或るロリータ

A Certain Lolita

noteが100記事に達したので、自らの精神状態を振り返る

noteを始めたのが一昨年の七月のこと。もう二年も経とうとしているのがおそろしい。

noteは私にとって精神安定剤のようなものだった。あの居心地のよい空間で、好き勝手にポエムを書き散らすことは、ずいぶんと憂鬱な頃の私を救ってくれていた。

といっても、初めは目的なんて何もなしにnoteを始めたのだ。ただ、Twitterで好きなフォロワーさんがnoteをやっているのを見て、自分も真似してみたというだけの話。わけもわからず始めた一回目のつぶやきはこちら。

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始まりから酔っぱらって書いている。酒を飲んでいる夜なんて、心当たりがありすぎて、一体どんな夜だったか思い出せない。それに今も、酒を飲んでいるし。

基本的に私は酔っぱらったときに手持ち無沙汰に文章を書く。それをブログに載せるには恥ずかしいし、ツイッターでは迷惑だし、ということで毎晩べろんべろんでnoteを開くのが癖のようになってしまった。

振り返ってみると女々しくて痛々しくてとても見ていられないものばかりだけど、そのときはすすり泣くように胸を痛めながらキーボードを叩いていたのが手に取るように判る。酔っぱらうと私の心は大抵ブルーな方へ傾くのだ。

というわけで、せっかくなので、その雑多な似たり寄ったりのポエムの山から、誰に望まれるでもなくいくつかを選んでみた。

 

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一昨年の八月三十一日の日記。たぶん私は一年のうちで八月三十一日にもっとも思いつめる人間なのだ。夏の終わりの象徴ともいえる一日だから。この日に煙草をやめている。

 

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これは毎週末行われていた友人との宅飲みで、朝になって誰もいなくなった散らかった部屋にいるときの心境を綴ったものである。今となってはあんなに毎週騒いでいられた頃がとても懐かしくて恋しい。東京にはたくさんの飲み屋があるけれど、彼らとの宴はもう長いことお預けだ。淋しがり屋の私にとっては辛いことである。

 

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たまに書いているヒロコとジュリーのお話。私は三人称で何かを書くのが苦手なので、本当にたまにしか書かない。でも、三人称だとここぞとばかりにメルヘンチックにしたり、クサい台詞を言わせられるからそれは楽しいことだ。

 

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数日間入院していたときのことを思い出しながら書いた文章。人生初めての入院はとても心安らぐものだった。今でも帰れるならあのやわらかいベッドの上に帰りたい。若い看護師さんがたくさんいて、ドキドキしたのは秘密だ。

 

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大瀧詠一を聴いていたらなんだかアダルトな話を書きたくなったけれど、いかんせん私の人生経験では、そのあたりをぼんやりとさせることでしか大人のまじわりを描けなかったという文章。

 

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ときどき急に恋愛についてわかったような口をききたくなる夜がある。そんなときは、誰かにその言葉を代わりに喋らせることしか、恥ずかしがり屋の私はすべを持たない。

 

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ニートになってすぐに書いたもの。写真は社員寮の窓から最後に撮ったものだ。

 

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いちばん最新のもの。仕事を始めてから、またくたびれた仕事終わりの社会人目線の文章ばかり書き始めているのが、自分でもおかしい。タイトルは坂口安吾の小説をモチーフにしているけれど、内容はあまり関係ない。ただの仕事が終わって家に帰り着くまでのありのままを書いているだけだ。

しかしこうして読み返していると、なんだか昔とあまり変わっていないような気がして、少し安心する。これからもたまに書いてゆきたい。おわり。

忘れられない猫のこと

ときどき我が家の庭に忍び込んでいる猫がいた。我が家は動物を飼わない方針だったから、私はほとんど動物に触れる機会もなく育った。見るのは可愛いけれど触れるのは苦手だった。往々にして動物の前で怯えた表情を見せる人間は動物にも好かれない。私もこれまでの人生、ずっとそうだった。吠えられるか逆に怯えられるかで、動物に愛されたことなどなかった。動物を前にすると私は初恋も知らぬ青くさい少年のように立ち尽くすしかなかったのだ。

