或るロリータ

A Certain Lolita

沈んでゆくTwitterという島で

Twitterがなくなる、という話題が飛び交っている。でも心のどこかで、きっとなくなることはないだろう、と思っている私がいる。だってこんなに長い間、ずっと当たり前にあり続けてきたんだから。そうしてこれからも、ずっと。そう信じていた。

若者の主流は今やTwitterよりインスタとか、TikTokとか、あるいは別の何かとか、そんな話を耳にすることもあるけれど、私にとってTwitterは、現れては消えていった有象無象のアプリやサービスとは違う、日常の一部、いや、現実から少しずれたところにあるもう一つの世界みたいなものだった。

逆にいえば、Twitterが特別楽しいものという感覚もなかったし、積極的に利用していたわけでもない。Twitterより楽しい娯楽は他にいくらでもあるし、Twitterより大事なコミュニティが大半だ。「今からTwitter見よう!」とか「今日はTwitterの人と交流しよう!」とか、そう意気込んでアプリを開くことはまったくない。

一方で、何か頭に浮かんだからといって、こうしてブログを書いたり、誰かと会って話をしたりすることは、少し体力のいることだ。私にはそんな時間も元気もない。けれどTwitterは日常の隙間でふと感じたことを、好きなタイミングで投稿できる。それを誰かが見てくれているかもしれないし、誰も見ていないかもしれない。それが、ちょうどよかった。あんなにちょうどいい場所は、世界のどこにもない。

 

私がTwitterを始めたのは2009年。確かに当初は、流行りに乗るつもりで手を出した部分もある。当時よく絡んでいたネット上の知り合いたちがこぞってTwitterを始め、気軽に彼らと交流できるのが嬉しくて、興味を惹きたくて、毎日どっぷり浸かっていた。その前後にはSkypeがそれに近い役割を担っていたが、Twitterよりは閉ざされていて、距離感が近くて、ログイン状況が分かったりするのが、臆病な私には性に合わなかった。

私は基本的に自分から人に話しかけれらない。だからSkypeやLINEのように、伝わる相手が限定されている空間では、途端に寡黙になってしまう。既読がつかず、返信も必要としない、あくまで独り言というスタンスでなければ口を開けない人間なのだ。

そんな私にとって、Twitterはやさしかった。フォローされたからといって必ず挨拶を返す必要もないし、仮にブロックされてしまってもすぐに気づくことはない。LINEグループの「○○が退出しました」や、手紙に押された「あて所に尋ねあたりません」の文字のように、明確に別れを突きつけてくるものがそこにはない。いつのまにか出会い、いつのまにか別れている、そんなゆるやかな関係が楽だった。行きつけの店の常連同士のように、本名も知らず、店の外では会ったこともないコミュニティだからこそ生まれる居心地のよさがあった。

 

だけどそんな場所が、明日からなくなってしまうとしたら……。ただ、冒頭に書いたように、すぐになくなることはきっとないと思っている。それに、Twitterという看板そのものは、永遠にあり続けるのかもしれない。けれどすでに、そこから逃げ出していく人や、移動先を探している人を見かける。その結果誰もいなくなってしまったとしたら、そこはもう私の知っているTwitterではない。

少なくとも、行きつけの店のオーナーが変わって内装のセンスが悪くなったり、お気に入りのメニューが消えたりしたら、離れてしまう人の気持ちはわかる。もっといえば住居や街、国や惑星もそうだろう。我慢できないくらい居心地が悪くなったとき、人はその場所を立ち去るものだ。

だけど私には、新しい場所を探すことはできない。親しい人たちと手を取り合って別の場所にたどり着いても、そこではもう、誰に向けるでもない文章は書けなくなる。関係が深い人も、そうでない人も入り混じって薄まった場所だからこそ、私は私でいられたのだ。

 

Twitterを始めるずっと前、中学生の頃に日記のようなブログをやっていた時期がある。お互いの記事にコメントし合う関係の相手が何人かいて、学校に馴染めなかった私には唯一の拠り所となっていた。もちろん顔も本名も知らなかったが、何か辛い出来事があったときには、「この地平の果てのどこかに、私の味方が確かに存在している」という事実に救われたものだ。

Twitterもそうだろう。この15年近く、もがきながら大人になってゆく過程で、Twitterの中でだけは何も持たなかったあの頃に戻れた気がする。Twitterは過去の自分を記録し、生かしておいてくれる心の故郷だったのだ。

もしも連絡先を交換しても、きっと個人的に連絡を取ることは一生ない、けれど生きているかどうかは知っておきたい、そんな相手がTwitterにはたくさんいた。現実なら切れてしまうはずの淡い縁を、なんとか繋ぎ止めてくれていたのがTwitterだった。フォロワーという関係性を失ったあとは、もう、いつかどこかですれ違っても、気づくことさえできないのだ。呼ぶための名前も持たない。

それがどんなに貴いことだったか、夕暮れが迫ってようやく気づいた。若い日々のほとんどを、その奇跡のような場所のかたわらで過ごすことができた私は、紛れもなく幸運な人間のひとりに違いない。

人々が一緒に見ていた長い夢が、今、醒めようとしている。それでも臆病な私は、時代の海に沈んでゆくあの島で、きっと最後まで独り言をつぶやき続けるだろう。