歌が好きな子供だった。流行りのJ-POPやTVのCMソングを、親の前でも近所のおばさんの前でも友達の前でもいつも口ずさんでいた。街はどこでも私にとってステージだったし、太陽はスポットライトだった。
特に女性歌手の曲が好きだった。少年特有の甲高い声で女性歌手の曲をすんなり歌って聴かせるのを、周りの大人たちは凄いねと褒めた。それもそのはず、まだ声変わりもしていない少年にとって、「歌う」という行為に、音域も音程もなく、ただあるのは「楽しい」という感情だけだったのだから。
とにかく歌えなかった
声変わりが始まったのは中学校に入ってからだろうか。小学校の卒業式では、女子に混じってソプラノを歌っていた私が、ほんの数ヶ月後にはなんだか喉元に違和感を覚えながら生活するようになっていた。それと同時に周りの目も気になるようになった。声が少しおかしいのはいいとして、女子とうまく話せないし、親ともなんだかうまくいかない。つまり思春期だったのだ。
中学生になってから、家族で久しぶりにカラオケに行ったことがある。元々カラオケ自体あまり行ったことのなかった私は、かつて『残酷な天使のテーゼ』を軽々と歌った少年の頃の記憶を思い返して、意気揚々、十八番だと言わんばかりにその曲を入れたのだが、もうあの頃みたいには歌えなかった。まったく声が出ないのだ。それに気づくと、途端に恥ずかしくなって、それきり一曲も歌えなかった。歌うことが怖くなった。自尊心をひどく傷つけられて私は涙を浮かべた。妹がそれを見て笑っていた。
それから何度か家族でカラオケに行く機会があったのだが、私は頑なに歌わなかった。いや、「今度こそは」と思うのだが、一曲目で結局思い通りに行かずに途中で演奏停止をしてふてくされてしまうのだ。今思えば、なんて迷惑なやつだっただろう。みんなの楽しい休日を台無しにしていることにも気づかずに、私はただひたすら悔しかったのだ。
「とにかく、練習しよう」そんな思いで毎晩布団の中で好きな曲を口ずさんだ。布団の中ではちゃんと歌うことができた。それはきっと知らぬ間に裏声を遣っていたからだ。だが、そんな囁くような声だけでは、とうてい武器にはならない。次にカラオケに行った時、「練習通りにやれば大丈夫」そう思っても、マイクは何の音も拾ってくれないのだ。一度失敗するともう、涙がこみ上げてきて喉が詰まってしまう。そして私は、やっぱりカラオケなんて来なければよかった、と思うのだ。
高校に入っても、思春期を脱する兆しは一向に見えてこなかった。
ひとりも友達ができなかった私だが(参照: 私が高校時代に友達ができなかったわけ - 或るロリータ)、三年間のうちに、何度かカラオケの誘いを受けたことがある。それはクラスのお調子者のほんの気まぐれに過ぎなかったのだろうが、その度に私は「歌ってみたい」という気持ちと、「二度とあんな思いをしたくない」という気持ちの狭間で葛藤して、結局その誘いを断っていた。もしあのとき誘いに乗っていれば、私の高校生活はもっと華やかなものになっていたかもしれないし、あるいはもっと悲惨なものに様変わりしていたかもしれない。
歌わなければならなくなった
そんな私も、高校を出て、就職することになった。就職して一週間、なんとか職場の環境にも慣れ始めて、「ここならやっていけるかも……」と思っていた矢先、上司がぽつりと呟いた。
「そうだ、君の歓迎会をしなくちゃね」
「ありがとうございます!」
↓
(待てよ…飲み会ってことは一発芸とかカラオケとかあるんじゃないか…?)
