或るロリータ

A Certain Lolita

あの頃の未来を過ぎて、どんな風に生きてゆくか

夏が好きだと叫びつづけてきた私だけれど、冬にしか思い出せない記憶もある。朝、外に出た瞬間の澄んだ空気に目が醒める清しさや、短い真昼の陽だまりにまどろむ心地よさ、あるいは肌寒くなってきた夕べに南の窓を閉める直前、ふと漂ってくる夜の匂いに紛れこんだ郷愁。この窓から見える景色が、故郷の姿に少しだけ似ているからだろうか、私はそこで窓を閉める手を止めて、手足が冷え切ってしまうまでぼんやり遠くを眺めてしまうことがある。故郷と違うのは、夕暮れが闇に溶けかかる空のふちに、山の影が存在しないことだ。どこまでも続く街並みは、地平線と呼ぶには少し歪で、やけっぱちに走り出しても、抱き止めてくれる山の背中が見えないのは、どうにも心細く思えてしまう。

作業着から伸びたかじかむ手でハンドルを握り、さびれた住宅団地を飛ばしたあの頃。安月給の身に、愉しみは毎晩の発泡酒だけだった。テレビの笑い声に包まれながら、日焼けした肌を上気させて、夜のなかに、夢のなかに、何もかも溶かしてしまう。不安もあったし、淋しさもあった。憂鬱は毎晩のように襲ってきたけれど、それでも一日一日をそうしてやり過ごす私は、あの頃たしかに、生きていたのだ。そう、あの頃の私には、まだ、未来があった。もちろん、未来なんて、蓋を開ければただの空っぽの、言い訳でしかない場合がほとんどなんだけれど。

きっと、今の私の方が、穏やかに、上手に生きているんだろう。苦しみから逃れるように行き着いたのは、しかし喜びすらも遠くから微笑んで見ているだけの、臆病な自分。徐々に削ぎ落とされた感性は、こうして夕暮れの網戸越しに、ときどき音や匂いが思い出させてくれるばかりで、自ら扉を開ける方法は、記憶から薄れ始めている。人はこれを、大人になると呼ぶのかもしれないね。その淋しい代名詞のもとで、少年は、モノクロームに変わってゆく。

求めるものはこの世のどこかにあるのではない、私の中にかつてあったのだ。手に入らなかったものへの後悔より、失ったものへの恋しさが涙を運んでくるようになったときから、心の時計の針は、反対向きに回り始めた。決して戻ることのできない身体を置き去りにして、どこまでも。いつか心と身体の距離が見えなくなるくらい遠ざかってしまったとき、私はどのようにして生きていくのか、今はまだ想像もつかない。ただ、今夜を凌ぐためにグラスを傾けるとき、そういえば、あの頃もこんな風に悩みながら、迷いながら、理由もわからず、それでも生きていたことを思い出す。そう、だからきっとこれからも、そうして生きてゆけばよいのだ。わからないまま生きていけばよい、それがわかっただけで、充分だろう。