或るロリータ

A Certain Lolita

初めての転職が、人生の大きな一歩になった

私は人生で三度、転職を経験した。

環境を変えるのは、勇気と体力がいることだ。特に転職となると、会社によって規則や雰囲気はバラバラだし、正解は決してひとつではない。とりあえず一定期間を過ごせば自然に卒業できる義務教育とは違った、自発的なエネルギーが必要になる。

もちろん、進学先を選ぶ段階で、大きな決断をした人もいるだろう。ただ、私は就職するまでほとんど自ら決断したことがない人間だった。決断を先延ばしにし続けた結果、失恋をしたし、興味のない分野の学校へ入ったし、やりたくない仕事に就いた。だから、初めての転職を超える決断は未だになかったと思う。

一言で表すと「永遠」。それが初めての仕事に抱いた印象だった。

簡単にいえばインフラ系の仕事で、「潰れない」「安定している」というイメージから、人気の高い業種ではある。バリバリのベンチャー企業なんてどこにもない田舎町では、この選択は決して失敗ではなかっただろうし、同窓会などで実情を知らない友達に会うと、うらやましがられることもあった。

しかし、私にとってその仕事は、「安定」ではなく、ゆるやかな「衰退」にしか見えなかった。大した努力もしてこず、何の経験もない青年に残された唯一の「若さ」という価値が、一回り以上も年の離れた先輩たちと同等に消費されていると感じたのだ。

いったい、私なんぞの若さにどのくらいの価値があったのか定かではないが、少なくとも若いというだけで「未来はまだ変えられる」という無闇な希望を捨てないでおくことはできる。「こんなのは本当の自分じゃない」そんな夢見がちな愚痴をこぼしながら、少しずつ仕事にも環境にも慣れていく自分に嫌気が差し始めた。

 

東京へ行きたい。いつしかそんなことばかり考えるようになった。何かをするために東京へ行くのではなくて、この町を出るために東京へ行きたかったのだ。いいや、本当は、やってみたいこともあるにはあった。半分は、憧れに過ぎなかったのかもしれないけれど。それに、理想だけでは生活がままならないことも十分わかっている。理想と現実とのはざまで、私は迷いつづけた。

ここで大きな決断をすれば、一瞬は気持ちが楽になるはずだ。口では後悔なんてしていないと言うだろう。けれど、きっと今より生活は苦しくなる。ささやかな楽しみである晩酌の発泡酒さえ、飲めなくなってしまうかもしれない。それに、苦労したところで、理想に近づけるとも限らない。下手すれば追いつめられて、今よりずっと劣悪な環境へ、生活のためだけに再就職するハメになるかもしれない。

考えれば考えるほど、今の立場を捨てるのがとても賢明な判断とは思えなくなってくる。相変わらず、何も武器なんて持っていない自分が、「若さ」というただそれだけで、戦っていくことができるのか。

 

日々、転職サイトを眺めたり、リアルの友達にもTwitterのフォロワーにもあれこれ相談を重ねながら、結局私は、決断した。東京へ行くと。

ただし、心で決めたからといって、すぐに行動が伴うものでもない。退職の意思を会社に告げるのは、喧嘩した友達に謝ることや、片想いの相手に告白することとは比べものにならないくらい、途方もない勇気が必要だった。

初めから、別れる前提で交際をつづける恋人などいない。別れ話はいつも突然で、はっきりと言葉にする寸前までは、あくまで同じ未来を向いて歩いているふりをしなければならない。「この物語、だめかもしれない」と、薄々思いながらも、カットを切られるその瞬間まで、最低限の演技をつづけなければいけない。

同じように、仕事でも、上司や同僚は未来の話をする。来年度の目標がどうとか、将来はどうしていきたいとか。だって、辞めるなんて微塵も思っていないのだから。そんな人たちの笑顔を粉々に砕くことを想像すると、簡単に言い出せるはずなどなく、終わらない二日酔いに苛まれたような苦い顔をしながら、出社する毎日を送った。

 

ひと夏遅れて、ようやく決断に行動が追いついてきた。普段残業をしない私が一時間近くデスクに残り、最後の一人が帰ったあとの、上司と二人きりになった部屋。何かに勘づいたような上司の世間話。上の空で答える私。