↓
(カラオケ…カラオケ…?うわああああああああああ…)
もう、歌うことは避けられそうになかった。私はググった。ひたすらググった。
「飲み会 カラオケ 対処法」
「飲み会 カラオケ 乗り切る」
「カラオケ 高音 出ない」
そんな言葉をひたすら検索フォームに打ち込んで、一瞬にして私をスーパースターに変えてくれる魔法の存在を願った。だが、そんなものはあるはずもなかった。ボイストレーニングはおろか、ヒトカラに行く勇気もない。来たる華の金曜日は、私にとって絶望でしかなかった。
とにかく私が苦手なのは高音だった。緊張していると声が上ずって、とても裏声なんて使いこなせるはずがない。「絶対に地声だけで簡単に歌える曲」を捜すことが、私に残されたたったひとつの方法であった。
昭和歌謡という救世主
後に知ることとなるが、この曲は、低音界(?)では有名な曲らしく、2chや知恵袋などいたるところで、私のように高音が出ない人間がこの曲に救われたという報告を目にした。
よく、低音が魅力の歌手として、福山雅治を挙げる人がいるが、福山雅治の曲は、選択を間違えると普通に裏声を多用していたりして、私のような想像を絶するほど音域が狭い人間には、安全牌とは言えないのだ。
そもそも現代のJ-POPは総じて高音を多用しており、普段何気なく聞いていても、歌うのにはかなりの練習を要したりする。攻めるならまずは昭和歌謡から。むしろ、昭和歌謡さえ知っていればなんとかなるのだ。
私は二十代のくせして昭和歌謡がもともと好きだったから(参照: 古くさい恋の唄ばかり - 或るロリータ)、新しく曲を憶える必要もなく、なんとか初の飲み会の席にて、無事にマイクを握ることができたのである。しかも、上司や先輩にはめちゃくちゃウケた。おじさん連中は、若い人が昔の歌を歌うと喜ぶのだ。私は一躍、スナックの人気者になることができた。
自分の出せる限界を知る
かといって、毎回、飲み会のたびにルビーの指環だけを歌っているわけにもいかない。私自身、もう少しレパートリーを増やしたいと思っていたし、自分の出せる音域自体を広げたいとも思っていた。
音域.comというサイトがある。ここでは、曲ごとに最高音、最低音の音階が示されていて、歌詞のどの部分が最高音に当たるかというところまでチェックすることができる。音域を指定して検索することもできるから、このサイトでチェックして歌ってみれば、「自分にとって確実に歌える曲」が判るのである。
見れば、寺尾聰の曲は、確かにどれも最高音が驚くほど低い。似たような歌手を捜しても、なかなかいないことが判る。低さばかりに固執して、みんなの知らない曲を歌って場を白けさせてしまっては本末転倒だ。私は「知名度もそれなりにあって歌えそうな曲」を捜すことにした。そして、当面の目標は、玉置浩二の『田園』になった。
手持ちの弾を増やすことで安心する
『田園』を歌えるようになれば、同じ音域の曲はどれも歌えるはずだ。
そんな思いで練習を始めたのだが、もちろんすぐに歌えるようになるはずがない。コミュ障街道まっしぐらで、友達と一度もカラオケに行ったことのなかったブランクは思いの外深いものだった。その間にも、二度目の職場の飲み会が訪れた。
だが、私はもう恐れてはいなかった。私は歌が歌えないのではなく、高い声が出ないだけだと、『ルビーの指環』を歌えたことで証明できたから。
私は昭和歌謡の中でもとびきり低音ボイスに魅力のある弾を揃えて、向こう二、三回の飲み会はそれで凌げる準備を整えていた。そのあいだに、きっと『田園』も歌えるようになるだろう。
その頃の私を救ったラインナップ
- 水谷豊『カリフォルニア・コネクション』
- 加山雄三『夜空の星』
- フランク永井『有楽町で逢いましょう』
- ビリー・バンバン『白いブランコ』
- 舘ひろし『泣かないで』
- 石原裕次郎『ブランデーグラス』
- 渡哲也『くちなしの花』
- 海援隊『贈る言葉』 など
