或るロリータ

A Certain Lolita

初めての転職が、人生の大きな一歩になった

私は人生で三度、転職を経験した。

環境を変えるのは、勇気と体力がいることだ。特に転職となると、会社によって規則や雰囲気はバラバラだし、正解は決してひとつではない。とりあえず一定期間を過ごせば自然に卒業できる義務教育とは違った、自発的なエネルギーが必要になる。

もちろん、進学先を選ぶ段階で、大きな決断をした人もいるだろう。ただ、私は就職するまでほとんど自ら決断したことがない人間だった。決断を先延ばしにし続けた結果、失恋をしたし、興味のない分野の学校へ入ったし、やりたくない仕事に就いた。だから、初めての転職を超える決断は未だになかったと思う。

一言で表すと「永遠」。それが初めての仕事に抱いた印象だった。

簡単にいえばインフラ系の仕事で、「潰れない」「安定している」というイメージから、人気の高い業種ではある。バリバリのベンチャー企業なんてどこにもない田舎町では、この選択は決して失敗ではなかっただろうし、同窓会などで実情を知らない友達に会うと、うらやましがられることもあった。

しかし、私にとってその仕事は、「安定」ではなく、ゆるやかな「衰退」にしか見えなかった。大した努力もしてこず、何の経験もない青年に残された唯一の「若さ」という価値が、一回り以上も年の離れた先輩たちと同等に消費されていると感じたのだ。

いったい、私なんぞの若さにどのくらいの価値があったのか定かではないが、少なくとも若いというだけで「未来はまだ変えられる」という無闇な希望を捨てないでおくことはできる。「こんなのは本当の自分じゃない」そんな夢見がちな愚痴をこぼしながら、少しずつ仕事にも環境にも慣れていく自分に嫌気が差し始めた。

 

東京へ行きたい。いつしかそんなことばかり考えるようになった。何かをするために東京へ行くのではなくて、この町を出るために東京へ行きたかったのだ。いいや、本当は、やってみたいこともあるにはあった。半分は、憧れに過ぎなかったのかもしれないけれど。それに、理想だけでは生活がままならないことも十分わかっている。理想と現実とのはざまで、私は迷いつづけた。

ここで大きな決断をすれば、一瞬は気持ちが楽になるはずだ。口では後悔なんてしていないと言うだろう。けれど、きっと今より生活は苦しくなる。ささやかな楽しみである晩酌の発泡酒さえ、飲めなくなってしまうかもしれない。それに、苦労したところで、理想に近づけるとも限らない。下手すれば追いつめられて、今よりずっと劣悪な環境へ、生活のためだけに再就職するハメになるかもしれない。

考えれば考えるほど、今の立場を捨てるのがとても賢明な判断とは思えなくなってくる。相変わらず、何も武器なんて持っていない自分が、「若さ」というただそれだけで、戦っていくことができるのか。

 

日々、転職サイトを眺めたり、リアルの友達にもTwitterのフォロワーにもあれこれ相談を重ねながら、結局私は、決断した。東京へ行くと。

ただし、心で決めたからといって、すぐに行動が伴うものでもない。退職の意思を会社に告げるのは、喧嘩した友達に謝ることや、片想いの相手に告白することとは比べものにならないくらい、途方もない勇気が必要だった。

初めから、別れる前提で交際をつづける恋人などいない。別れ話はいつも突然で、はっきりと言葉にする寸前までは、あくまで同じ未来を向いて歩いているふりをしなければならない。「この物語、だめかもしれない」と、薄々思いながらも、カットを切られるその瞬間まで、最低限の演技をつづけなければいけない。

同じように、仕事でも、上司や同僚は未来の話をする。来年度の目標がどうとか、将来はどうしていきたいとか。だって、辞めるなんて微塵も思っていないのだから。そんな人たちの笑顔を粉々に砕くことを想像すると、簡単に言い出せるはずなどなく、終わらない二日酔いに苛まれたような苦い顔をしながら、出社する毎日を送った。

 

ひと夏遅れて、ようやく決断に行動が追いついてきた。普段残業をしない私が一時間近くデスクに残り、最後の一人が帰ったあとの、上司と二人きりになった部屋。何かに勘づいたような上司の世間話。上の空で答える私。

「あの、ちょっとご相談があるんですが」

あんなに声が震えたのは、後にも先にもあの瞬間だけだ。上司は動揺し、少しうなだれながらも、ちゃんと話を聞いてくれた。それから数日して、私が辞めることが朝礼で発表された。もちろんみんな驚いていたけれど、誰も私を否定することなどなく、それから数週間、引き継ぎも楽しく終えることができたし、最後には華やかな送別会を開いて、笑顔で送り出してくれた。

勇気を出して、よかった。そう思えたと同時に、今まで気づけなかった仲間たちへの感謝の気持ちも芽生えた。環境に不満を抱いてばかりだった自分が、情けなかった。何も、自分は恵まれていないことばかりじゃなかったんだ、と。

その瞬間、私の中に少しだけ残っていた「この町から逃げ出してやる」という感情は、すっかり消え失せていた。本当の意味で、私は前に向かって進む覚悟ができたのだ。ひたすら迷いつづけてきた私の人生にとって、初めての大きな決断は、誰にも恥じることのない誇りとして、今でも記憶の中で輝きつづけている。