或るロリータ

A Certain Lolita

好きな街での日々の中でも、遠い故郷の夢を見る

夕方、自転車に乗って買い物に出かけるとき、赤や紫に染まってゆく空を眺めて、胸の奥がざわざわするのを確かめると、私はいつも嬉しくなる。生活の中に埋もれていった青春の火が、深い灰の底に、まだ幽かに残っていることを思い出させてくれるからだ。

学生服を着ていたあの頃、自転車通学だった私は、秋から冬の帰り道に、よく河原や田んぼの傍に愛車を停めて、空に抱かれていたものだ。背伸びして読み始めた古い小説と、自販機で買ったブラックコーヒーを手に、人の目につかない神社や橋の袂に座りこんで、黄昏と戯れる毎日。寄るあてもないのに、少しでも遠回りして帰りたい気持ちだった。

愛していた故郷を捨てたのは、長いトンネルのような毎日を抜け出したかったから。東京に賭けていたとも言えるし、東京に逃げたとも言えるかもしれない。夢を捨てきれずに東京に出てきたはずなのに、いつしか故郷へ帰る日を遠く夢見ている自分がいる。人はいつまでもないものねだりのまま、満たされずに生きてゆくのだろう。

東京での暮らしも長くなった。静かで緑の多いこの街は私にぴったりだ。少し不便で、人や物が溢れすぎていないところがいい。近所の学校から聞こえてくる部活動の掛け声も、いつもドアを開けてスパイスの匂いを漂わせているカレー屋も、行きつけのこじんまりとしたスーパーも、散歩するのにうってつけの広い公園も、歳月とともに私の生活に馴染んでしまった。

誰とも会わずに、誰とも話さずに、同じような毎日を送っていると、心の針が大きく振れることがあまりなくなった。暦のページだけがめくられて、年齢だけが重ねられて、ゆるやかに、この街に沈んでゆく。根を張った植物を植え替えるのが大変なように、私も足元に絡まった根っこを引きちぎって故郷へ帰ることなどできそうにない。だから不純だと知っていながらも、大好きな街の中で、故郷に焦がれつづけてしまうのだ。

いつかこの街を離れてどこかへ移るのか、あるいは故郷へ帰るのか、それともずっとここに暮らしつづけるのか、今はまだわからない。今を生きることの意味なんて、考えるだけ疲れてしまう。正義や誠実など、掲げるつもりもないし、かといって悪になる必要もない。誰かを傷つけず、誰かに傷つけられないように、それなりに、生きてゆくだけだ。