或るロリータ

A Certain Lolita

オンとオフが切り替えられない人生になってしまった

なんて言うと、大袈裟すぎるだろうか。しかし、近頃の私の悩みといえば、ほぼそれに尽きるといってもいい。中学生以降、私は学校なんて行かなくて済むなら行きたくないと思うたぐいの人間だった。部活も勉強も、趣味でさえ、一筋で打ち込むということを知らずに育ち、そのまま大人になってしまった。だから、会社だって行かなくて済むなら行きたくないという気持ちは今も変わらない。

それなのに、私の生活ときたら、まるでそんな不良人間とは真逆の、労働一色である。なにも会社に忠誠を誓ったいわゆる社畜というわけではないし、かといって生業や生きがいという言葉を使うにふさわしい昔ながらの仕事の鬼と呼ばれるのも的外れだ。それなのに気づけば私は寝ても醒めても仕事のことを考えていて、もはやブルーマンデーに突入したこの絶望的午前三時にさえ、風呂上がりの火照った体で文章を打ちながらもなお、頭の奥底では仕事のことがこびりついて離れない。それどころか頭を空っぽにするために浸かっていたはずのバスロマン入りの湯船にいてさえ、私は仕事のことを考えていた。無心に歯磨きをしていても、頭を洗っていても、深呼吸をしてみても、私の心はスーツを脱がない。

考えようとして考えているわけじゃない。むしろ、考えないように努めている。考えないように努めすぎて、かえって意識してしまっているのか。なんという悪循環。首元に脳波を切り替えるスイッチでもついていればいいのだけれど、楽しい遊びの予定を立てようにも、次の同人誌の小説のテーマを考えようにも、知らず知らずのうちにまた仕事の案件に頭を悩ませている自分がいる。

私の頭の中のラジオはいつもチャンネルが狂っている。どんなに周波数を合わせても混線してくる外国の電波みたいに、四六時中ワーキングマーチが流れ続ける。「あの件は本当に大丈夫か?」「スケジュールは間に合うのか?」不安の化け物が拡声器越しに脅してくる。オールナイトどころか年中無休でマシンガントークは鳴り止まない。

疲れているのだろうか。たまには仕事を休んで家でだらだらしてみたり、どこか温泉旅行に出かけてみたり、いっそ南の島にでも行かなければどうにもならないレベルかもしれない。私の頭に常にあるのは「失敗したらどうしよう」という言葉。悲しいことにこれが教訓のようにどこまでもつきまとってくる。すべての結末を見届けるまで、どうにも安心できない人間らしい。自分ながら厄介だ。

私は夏休みの宿題を最後まで少しだけ残しておく子供だった。得意な科目や、簡単に処理できる宿題だけ夏休みの初日のうちに一気に終わらせ、そこですっかり安心しきって、重大な問題からは目を背けつづける。そのためいつもどこかでその問題が重荷になって、結局何に対しても全力で楽しめなくなる。無論、その問題は八月三十一日になれば否応無しに泣きながら片づくわけであるが。

しかし、仕事となるとそうはいかない。宿題のように、済ませれば終わりではないからだ。今の仕事を片づけたところで、私に長い夏休みは与えられない。生きるためには自ら宿題を探し、宿題をこなし、また宿題を探さなければならない。終わりがあるとすれば、それは仕事をやめるか、人生をやめるときである。

だったらやはり私は「やり残した宿題があっても負担に感じない方法」を見つけなければならないのであろう。それが世の大人たちに課せられたもっとも正攻法な自己防衛手段である限り。私はその手段を一切身につけないまま、ここまで来てしまった。はじめは情熱だけでどうにか片づいていた問題も、なんの鎧も持たない精神がプレッシャーの風にさらされつづけるうち、次第に心身ともにほころびが見え始めた。

お酒に頼ってみたところで、忘れられるのは一瞬だった。すべてを忘れたいなら、体を壊すレベルでお酒を飲み続けなければならないだろう。かといって、薬に頼るわけにもいかない。私の脳内は決して陰鬱な事柄ばかりで占拠されているわけではない。ただ、この社会を生き抜くために用意した兵士の自分が、いつまでたっても武器を置くそぶりすら見せてくれないというだけだ。

好きなことを仕事にすると、好きなことが好きじゃなくなると聞いたことがある。私は決して夢を叶えたわけではないが、ある意味好きなことに少しだけ近い仕事をしている。それがそもそもの元凶なのかもしれない。まったく興味もない仕事をしていたころは、時計の針が定時を回った瞬間に、私は社会人ではなくなった。明確に自分が自分に戻る瞬間があって、次の朝まで社会人である必要などどこにもなかった。あれが幸せだったかといえばそれもまた疑問だが、人生は往々にして加減を知らない。どこまで行っても極端なものである。全力で仕事をすることなんて、実は簡単なこと。問題は、その先で、情熱を飼い慣らせるかどうかだ。情熱に手綱を引かれてしまっては、もはやそれは自分の人生ではなくなってしまう。

「仕事終わりの一杯」が、今の私にとっては「仕事終わり」なんかじゃない。永遠に仕事中の一杯なのだ。眠っているあいだは解放されるのかと思えば、そこにも自由はなく、夢の中にさえ仕事の記憶が侵入してくるのも珍しいことではない。

これが当たり前だというのなら、これが大人だというのなら、私は大人になんてならなくてよかった。歩きつづけることでしか足の痛みを紛らわせない百年単位のマラソンみたいに、昨日の私をかばいながら、今日も私は生きている。何も知らない明日の私に、すべてを押しつける夕暮れが待っていることを知りながら。