或るロリータ

A Certain Lolita

人に何かを伝えるということの難しさ

人は、自分のためだけに発せられた言葉の真理にはなかなか気づかないものである。学問にしろ恋愛にしろ、自分のためだけに用意された言葉、作られた言葉は、案外心に響かない。人は、日常の中からしか学ぶことのできない生き物なのだ。

だから本当に伝えたいことを相手に伝えるということはとても難しい。

たとえば政治に熱心な若者がいたとして、周りの友達や恋人とも国の将来への不安を語り合い、希望を導き出すための議論をしたいとする。けれど、仲間たちは政治になど無関心。そんなとき、どんなにその若者がひとりで熱く語り始めたとしても、その行為は場を白けさせる効果しか生まないだろう。考えてみればその若者だって、始め政治に興味を持ったとき、きっと誰かに強制されたわけではないだろう。偶然演説を聞いたのかもしれないし、政治家の著書を目にしたのかもしれないし、ネットで特集が組まれていたのかもしれない。きっかけは何であれ、「この人について知ろう」と身構えた状態ではなく、極めてフラットに、日常の中で、心を許している状態の中で入ってきた情報だからこそ、胸を打たれるものがあったのではないか。だとすれば、飲み会の席などで情熱を持って仲間たちの思想を正そうとするのは、見当違いな手段なのである。本当に行うべきは、日常の中で、自然と彼らが道を踏み外すきっかけを用意することなのである。

たとえば一緒にテレビを見ているとき、ザッピングのふりをしてちょうど政治番組を流してみたり、積ん読の一番上におすすめの書籍を目につくように置いておいたり、だけど決して自分から相手におすすめをしてはいけない。その人の人生の中で、きわめて偶然に、運命のように手に取ったものから衝撃を受けるということが大切なのである。

もちろん誰かに薦められてそのままのめりこんでしまう人も中にはいるだろう。だがそういう人は遅かれ早かれ何かしらの洗脳を受けて受動的に自分を構成してゆくものである。眼を向けるべきはそのほかの大多数の存在だ。あなたが今一番好きなアーティストに、最初にはまったきっかけはなんだったか、考えてみるといい。友達に「このアルバムめっちゃいいから聴いてみて」と渡されたことだろうか。そうかもしれない。けれど、私はちがう。私はこれまで、好きになったもののほとんどは、自分から見つけたものばかりだ。たとえば最近好きになってライブに行ったインディーズのバンドがあるんだけど、それはツイッターで誰かがつぶやいていたものを偶然見つけてそこから音源にたどり着いてはまったという流れ。これは一見他人に影響されているように思えるのだが、そうではない。決してその人は、私におすすめをするためにつぶやいていたからではないからだ。誰かを経由したとしても、間接的に、そして自らその情報にたどり着くということがここでは重要なのである。

私は普段歌謡曲ばかり聴いて、古い小説ばかり読んで、「趣味は音楽です」とも「趣味は読書です」とも名乗れないほど共感を得られる相手のいない悦びを持っている。だからときどき誰かと肩組むのが恋しくなって、カラオケで私が歌った曲に対して「うわー、俺その曲めっちゃ好きだわー」みたいな声があがる日が死ぬまでにくればいいなと思っているんだけど、かといってアルバムを渡したところで聴いてくれるような純真な友達は一人もいないし、カーステレオでさりげなく流していてもみんなおしゃべりに夢中で気づかなかったりで、一体人に何かを伝えることはどうしてこんなに難しいんだろうと思った。毎日毎日その人の家に行って見えるところにCDを置いて帰ろうかなとか考えても、そこまでするともはや偶然の出逢いを装うことはできないし、なんだかぐしゃぐしゃにして捨てられるのがわかっていながら駅前でチラシを配る人の気分だ。

思想に関しても同じことで、友人が「俺はこういうの絶対許せないわ」という趣旨の発言をしたとき、私が仮にそのことについて無頓着だったとしても、「別にいいんじゃね」という発言は控えるようにしている。なぜなら私にとってどうでもよくても、許せないと思っている人間にとっては、それが許せないと思えない人間の考えが理解できないからである。たとえそこで議論をぶつけて、どちらかがどちらかを言い負かしたところで、さて世間に何か変化があるだろうか。何の一石も投じることはできていない。だとすれば私はこの狭い席でお互いの勝敗を気にかけて討論番組の真似事をすることよりも、世間の憂さには目もくれず猥談にでも花を咲かせて少しでもうまい酒を飲むことの方が、それぞれの人生にとって平和的なのではないかと思うのである。そうして個々が平和を抱えていけば、その集合体としての世間も、結果的に平和になるのではないか。この世から戦争なんてなくなるのではないか。と思ったけどそんなことはないか。