない、と。期待を膨らませてしまった以上、ひとつくらいチョコレートを貰って帰らないと、とても心の整理がつかなかったのだ。

「今年はこの人にあげたんだ」

結論から言うと、わがまま娘の心ない一言によって、私は二度目の絶望をした。よりによって別の男に鞍替えしたらしい。女の子のこうした賢明な判断は、少年の私には恐ろしいものだった。

二月の乾いた風が薄曇りに翳った校庭に枯葉を転がしている。いつもと逆方向の道を歩きながら、私はサッカー部のあいつのことや、わがままで軽いあの女のことを恨んだ。町じゅうの人間が劇団員に入れ替わって私を悲劇のシナリオで追い詰めているような気がした。

「はい、あげる」

公文式の教室では、また先生が個包装の小さなチョコレートをくれた。すぐに口へ放り込んだ。甘い、甘い、その味は、私の気持ちとは似ても似つかないものだった。

 

今週のお題「バレンタインデー」