完全に若者受けは捨てて、おじさんをターゲットに絞った曲ばかりになっているが、それでも割と知名度のある曲ばかりなので、「古くさい」とか「渋い」とかいうイメージと引き換えに、私は飲み会を生き抜いていった。石原軍団は偉大である。
とにかく歌いまくる
私には何のノウハウもない。ボイストレーニングをつけてくれる先生もいない。だからひたすら歌っていた。いちばん練習が捗るのは車の中である。通勤中や、営業先への移動中、私はひたすら声を張り上げて歌っていた。もちろんヒトカラでも構わないだろうが、私は単純にヒトカラに行く勇気がなかったのだ。
そうしているうちに『田園』を歌えるようになった。すると、それに従いレパートリーもまた拡張された。
などを歌えるようになった。これは大きな進歩だった。若者が歌っているという点ではまだ人目を惹くものの、少なくともそこらのスナックで歌っていても、まったく不思議ではない定番曲が味方についたのだから。
こうなると私は楽しくなった。毎日歌って歌って歌いまくった。車に乗っている時間は至福だった。なぜか夕方帰社するといつも声が枯れている私が、別に営業のしすぎではないことに、同僚は気づいていただろうか。
そして或る日、私の中で革命が起きた。
大声を出す=高音が出る
という事実に気づいてしまったのだ。それは尾崎豊の『15の夜』を歌っていた時のことだ。サビへ向かう直前の「15の夜〜」という部分で、私は思い切り声を張り上げてみた。そしたら、不安定ながらも、普段は絶対に出せないその音域が、声になって現れたのだ。私は感動した。新しい力を手にした少年漫画の主人公みたいな気持ちだった。
それからの私は、大声を出して歌う練習をした。そうすると、尾崎豊の曲も少しずつ聴けるレベルにまでなってきた。そして気づけば、『15の夜』さえ、歌えるようになっていたのだ。もちろん、家で練習することはできない。車の中で、人気のない道を走るときだけ、得意になって何度も尾崎を歌った。もう怖いものなどないような気がした。自由になれた気がした。
尾崎を歌えるようになると、昭和歌謡なんかは、割と安定した声で歌えるようになっていた。ただ、熱唱するような曲でない、例えばバラードなんかは歌いづらくて、私は尾崎豊や浜田省吾なんかの熱く歌い上げる曲ばかりを練習するようになった。それに伴って、昭和歌謡の方は自然と歌える曲が増えてきた。
カラオケが好きになった
今、私はカラオケが好きである。上京してからは、歩いていける距離にカラオケがあるし、もう、ヒトカラに対しての抵抗もないから、ときどき気晴らしにカラオケへ立ち寄って、一時間ほど個室に篭っている。
友達の前で尾崎を歌ってから、私は「古くさい男」から、「古くさいけど無駄に熱唱する男」にシフトした。いつしかカラオケが、怖いものから楽しいものへ変わっていた。
未だに苦手なのは、スピッツとかゆずとか小田和正とか、軽々と高音で歌いこなす歌手の曲である。けれど、逆に男臭い歌手が声を歪ませながら歌い上げる曲なんかは大好物である。もっとも、このごろは著しい体力の低下と加齢によって、一曲熱唱したら息が上がってしまうのだが、カラオケが好きになって、何度も通ってきたお陰で、大好きな昭和歌謡については、その多くを歌えるようになった。歌える曲が多いのは、なんと楽しいことだろう。トイレに逃げて音域サイトとにらめっこせずに済む宴会の、なんと晴れやかなことだろう。
現代の若者は、歌がうまい傾向にあると思う。だからこそ私のような、歌に自信のない者は、必要以上の不安を抱えて生きることになる。もちろん今でも、自信があるというわけではない。ただ、カラオケへの恐怖がなくなったということは、私の人生を、何倍も何十倍も生きやすくしてくれたことにはちがいない。
だが、あんまり好きになりすぎるのも注意して欲しい。何故ならこんな無職の状態でも、スナックに行きたいという欲求と戦わなくてはならないからだ。
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ちなみに私の今のお気に入りは村下孝蔵である。