或るロリータ

A Certain Lolita

ニートになって変わったこと

私は二十年以上九州の田舎町で育ってきた。平凡な家庭に生まれたが、大した苦労もせずに育ち、大して考えもせずに地元の企業に就職した。毎週末は自宅か友人の家で酒を飲み、月に一二度は居酒屋へ繰り出すこともできた。たぶん、人はそれを平和と呼ぶのだろう。何もかも平和で、少なくとも不幸ではなかった。

そんな中、これまで平々凡々と生きてきた私が、思うところあって上京するに至ったのだ。おそらく、これまで浪費してきた「若さ」の残滓が、最後に力を貸したのだろう。

 

初めての一人暮らし、いわば自分の城を手に入れたのだ。そこには両手に余るほどの自由があった。

好きなものを食べて、好きなお酒を飲んで、好きな家具も揃えられるし、なにもかも思うがままだ。稼いだお金はぜんぶ自分のものだ。きっと上京したての頃の私は、不安はありながらも、希望に満ちた瞳をしていたにちがいない。

ところが私は、すぐに失業してしまう。

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自分がニートになるなんて、まるで夢にも思わなかった。

ニートは私にとってアウトローな存在であり、私のような凡庸な人間が、まさか一生のうちに一度さえ、ハロワに通うことがあるとすら思っていなかったのだ。

当然、預金残高はみるみるうちに減り始めた。コツコツ貯めたものであっても、なくなるときは一瞬なのだ。

私は焦った。生活を一変させなければならないと思った。これまでのような生活水準では、到底お金が足りないのだ。好きなものや、こだわりも、全部捨てて、私は別人になる必要があった。

 

 

Amazonの定期便をストップした

私は健康オタクな面があって、今までサプリなんかを10種類近く定期配送していた。ひとつひとつは数百円でも、それが重なると毎月かなりの金額になることに気がついて、慌ててストップした。

Amazonの定期配送は割引もあるし、買い忘れる心配もなく、一度注文しておけばあとは放っておけるから便利だったんだけれど、気づかないうちに毎月お金が引かれていくというのはおそろしいものである。この機会に、一度見直すことができてよかったと思う。サプリ自体、どんどん効果を追い求めていろんなものに手を出してしまっていたのだが、実際、全て飲んだからといって超人並みの力を得られるというわけでもないし、本当に必要なものかどうかは見極める必要がある。

 

 

髪を自分で切るようになった

逆に、どうして今まで美容室に通っていたのかが判らなくなった。「散髪=素人では手の出せない危なっかしいもの」という意識があって、自分で切ったら絶対に失敗するという強迫観念に駆られて二か月に一度は美容室へ通っていたのだけれど、私はそもそも髪型にこだわりがあるタイプでもないし、小学生の頃から一貫して、「伸びたら短く切る」の繰り返しだったから、美容室へ行かなくなってもこれといって変化はなかった。

ネットで調べればセルフカットのやり方なんて幾らでも出てくるし、好きな時に好きなだけ切ることができるから、かえって前より自分の髪に納得できる状態が続いている。自分で切れば、丁度よい長さを常に維持できるからだ。ただ、切った後の片付けが面倒なことだけがネックだが、片付けの手間と散髪代のどちらを取るかと言えば、比べるまでもないだろう。

 

 

スーパーに行く回数が減った

上京したてのころの私は、自炊をしようと意気込んでいたのだが、仕事が終わると疲れ果てていて、つい毎晩のようにスーパーに立ち寄ってしまっていた。そこで割引の弁当を買い、発泡酒を飲むといった具合の、まさに労働者そのものだった。

だが、買い物というものは、行けば行くほど誘惑の回数が増えるものである。

「あのプリン、割引になってる。買っちゃおうかな」
「ポテトチップス、期間限定のやつ出てんじゃん」

そんな感じで、毎晩毎晩誘惑と戦って、時には負けることもある。そうすると、せっかく割引の弁当で我慢していた意味がなくなってしまうのである。

今は、見切り品はもちろん、なるべく分けて使える食材や、日持ちしそうな食材、安価で栄養の取れる食材に的を絞るようにしている。お酒コーナー、スイーツコーナーは目をつぶって通り過ぎるのが賢明である。

 

 

ブログを更新する回数が増えた

幾らハロワに通っているとはいえ、それだけではどんどん自分の価値が見出せなくなってくる。そんなとき、気休めにブログを更新していると、ネットの世界に少なくとも私の生きた痕跡は残すことができるから、つい毒にも薬にもならない文章をひたすら書きつらねてしまう。ただの日記の代わりである。今まで買った日記帳はほとんどが最初の数ページで途切れてしまっているが、ブログとなると、不思議とどうにか続いてしまうのだ。自分以外に一人でも見てくれている人がいるというのが大きいのだろう。

また、迫り来る生活費や税金の類いに少しでも立ち向かうために、時々あざとくAmazonの広告を貼り付けて誰か買ってくれやしないかと願っているが、今のところ、お風呂で水没した江戸川乱歩の文庫本を買いなおすほどの報酬も得られていない。

 

 

結論

平和なうちは太く長く生きたいと夢見つつも、いざ、死という言葉が間近に迫ってくると、人間、自動的に細く長く生きるモードに切り替わるものらしい。