そんな私が初めて自ら動物と関わりを持つことになったのが、くだんの猫であった。奴は我が家の庭でバーベキューをしていると、香ばしいにおいを嗅ぎつけて度々フェンスをくぐって顔を出した。野良猫のような野蛮な感じは微塵もなく、首輪はないが飼い猫だとすぐに判った。あとで聞けばそれは隣人の飼い猫であった。

奴は堂々と私たちの前へ歩み寄り、肉を奪うでもなく脚に頬ずりするでもなく、じっとそこいらを歩き回って、さながら日本庭園でも鑑賞する老人のように私たちの食べっぷりを見物したあと、少し離れた庭の隅で寝転んだのだ。なんと図太い奴だと思った。しかしその隙の多さに私は安心してしまった。美しく着飾って凛とした大和撫子より、パジャマ姿ですっぴんの女の子相手の方が臆することなく話せる心理とよく似ている。

私は肉を掴んでいた箸を置いて椅子を立ち、奴の方へそっと近寄った。念のためしゃがみながらゆっくりと近寄った。奴は少し後ずさったが、私が猫の鳴き真似をすると動きを止め、私の眼をじっと見た。私はにゃあにゃあとつぶやきながら奴の方へ近寄った。そしてついにその身体に触れることに成功した。なんというもふもふ。そしてあたたかい。初めての猫の身体に私は病みつきになった。こんなに素晴らしいものを知らずに育ってきた青春時代を悔やみさえした。

その日はいくらか撫で回してそれでおしまいだったが、その翌日も、翌々日も、奴は夕方になると我が家の庭や駐車場に現れるようになった。はじめのうちはそっと近づいておそるおそる手を触れるスタイルだったが、そのうちに私も奴も慣れてしまって、思い切り抱きかかえて口づけをせがんでも奴は平気な顔をするようになった。それどころか私が仕事から戻って駐車場へ車をバックで駐車しようとすると駐車スペースに仰向けになる奴の姿がミラーにうつる。ブレーキをゆるめても奴は一向に動かない。仕方がないから私は車から降りて奴を抱きかかえるのだ。まるで私の帰りを待ちわびる我儘な恋人のように思えた。奴は私が家に友達を招いて飲み会をするたびに、酔っ払いに大人気のマスコットとなってもみくちゃにされた。すっかりみんな奴の虜だった。

奴との別れは唐突だった。私が旅に出て家を空けたことがあった。そのあいだに奴は失踪してしまったのだ。旅から戻ると土産を受け取るより先に家族は悲しい報せを私に告げた。旅になど出ていた自分自身の行動に対する後悔に青ざめた。せめて別れを言いたかった。もう一度だけあの柔肌にさわりたい。泣きたかったけど泣けなかった。夕闇の中を飛び出して私はこれまで奴が出没した近所のいたるところを捜し回った。見つからなかった。飼い主の作ったであろう「探しています」の貼り紙が、肌寒い風に吹かれていた。夏が終わろうとしていた。

あの日まで私はずっと猫派だった。そうしてあの日からもずっと猫派だ。今でもときどきあの甘い日々の思い出がよみがえって、そうしてむなしくなる。それを私は心の内でそっと失恋のひとつに数えている。

 

今週のお題「犬派? 猫派?」

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さだまさしのアルバム『夢供養』がオリコン1位になる時代があった

さだまさしのアルバムで一番好きな一枚を訊かれたら答えに悩んでしまうけれど、名盤を選ぶのなら『夢供養』の存在は避けては通れない。『夢供養』は、1979年に発表されたさだまさしのソロ4枚目のアルバムだ。オリコン1位、レコード大賞のベスト・アルバム賞を受賞している。このアルバムが評価された1979年という時代を、私は非常に奇妙に思う。

3枚目のアルバム『私花集』は「案山子」「秋桜」「主人公」といった知名度の高い曲が詰まっており、売れるのに何の疑問もない。しかし、『夢供養』には、さだまさしと聞いて、まっさきに思い浮かぶような曲が一曲も入っていないのだ。もちろんファンには人気の高い「まほろば」や「パンプキン・パイとシナモン・ティー」といった曲は収録されている。しかし、それ自体がこのアルバムの評価を底上げしているとは思えない。私は単に、音楽が一枚のアルバム単位で作品として評価される時代だったからこそ、この名盤が埋もれずに済んだのではないかと思っている。

