或るロリータ

A Certain Lolita

こんな時代だから年賀状を出す

私がまだ小学生の頃、この季節になると、毎年十枚前後だろうか、親から年賀葉書をもらってひとつひとつに友達の宛名を書き記していたのを覚えている。友達同士で年賀状を送り合うのが通例だったのだ。父親に頼んでパソコンで好きな漫画のイラストを印刷してもらって、余白に一言コメントなど書き添えるのが私のやり方であった。

中学生になると年賀状を出す枚数は少なくなった。あまり必要性を感じなくなったからだろう。学校で会う友達には、年賀状を出さなくても会って一言「あけおめ」と言えば済む話だし、年賀状なんて古臭くて若者の感性にしてみれば時代遅れのように思えたのだ。

そうして高校生になると、携帯電話を持ち、年賀状の存在は完全にあけおめメールに取って代わられた。まだ携帯を持ったばかりだったし、あけおめメールという新しい文化に参加できるのが嬉しくて仕方なかったのだ。大晦日の夜になると今か今かとスタンバイして、日付が変わったと同時にメールを送信する。と同時に、数少ない友達や、さして仲良くもないクラスメイトからもメールが届く。おそらくみんなに一斉送信しているやつばかりだったが、時々、個人宛にコメントを添えている者もいて、その性格の細やかさには尊敬さえ覚えた。あまり学校で話すこともない女子生徒からメールが届いた折には、一緒に日の出を見に行く妄想など捗らせながら年越しそばを啜ったものである。

思えばあけおめメールなど、年賀状に比べたらなんと手軽なものだろうと思うが、その手軽さ故に、誰彼構わず片っ端から送る羽目になって、逆に労力を要してしまっていたのだろう。そんな本末転倒ぶりに嫌気が差したのと、単純に社会人になって学校のしがらみがなくなったことから、私はあけおめメールを辞めた。辞めてしまうと、もう正月など私にとってなんのイベントでもなくなった。お年玉も貰えないし、ただ家で日本酒を飲みまくって寝転がるだけの怠惰な三日間が私を待っていた。そうなると今度は気まぐれに年賀状でも書いてやろうという気になって、私は久々に筆を執ったのだ。

私は毎年近しい友達にふざけた年賀状を送るようになった。相手にとっては迷惑極まりない話だっただろう。しかし合法的に自分のユーモアセンスを他人に送りつけられる一年に一度のチャンスを逃す機会はない。年賀状は私にとって密やかな愉しみに変わったのだ。

そんな年が数年続き、筆ペンで羊の絵を書き殴った去年の今頃が、まだ昨日のことのよう。今年は初めて一人で年を越すことになり、年賀葉書を買うお金さえ惜しまれる状況なのだが、生存報告という意味でも、今年は年賀状を出すべきだと思って、数枚の葉書を購入した。実家や親戚、前の職場など、それぞれデザインを変えて、手書きのコメントも書き添える。「あいつ、都会に行っちまって故郷のことなんてもう忘れちまったんだろう。」そんな風に思われたくないというのもあったのかもしれない。

なんにせよ、年賀状というものを、やっと本来の使い方が出来たような気がしている。合理的になってゆくのは良いことには違いないんだろうけど、やっぱり完全になくしちゃいけない文化っていうのもあると思う。