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或るロリータ

A Certain Lolita

なぜネットサーフィンをしているときは時間が一瞬で過ぎるのか

懊悩

インターネットは便利なものである。指先ひとつで世界中の情報を簡単に得られるからだ。ネットの海を飛び回るのは誰も楽しい。休日など起き抜けにツイッターを見て、そこで面白そうなリンクが貼られているのを思わずクリックし、そこからまた別の記事に飛んで、と繰り返していると早起きしたはずの休日、気づけば日が昇りきっているなんてこともよくある話だ。そんなとき人は後悔する。絶望する。それはネットサーフィンによって得られたものと、過ぎた時間との釣り合いが取れていないからだ。

学校に通っていた頃は、授業の五十分間が長く感じた。特に苦手な物理の授業ともなると、それは永遠のように感じられた。大好きな国語の授業であればまだその時間に意味を見いだせるものだけれど、それでも五十分は五十分だった。

ところが一歩外に出ればどうだ。急に時計の針を押さえつけていた悪魔のやつが指を離してしまったように、みるみる時間が過ぎてゆくではないか。帰宅中の道のり、スーパーでの買い物、家に帰り着いて、鞄を下ろし、制服を脱ぎ、と、そんな時間でさえ、何故かあっという間に過ぎてゆくではないか。

音楽を聴いたり、本を読むのが日課だった。楽しい時間は早く過ぎるというが、まったくその通りで、家に帰り着いてから、まず時計を見て、寝るまであと五時間、そして本を読みながら、あと四時間半、音楽を聴きながら、あと四時間、ご飯を食べながら、あと三時間半、とカウントダウンをして、あまりの自由時間の少なさに癇癪を起こしたい気持ちになる。

たとえば神様が世界をおつくりになったのなら、どうしてこうもそこここに不条理を散りばめないと気が済まなかったのだろう。まるで猟奇作家だ。悪趣味だ。楽しい時間がゆっくり過ぎて、辛い時間がさっと過ぎるのでは、いけなかったのだろうか。

と、嘆いても人生ここまで来てしまった以上、自分自身で後悔の種を蒔かないように留意するほか仕様がない。そう言いながらも私はまたもや、ニートという駆逐されるべき身分でもあるに関わらず、はりぼての自由に縋るような行為に逃げてしまったのだ。

目醒めは七時半と早かったにもかかわらず、昨日読み損ねた一日一話更新のNARUTOのアプリで漫画を読んで、二度寝はせずに済んだものの、布団を這い出てお湯を沸かし、常飲の漢方を飲みながらパソコンを起動、メールのチェックを済ませたあとで2chとテレビの旅番組とを交互に見ながら一時間、まだ九時だ、と自分に言い聞かせながらパソコンを閉じ、実家に手紙を書きかけてやめ、幾つか物憂げなメモ書きをして紙を丸め、そうしてまたパソコンを開き、食べ忘れていた朝食にとグラノーラを齧りながらまたネットサーフィン。ヒトデさんの記事を観て、昔大好きだったポケモンのことを思い出して郷愁に耽り、そういえばいつまでポケモン観ていたっけ、と、ポケモン主題歌の年表など調べあさり、古い順に聴きながらフェイスブックをチェックする。そこでふと長らく会っていない従姉のことを思い出し、試しに彼女の名前で検索してみると、偶然にも彼女がフェイスブックをやっているのを発見する。あのころあんなに慕っていた頭のよくて優しかったお姉ちゃんはすっかりケバケバしいギャルになってバンドの追っかけをしたりコメント欄で男と下ネタをやりとりしていたりして悲しくなる。彼女と仲良くしていたころの純粋な私には決して教えられない未来である。そうして今の私自身の姿も、もちろんあのころの私には見せられない。そういえば今日は土曜日だ。あのころは確か土曜日は午前中で学校が終わって、学校で配られた蜜柑ジュースを飲んで家に帰ったっけ。昼から何して遊ぶ?なんて友達と話しながら。次々湧いてくる懐古の渦に戻ってこられなくなりそうで、またポケモンの曲を再生したら、余計死にたくなったからネットサーフィンはだめだ。