1979年は、昭和歌謡を愛する私にとって一番好きな年かもしれない。カラオケの年代別ヒット曲検索の機能を使うと、いつも1979年の名曲の多さに驚いてしまう。1979年縛りのカラオケ大会を開いても、ゆうに一晩を明かせてしまいそうだ。70年代の終わりであるこの年に、まるで時代をせき止めるような勢いで昭和歌謡は煌めいている。私はこの年に生まれていなかったことと、その時代の焼け跡をしか見られない現代が、たまらなく口惜しい。

さて、さだまさしといえば今ではMCの上手いおっさんとか、ちょっと泣ける歌を歌うおっさんとか、そんな印象を抱かれているのではないだろうか。年配の方の多くも、たとえば関白宣言だったり、雨やどりだったりを、懐かしいと思うばかりで、この『夢供養』に触れる人はあまりいない。もちろん、ストーリー性のある歌詞を書かせたらさだまさしは間違いなく達人である。しかし、かつてのさだまさしの作詩能力はそれだけに留まらなかった。彼の書く詩は完全に文学の域に達していたのだ。

衣笠の古寺の侘助椿の
たおやかに散りぬるも陽に映えて
そのひとの前髪僅かにかすめながら
水面へと身を投げる

 これは「春告鳥」という曲の歌詩である。私が初めてこの曲を聴いたのは中学生の頃だった。衝撃だった。辞書をめくりながら聴かなければならない歌手など、これまでにいなかったのだ。

また、「空蝉」という曲について考察したサイトがある。

http://www008.upp.so-net.ne.jp/ichishu/sada/utsusemi.htm

後になってこの記事を読んで、私はとんでもない曲を聴いていたのだと思った。何の学もない中学生には、到底理解できるはずがなかったのだ。あの頃はただ、そのじんわりと胸の底に沈んでくるような暗いメロディーが心地よくて聴いていたのだから。

ただ難解であればよいかといえばそうではない。難解な歌詞を書くアーティストは他にもたくさんいる。ただ、狙って作れる難解さと狙っても作れない難解さがあって、さだまさしは紛れもなく後者である。狙っても作れないというのは、感覚がずれているというのではなくて、普通の人では及ばないという意味だ。知識と才能の裏打ちがなければ、こんな詩を書けるはずがない。井上陽水なんかは誰もが上下左右のベクトルの中でもがいているところをひとりだけ斜めに飛び出したような存在だけれど、さだまさしはひとつひとつのベクトルを極限まで突き詰めた存在であると思う。笑える曲も泣ける曲も作れる裏で、こうした悲鳴のような曲も作れるのだから。

そうしてこのアルバムでもっとも特筆すべきは先述の「まほろば」という曲である。曲調が恰好良いことからライブやテレビでも度々演奏されている。以前アルフィーがカバーしてめちゃくちゃハードロック調になっていたのには少しやり過ぎ感があったのを憶えている。

例えば君は待つと
黒髪に霜のふる迄
待てると云ったがそれは
まるで宛て名のない手紙

 この一節だけでもただのまろやかなラブソングとは一線を画した切実な恋の歌であることがわかる。どうやら万葉集をモチーフにしているらしい。

さだが師と仰いでいた詩人でもある宮崎康平が、この曲をして「さだは自分を超えた」と賞賛した。しかし、同時にさだは「聴き手がついてこないから、これ以上難しい曲は書くな」との忠告を宮崎から受けたともいう。wikipediaより)

 どうやらさだまさしは難しい曲を書いているという自覚があったのかもしれない。あるいは才能が氾濫した結果なのかもしれない。いずれにしても、そうした隙のない作品づくりが真っ当に評価される時代があったということが、平成を生きる私には嘘のようでならないのだ。1979年に生きていれば、学校で周りの友達とこのアルバムの魅力について語ったりできていたのかな、と思うと、タイムマシンの開発を願うことでしかこの悲しみのやり場を見つけられないでいる。

