或るロリータ

A Certain Lolita

歩きながら音楽を聴くのは楽しい

タイムカードを切って、仕事場のドアを開ける。エレベーターを待つあいだ、ポケットからiPodを取り出す。イヤホンを耳に挿して、iPodの電源を入れる。今朝、通勤中に聴いていた相対性理論が一時停止になったままだ。プレイリストをぐるぐる回して、浅川マキを再生する。夜に似合いのブルースだ。月のあかりに照らされながら、ゆったり歩くのにぴったりだ。エレベーターが開いて閉じて、ぐんぐんと降りてゆく。

喫煙所の若いねーちゃんと眼が合った。会釈をして通り過ぎる。深い闇の中で自販機の光に張りのある肌が艶めいてきれいだ。

それから私は駅に向かって歩く。高架下を通り過ぎるとき、既にたくさんの乗客を抱えた上り下りの電車が私の頭上を走ってゆく。駅へ吸い寄せられるように歩く人と、駅から放たれるように歩く人とがすれ違いざまにコートの裾を寄せながら、狭い路地に靴音を立てる。

駅前ではネオンサインや赤提灯が私を誘惑するけれど、今は我慢の時だと目をそらして駅の階段をのぼる。音楽のリズムに合わせて一段一段のぼっていると、ここがまるで私だけの小さなライブハウスになったような気がする。

ホームで電車を待つときも、退屈なんてしなかった。私は電車を待っているのではなくて、音楽を聴いているのだから。と、やがて電車がすべり込んでくる。座る席はないけれど立つのには窮屈しないほどの車内で、私は窓に向かって立ち、流れてゆく景色を見る。夜の街はこうして電車の窓から早送りをしながら見るのがいちばんきれいな気がする。そんなことを思いながら。

いつしか電車が着いて、私はくだんの駅へ降りる。改札を抜けて、小洒落た街並みの中を歩く。今日は鞄が欲しかったのだ。だけどあんまりお金がないから、いくつか古着屋を巡ってみることにしたのだ。初めて通る路地裏の、少し怖そうな男の人と、目を合わせないように肩がぶつからないようにきわめて遠くを歩きながら、私の寄り道は続く。

たぶん、どこでもいいから歩きたいのだ。そんな夜はきっとある。信号が青に変わって、横断歩道をいっせいに人が渡り始める。人ごみの中にいるときがいちばん孤独になれた。私だけのライブハウス、ダンスホール。あの娘がくれたブルースを聴きながら私の夜は終わらない。