或るロリータ

A Certain Lolita

社会では「すり減らさなかった人」が勝つ

先日、中学校と高校をともに過ごした同級生から電話がかかってきた。内容は、気まぐれな近況報告みたいなものだった。彼とは学校で特別仲がよかったというわけではない。教室にほとんど話せる相手のいない私に対して、彼は成績は悪かったが部活だけはひたすら続け、先生たちからもよくいじられるタイプだった。本人もひょうきん者で、悪さをしてはまた叱られ、それでもヘラヘラと笑っているものだから、なんだかんだでいつもクラスの人気者だった。圧倒的な「陽」と形容するにふさわしい彼と比較すれば私は陰どころか「暗闇」だった。

そんな人気者の彼だが根は優しく、私が教室の隅でさびしそうにしていると、同じ中学のよしみからか声をかけたりしてくれることもあった。しかし、私は変なプライドもあった上に、人と話をすることを避け続けていたせいで声の出し方を忘れかけていて、彼の誘いに応じることはほとんどなく進んで孤独を選びつづけた。

そんな彼とも、高校を卒業してから、なぜだか一緒に飲みに行くことがあった。先述の通り同じ中学出身で、家は割と近所だったのだ。私が通っていたのは工業高校だったから、卒業したらほとんどの生徒が就職する。工業高校のクラスメイトとはつめたいもので、仲間のように見せかけながら敵同士でもある。三年間の成績の優劣で、応募する会社を優先的にえらべるのだ。おまけに半数が東京や大阪をはじめとする県外への就職。もともとそれぞれが県内のあらゆる地域から通学しているし、卒業してからも仲良くしつづけるという間柄は相当に珍しいものといえた。そんな友情の結末を、はなから孤独だった私はどこか得意げに、「それ見たことか」とあざ笑っていた。

彼からの誘いがきたのは、就職して仕事も落ち着き始めたころ。お互いに新入社員の初々しさなどとうになく、生きるために働くというシンプルな答えに嫌気がさして、会社の爆発を願いながら通勤する毎日を送っていた。彼は煙草をたくさん吸っていた。これが大人だと言わんばかりに。元々「田舎のヤンキー」気質のあった彼だから、そのあたりはまだ若いなあ、と、なじりつつも、実は私も煙草を覚えたばかりだった。その日は彼から一本だけ煙草をもらった。

両手に幸福を抱えてシーソーに乗ったとすれば、高校時代の彼なら私を青空まで吹き飛ばしていただろう。それくらい彼は輝いていたし、私は目も当てられなかった。ところが就職して彼の前に生計という問題ができた。それはお調子者というだけではどうにもならない。そうして人と会話など永遠にできるはずがないと思っていた私は、初めて触れる社会の辛苦にもまれながら、真人間の方向へと矯正されていた。その二つの作用により、私たちの重量はほとんど均衡に近づいていた。むしろ、ときどき見せる彼の憂いに満ちた表情と、ため息とともに吐き出す紫煙とは、シーソーの傾きをゆるやかに反転させていることの証拠ともいえた。

彼とは数回飲みにいったきりで、それきり会わなくなった。

私が東京で暮らすようになったことは、風の噂で知っていたらしい。数年ぶりの彼の言葉は相変わらずの故郷訛りだったが、そこに幽かな緊張があった。大人が大人に話しかけるときの、誰もが顔に貼り付ける幽かな緊張。それが私をも身構えさせた。努めて昔のように、いくつも冗句を交わしたけれど、ふたりのあいだに流れる歳月がそれを吸い込んだ。

「よかったらまた、飲みに行こう。帰ってきたときはいつでも誘ってよ。」

彼の口調はずいぶんと私を気遣っていた。彼にとって私はもう、東京で暮らす遠い人になってしまったのだろうか。地元の古びた居酒屋で燻り合っていたあの頃から、彼のかなしみはずっと育ちつづけていたようだ。電話口ではほんの二言三言だったが、彼は弱音を吐いた。誰にも打ち明けられなかったが故の、事故のような弱音だと思った。

私だって決して、何の苦労もなく東京で輝かしい生活を送っているわけではない。だが、自分を苦しめる暗い感情のやつらとは、どこかでうまく付き合わなければ、上手に生きてゆくことなんてできやしない。いくら教室の中で人気者でも、いくら勉強ができて、運動ができて、女の子にもてたとしても、それは一瞬の煌めき。青春の結末にしか影響しない。

私たちが生きてゆかなければならないのは、青春のその後である。教室の中での評価は、永遠ではない。もちろん、思い出に救われることはあるけれど。社会は長い防衛戦だ。あらゆる角度から私たちは心と身体を削られる。そうしたときに、うまく切り抜けたり、別のことで気分転換をしたり、ちゃんと自分自身をフォローしたり、ときには誰かに助けを求めたり、暗い気持ちをしっかり対処して、いつも通りの明日を獲得しなければならないのだ。防衛に失敗するたび、すり減ってゆく。心が、身体が、魂が。世間は悪党よりも非情で、「ここらへんでやめとくか」なんて思ってくれやしない。自分で自分を守れなければ、すり減って、すり減って、なくなってしまうだけだ。

彼は、もうずいぶんすり減っているように思えた。私が何かを成し遂げて彼に勝利したのではない。ただ、彼の方が先にすり減ってしまっただけだ。私は誰にも勝っていない。勝っているように見えたなら、それは、そう見える人たちがみんな、負けてしまったのだろう。私たちはこの長い道のりを、自分をすり減らさないことに神経をすり減らして生きてゆく。そうして最後の最後まで、少しでも他人よりすり減らさなかった者だけが、いつのまにか表彰台に立っているのが人生なのだ。