 

夢供養 プライス・ダウン・リイシュー盤

夢供養 プライス・ダウン・リイシュー盤

 

 

酔っぱらうということは、憂鬱を先送りにするということである

絶望の朝はいつもアルコールの残り香がする。たとえば楽しい夜があったなら、どうにかその夜を終わらせたくないと思ってしまうのが人間である。そうして夜を引き延ばすために酒を飲み、月曜日から金曜日までのあいだに起きたあらゆるもやもやを、火照った頭の熱で溶かして酒場の喧騒へ流してしまおうとするのだ。

だからといって翌朝になれば、何一つの悩みも残さず清々しい目醒めを迎えられるかといえばそうではない。走っている場所が明るければ明るいほど、急にトンネルに差しかかったときに、その暗さにうろたえるものである。私は酒が好きで、そうしていつも酒を飲んでばかりいるが、未だに酒を飲んだことを後悔しなかった朝はない。それは決まって私が酒を飲みすぎてしまうことに起因する。そして飲みすぎた折に私はことごとく理性をゆるめてしまうのだが、それがよい方向に作用したためしはほとんどない。普段無口な私が酔うとおしゃべりになって、Barで隣の席に座った美しい女性と仲良くなり、ふとももを触るに至ることはまずないだろう。確かに私は酔うとおしゃべりになる。だが喋りたいという欲求が先立つばかりで、頭の回転は鈍くなる一方なのだ。だから、舌がもつれてろくな話などできやしない。酔えば酔うほど私は「つまらない話をべらべらと口にする人間」へと堕ちてしまうのだ。

それは今朝も同じだった。同僚と酒を飲んで語り明かし、金もないのに居酒屋に四時間近く居座っていた私は、それから駅で彼と別れ、ひとりの夜がおそろしくてカラオケへ立ち寄ってしまったのだ。ふるえる指でデンモクを操作してマイクを握り、尾崎豊を熱唱していたときのことなど朧げにしか憶えていない。酔っぱらっていたためかほとんど音程などめちゃくちゃだったし、おまけに喋り疲れた後だったのでひどく喉を痛めてしまった。ドリンクバーの味噌汁とコーヒーを交互に何杯も胃に流し込んだが焼け石に水だった。酔いの熱がすっきりと冷めるのにはまだまだ時間がかかりそうだった。

やがて一時間半が経過して、かすれた声で会計を済まし、カラオケを後にした。そして、さまようように家路をたどり冷たい部屋にころがりこんだ。脱ぎすてたコートを押しのけヒーターにしがみついた。軋まないベッドの上で優しさを持ちよる相手もなく私はひとり眠った。

頭を抱えながら目を醒ました。なんだかよく憶えていないが酔っぱらっていたのだけは憶えていた。おまけに喉が痛い。寒気もする。こんなに一遍に不幸が襲ってくるなんて、よほど酒の席で悪いことをしたのだろうか。月曜日、同僚に顔を合わせるのが少し怖い。酔っぱらった私はかつて「絡み酒」と揶揄されるほど人恋しさ故に人格が豹変していた。だから真面目なタイプの友達にはあまり好かれる飲み方ではなかった。この頃は気をつけて大人しい飲み方をしていたはずなのだが、仕事の話を存分にできる相手を見つけたことと、疲れが募っての久々の酒だったことで、思わず飲みすぎてしまったのだ。そんな自己分析など後の祭り。彼にしてみれば知ったこっちゃない。私はもう考えるのをやめにしようとして立ち上がり、煙草のにおいの染みついたコートをハンガーにかけてファブリーズを振り、お湯を沸かして葛根湯を飲んだのだが、精神も肉体も、陽が昇るにつれてみるみる弱ってゆく。すべての元凶は酒を飲みすぎたことだ。飲みすぎなければ舌がもつれて後悔することもなかっただろうし、カラオケに行くのも我慢して喉を痛めることもなかっただろうし、しっかりと睡眠をとって風邪をひくこともなかっただろう。夜を引き伸ばしたいがために、すべて不健康な選択肢を選んでしまった。先送りにされた憂鬱が今届いて、その憂鬱から逃れるためにまた酒を飲もうとする。……少なくとも風邪が治るまで酒はよそう。そうしよう。この文章はすべてろくでもない私の反省文である。

