或るロリータ

A Certain Lolita

故郷の言葉で話せる相手

故郷の言葉で話しているとき、私は早口になるらしい。

東京は田舎者の寄せ集めだと言うけれど、出てきたばかりの私には、誰が根っからの東京人で、誰が自分と同じ田舎者かなんて、一切判別がつかない。生活はスマートだし、着ている服もお洒落だし、言葉も自然な標準語に聞こえる。私にはみんな、都会の人に見えるのだ。

敬語で話す相手には、方言を遣う機会がないから、あまり不自然がられることはないのだけれど、そうでない相手や、あるいは敬語であっても、話の内容に熱中してしまったときなど、ふとした拍子に方言がこぼれてしまうことがある。まったく、都会人ぶるのには骨が折れる。

いち早く上京している友人を訪ねた時、私は心許して、はなから故郷の言葉を遣う。そうしたら、相手も、「懐かしいなあ」などと言いながら、言葉を崩し始めるのだ。少なからず誰も、普段はどこかで気を張り詰めているようだ。懐かしい友人に会ったとき、私は心から安心する。やっぱりコレだよな、という感じでわざとキツい方言を多用したりする。二十年以上住んでたんだから、そう簡単に遣う言葉を変えられるはずがない。

家族と電話をしたときなども、それは同様だ。ずっと寒風に吹かれながら歩いていて、ふっと暖かい部屋に入ったような、心のくつろぎを感じてしまう。ずっと当たり前のように過ごしていたあの暖かい部屋、ふるさとは、私の精神を大きく支えていたものらしい。人は、部屋の中にいるうちは、外の寒さになど気付かないものだ。

先日、数ヶ月ぶりに家族と再会した。(参照: 久しぶりに家族に会った - 或るロリータ

家族はどうやら、私がひどくやつれて痩せ細っているものと思っていたらしく、大して風貌に変化のない私に、ほっとしたような感想を漏らしていた。

それに対して、「そんなすぐ変わらんっちゃ。」なんて言葉を返せるのが嬉しかった。

どんなに遣う機会が少なくなっても、やはり方言は記憶の箱をひらく鍵だ。

 

今週のお題「方言」