「あの、ちょっとご相談があるんですが」

あんなに声が震えたのは、後にも先にもあの瞬間だけだ。上司は動揺し、少しうなだれながらも、ちゃんと話を聞いてくれた。それから数日して、私が辞めることが朝礼で発表された。もちろんみんな驚いていたけれど、誰も私を否定することなどなく、それから数週間、引き継ぎも楽しく終えることができたし、最後には華やかな送別会を開いて、笑顔で送り出してくれた。

勇気を出して、よかった。そう思えたと同時に、今まで気づけなかった仲間たちへの感謝の気持ちも芽生えた。環境に不満を抱いてばかりだった自分が、情けなかった。何も、自分は恵まれていないことばかりじゃなかったんだ、と。

その瞬間、私の中に少しだけ残っていた「この町から逃げ出してやる」という感情は、すっかり消え失せていた。本当の意味で、私は前に向かって進む覚悟ができたのだ。ひたすら迷いつづけてきた私の人生にとって、初めての大きな決断は、誰にも恥じることのない誇りとして、今でも記憶の中で輝きつづけている。

 

もう一度ふるさとに帰れる日のために

昨年の暮れ、私はある分岐点に立っていた。人生の明暗を分ける決断をしたのだ。仔細に書くことは憚られるが、私の生活は少しだけ変わることとなった。仕事の幅がより広がり、自由になった反面、これまでよりはるかに重い責任を背負うこととなったのだ。今はまだ、旅の途中で、苦しみの中をもがいているような毎日だが、もちろん未来を見据えての英断だったと思っている。あの安寧な日々の先には、きっと私の求める未来は待っていなかっただろうから。

日増しに強くなる「東京に出たい」という想いに駆られて故郷を飛び出したのは、もう何年も前のこと。あの頃は故郷での暮らしこそが平凡でつまらないものだと信じて疑わなかったし、ふり返っても、あの頃の私にとってそれが真実だったことは覆すつもりもない。反対に、東京で始まった暮らしがどれも新鮮で刺激に満ちていたこと、故郷に帰るたびに時間が止まった国に来たような錯覚を覚えていたこともまた本当だ。もっとも、その時の止まったような数日間こそが、何より私を癒し、顧みる何よりの機会となったのだが。

何がなんだか判らないまま、目の前の仕事をこなし、どこに繋がっているのかも知らない電車に飛び乗って、慣れない街を駆け回った。東京で「なんとかやっていく」ことこそが私の使命だった。あわただしく季節は過ぎて、ようやく私はこの得体のしれない都会がなんなのか、少しずつ判り始めた。同時に、そこにはもう無闇な憧れや未知であるが故の畏怖は残っていなかった。東京は東京なりに好きだし、愛着も湧いてきた。きっと今、田舎から出てきたばかりの彼らが私と会ったなら、きっと一人の都会人として見間違えるにちがいない。

流されるままに生きてきて、時には流れに逆らって、そうしてこれからは、私自身が流れをつくって行かなければならない。だとすれば、この風向きの先にどんな未来があるのか、少しは考えておく必要があるだろう。たとえば家族やら子供やら、堅実な目標に向かって歩み続けることもできるし、あるいは仕事で天下を取るとか、そんな野望を抱けないわけでもない。どちらも手に入れたいと欲張ったって構わない。ただひとつだけわがままを言えるとすれば、私はやはり故郷をあきらめきれないのだ。

いつかもう一度故郷に戻って、私のために涙した人々の頬を拭えるような、たくさんの土産話を持ち帰りたい。金のハンカチでさびれた町を磨き上げて、もう一度にぎやかな路地にかえしたい。全ての責任が私にあるなんて、思い上がったことを言うつもりはない。ただ、私の責任の及ばないところも含めて、何もかも背負えるほど大きくなって、もう一度思い出のページを拾い集めたい。そのためだけに頑張ってきたわけではないけれど、そのために頑張ることもできるのなら、私は故郷に時間旅行の切符を贈りたい。人も、街も、文化も、変わってゆくものを思い通りにしようだなんて、罪深いことは承知している。ただ、それが過去にすがりついて生きている私の宿命かもしれないとさえ、この頃思うのだ。