 

傷つけた人々へ

傷つけた人々へ

 

 

夜の街をドライブしていた頃

まだ故郷にいた頃、私はときどき夜になると思い立ったようにドライブへ出かけた。おんぼろの軽自動車に乗って、街灯もない山道を下って街へ出た。私にとって毎晩の憂鬱とたたかう燃料はアルコールだけだったから、ドライブをするという日には生唾を飲み込んでお酒を我慢しなければならなかった。だけどそれに替えられないくらいドライブは私の憂鬱を吹き飛ばしてくれることがあった。普段仕事で嫌というくらい車を運転していたくせに、やはりあてもないのが良かったのか。好きなところに好きなだけ、意味もなく車を走らせる。まるで夜を切り裂くような感覚だった。

例えば黙って淋しい音楽に耳を傾けていることもあったし、夏には窓を開けて夜風と月明かりに陶酔することもあった。けれどとりわけ好きだったのは尾崎豊を聴きながら大声で歌うことだ。ほとんど車もない寂れた国道線を飛ばしながら車の窓が割れるほどに大声で叫ぶのは、この上ない快楽だった。その日起きたすべての物事が煙草の煙とともに窓の隙間から夜空へ消えていった。

歌い疲れると私はそこでUターンした。そうして今度は尾崎の声に耳を傾けながら車を走らせる。心地よい脱力感と、どこか名残惜しさとで、訳もなくコンビニへ寄り道したりする。普段飲まないコーヒーを買って飲んでいると、私はなぜだか自分が今この世で一番「青年」という言葉がぴったりの存在になったような気がする。大人でも子供でもなく青年だった。

きっと尾崎もそうだろう。彼は一瞬の火花のように生きた。彼の作る曲は単なる少年の希望でもなく、青春の甘酸っぱさでもなく、かといって大人になりきれてもいない、青年という形容がまさに相応しい、その頃私にいちばん似合いの曲だった。人は「今時尾崎なんて」そんな風に私を懐古主義者のような目で見る。けれど自分が恰好良いと思うものに対してそこに世間のものさしなんて必要ない。私を肯定するためには、私一人いれば充分だったのだ。

やがてまた街灯が少なくなってくる。馴染みの山道を走りながら、明日も仕事だなんて絶望が挨拶を交わしてくる。これからずっと生きとおす自信はなかったけれど、もう一日だけならどうにか死なずに済みそうな気がした。そうして一日一日を積み上げてゆくのだ。そろそろ今夜も終わりだ。カーステレオに手を伸ばす。最後に聴くのはいつもあの曲だった。

 

今週のお題「卒業」

歩きながら音楽を聴くのは楽しい

タイムカードを切って、仕事場のドアを開ける。エレベーターを待つあいだ、ポケットからiPodを取り出す。イヤホンを耳に挿して、iPodの電源を入れる。今朝、通勤中に聴いていた相対性理論が一時停止になったままだ。プレイリストをぐるぐる回して、浅川マキを再生する。夜に似合いのブルースだ。月のあかりに照らされながら、ゆったり歩くのにぴったりだ。エレベーターが開いて閉じて、ぐんぐんと降りてゆく。

喫煙所の若いねーちゃんと眼が合った。会釈をして通り過ぎる。深い闇の中で自販機の光に張りのある肌が艶めいてきれいだ。

それから私は駅に向かって歩く。高架下を通り過ぎるとき、既にたくさんの乗客を抱えた上り下りの電車が私の頭上を走ってゆく。駅へ吸い寄せられるように歩く人と、駅から放たれるように歩く人とがすれ違いざまにコートの裾を寄せながら、狭い路地に靴音を立てる。

駅前ではネオンサインや赤提灯が私を誘惑するけれど、今は我慢の時だと目をそらして駅の階段をのぼる。音楽のリズムに合わせて一段一段のぼっていると、ここがまるで私だけの小さなライブハウスになったような気がする。

