或るロリータ

A Certain Lolita

明け方症候群

私はあまり集中力のつづく人間ではない。仕事をしている最中も、頭の中では「早く夜になってビールを飲みたいなあ」などと考えているし、物事に対して意識のすべてを注いで取り組むということがない。とにかく自堕落な人間なのだ。

ただし、世の中の何もかもが嫌で、生きていることそのものに無気力なわけではない。ごく稀に目の前のことに熱中できる瞬間は訪れる。それがほとんど生産性のあることに向かわないのが問題というだけだ。

 

学生時代の記憶を辿ってみても、およそ変わりはなかった。テストや部活動、運動会や文化祭といった、いわゆる王道のイベントには早々に見切りをつけて、その代わりに自分のこだわりを見つけたら、そこに無限の熱量を注ぎ込んだ。ノートの隅にクラスメイトが登場するパラパラ漫画を描いたり、ホームページを作るためにHTMLのコードとにらめっこしたりと、果たして将来役に立つのかどうかもわからないことに若い時間を費やした。

しかし振り返れば、あんな風に何かに打ち込めた経験は、決して無駄ではなかったと思う。というより、今では輝いてすら見える。それがよくある青春映画のような冒険や恋愛ではないだけで、私にとってはあれこそが青春そのものだったのだ。

 

大人になるにつれ、良くいえば冷静に、悪くいえば他人行儀で物事に取り組むことが増えたのは、私自身が経験によって変わったところもあるだろう。しかし一番大きな理由は、刺激的なことに触れる機会が減ってしまったせいだと思う。なぜなら今でも仕事終わりにビールの栓を開ける瞬間には、ビールのことしか考えていない全力の私がそこにいるからだ。

子どもがみな美しくて純粋なのではない、そのように振る舞うことが許された時間が大人より多く与えられているだけだ。週末の酒場に集った大人たちを見てみれば、彼らがまだ人生を楽しむことを忘れていないのがすぐにわかる。

 

さて、そんな私でも、ときに降って沸いたような研ぎ澄まされた精神状態を手に入れることがある。それがどんな条件によるものかは未だはっきりしていないが、よく晴れた日の穏やかな午後に、コンビニで買ったアイスコーヒーを飲みながら、好きな音楽をかけて仕事に取り掛かるときなど、ふいに少年の心を取り戻すことがある。普段の私なら流れる音楽の方に意識が持って行かれてしまって、ろくに仕事は捗らず、だらだらと驢馬のような自分の体に鞭打って、のらりくらり夕暮れを迎えるだけだ。

しかしそんな日の私はまるで、いつかの夏休みの午前五時のように、今日はどんなことをして過ごそうか、いや、どんなことでもできる気がする――と、まぶしいくらいの活力に満ちている。幼い頃、これから一日が始まるという明け方に、しばしばこの感覚が私を包んだ。それはきっと、「終わり」ではなく「始まり」の前に立っているからだろう。夕暮れに逃げ込むより、夜明けに立ち向かう方が、人は前を向けるのだ。

私はこれを「明け方症候群」と呼ぶ。自堕落な私を救ってくれる幸福な病名である。

 

しかしあろうことか、私はあまりの嬉しさと懐かしさに、この感覚を記録しておかなければならない気がして、やり残した仕事をほっぽり出したままこんな文章を書き始めてしまった。本末転倒ではあるが、一種のカルテと思えば仕方がない。できることならこの病が、永遠に治らないでいてくれることを願うばかりだ。