ホームで電車を待つときも、退屈なんてしなかった。私は電車を待っているのではなくて、音楽を聴いているのだから。と、やがて電車がすべり込んでくる。座る席はないけれど立つのには窮屈しないほどの車内で、私は窓に向かって立ち、流れてゆく景色を見る。夜の街はこうして電車の窓から早送りをしながら見るのがいちばんきれいな気がする。そんなことを思いながら。

いつしか電車が着いて、私はくだんの駅へ降りる。改札を抜けて、小洒落た街並みの中を歩く。今日は鞄が欲しかったのだ。だけどあんまりお金がないから、いくつか古着屋を巡ってみることにしたのだ。初めて通る路地裏の、少し怖そうな男の人と、目を合わせないように肩がぶつからないようにきわめて遠くを歩きながら、私の寄り道は続く。

たぶん、どこでもいいから歩きたいのだ。そんな夜はきっとある。信号が青に変わって、横断歩道をいっせいに人が渡り始める。人ごみの中にいるときがいちばん孤独になれた。私だけのライブハウス、ダンスホール。あの娘がくれたブルースを聴きながら私の夜は終わらない。

空の綺麗な町だった

東京には二種類の人間がいる。それは東京で生まれた人間と、田舎で生まれた人間である。私は後者、東京の空を狭いと思ってしまう方の人間だ。あらゆる場所で人々は持ち寄った故郷の話をする。故郷の話は人と人とをいちばん初めに繋ぐきっかけになる。そうして同郷の人と出逢えた日には、何やら気恥ずかしいくらい安堵して、妙に気取った装いで、互い都会の言葉で話したりする。

私は人生で数えるほどしか、ひとりで酒場へ行ったことがない。淋しがり屋のくせに、臆病者なのだ。ひとりで酒場へゆくのには、たいへんな勇気がいる。あの重い扉を開けるのに、この若くて細い腕はあまりに頼りないのだ。だけどいざ入ってみれば、顔をしかめた大人たちも、案外優しかったりして、後悔したためしはない。

ゆうべ私は仕事を終えて、いつも通り過ぎるはずの駅で降りた。初めて降りる駅だった。ひどい雨の夜だったが、初めての街は美しかった。雨に滲んだ街灯が奇跡のように光っていた。

初めて入った酒場でカウンターに腰掛けて、ウイスキーを頼んでみた。みんなひとりだった。店主や、隣に座っていた人と会話をする。なんだか大人になったみたいだ。あるいは子供に戻ったようでもある。雨に濡れた肩は冷えたが、人のあたたかさに触れながら、夜は更けていった。

その人は高村光太郎が好きだと言った。それは私のもっとも好きな詩人の一人である。

智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。

 あの一節を誰かの口から聞くのなんて、国語の授業以来だった。その人も田舎生まれだった。開いた本の活字のうちに、淋しい身の上の拠り所を見つける人のいることが、たまらなく嬉しかった。きっとそれは恋でもなく友情でもなく、なにやらほかに言い表しようのない仲間意識というものだ。夜はきっとそうした淋しい人たちの集まりでつくられているのだろう。そう思うと私は自分ひとりの靴音を聞いて歩くことに、もう恐怖しなくなった。

あんなに空の綺麗な町もそうそうないだろう、と故郷の話をするたびに思う。なんでもない日に外を歩いて見上げた空がいちばん広々していた。あるいは日が暮れて部屋の窓から遠くの町灯りを眺めるのも好きだった。今でもやっぱり私はふるさとが恋しいのだろう。いつか過ごした日常を夢見るなんておかしな話だけれど、ここで暮らしてゆくのには、思い出だって必要だ。酔っ払って電話をかけたふるさとの友達が、まるで昨日まで一緒に遊んでいたみたいに、当たり前に話をしてくれたことが嬉しかった。私は、あの町が好きだから、あの町を離れたのだ。そうして、淋しいのは私だけじゃない。さよならは、ひとりじゃできないものだから。淋しさの償いに、私はこれからも、強く生きてゆかなければ。

 

今週のお題「好きな街」