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そうして私たちは大人になった

昨晩から泊りがけの用事があったため、最寄駅に戻ってきたのは朝の早い時間だった。今日は成人の日だ。休日の穏やかな空気と、祝日の少し浮かれた空気とが混ざり合った街の中を、「振袖姿の娘とすれ違わないかなあ」などと思いながら歩いたが、まだ早い時間だったためか、ほとんど人とすれ違わないままに、家に着いた。

ニュース番組や市報の一面には大人の仲間入りを果たした若者たちを祝う言葉が飛び交っているが、こう家の中にいると、別段実感が湧かないものだ。クリスマスに大晦日、お正月と、街が、世間が一体となる特別な日が続いて思うのは、成人の日なんて、一度過ぎてしまったら、すっかり意識の外れに追いやられてしまうということ。

もう、何年経っただろう。それが限られた私たちだけに特別な一日だったある冬のこと。私は高校を卒業して働き始めて、仕事にも慣れかけて、堂々とお酒を飲める年齢になっていた。かといって、いつも家と職場を往復するばかりで、若者らしいお金の使い道もないままに、持て余した給料をお酒や煙草に費やしては、大人への階段を登ったつもりでくたびれた日々を過ごしていた。自由だが、ある意味空っぽだった。

友達は今、どうしているだろう。地元に住んでいるやつもたくさんいるはずなのに、ほとんど顔を合わせることはない。高校時代はろくに喋りもしなかったクラスメイトと、孤独をまぎらわすためだけに時々会って、少しの酒で酔っぱらい、別れて、季節はあっという間に過ぎる。大人になることで私は幾分我慢強くなっていたが、そうでなければ、涙なしで毎日を送れなかっただろう。

さて、その晩は成人式の前日ということで、同窓会が催されることになった。中学校の同窓会だ。Facebookなんかでそれなりに同級生たちの近況は知っていたものの、大学へ進んだ者の多くは、例に漏れず華やかなスポットライトの下で人生のレールを進めていた。

幽かに交流の残っていた仲間たちは、ほとんどが私と同様に就職をして、いち早くくたびれた大人となりつつあった。胸を張ってホテルの会場に足を踏み入れるのに少し気後れするのは同じだったらしい。連絡を取り合い、五人ほどで合流してから、夜の街へ繰り出すことにした。

会場のホテルはネオン街のど真ん中。真新しいスーツに、冬物のコートを羽織り、大人の振りをした私たちは、辺りにあふれる酔いどれたちの陽気に背伸びして歩いた。エントランスを入ると、まばゆいシャンデリアと開けた大階段に怖気付いてしまう。

「今の、××じゃなかった?」友人が指差したのは、華やかなドレスを着た女性。とても、同じ学び舎で肩を並べていた同級生とは思えなかった。よく見れば面影があるのかもしれないが、私はあまりのまぶしさにその顔を見られなかった。

受付にいたのは、かつて生徒会役員だった面々。予想を裏切らず、堂々とした振る舞いの、立派な大人になっているように見える。意地を張って、平気な振りで、軽い冗談でも交えながら受付を済ませたが、あまりの緊張に声が上ずってしまった。

会場はだだっ広く、すでにたくさんの人影があった。ドラマのワンシーンで見るような立食制のパーティーで、並んだ料理と、一角のバーカウンターに、少しだけ胸が高鳴る。連れ立ってきた仲間たちと、そわそわと隅にたむろして、穏やかな時が過ぎることを願いつつ、やがて乾杯のときを迎えた。

一杯目のビール、二杯目の焼酎と飛ばすうち、気持ちもほぐれて、ようやく人並みに口がきけるようになった。押しの強い女子に話しかけられて短い会話をしていい気になったり、気に入らないやつと少しばかり喧嘩のようなことをして酒をまずくしたり、夜は瞬く間にすぎていった。

何度目かのトイレに立った折、ふと鏡を見ると、すでに私の顔は真っ赤。だらしない酔っ払いの姿だった。けれどもそんなことを客観的に見る余裕もなく、また会場に戻っては酒を飲み、そのうちにお開きの時間が近づいた。

ロマンスを期待しなかったわけではない。味気ない日々の中で、いかにも定番な話であるが、同窓会の夜に何かが起きて人生が変わるだなんて、夢物語のようだけれど、やっぱりまだまだ二十歳の頃で。何人かの女子と思い出話はしたけれど、取り立てて彼女らの瞳の中に私が輝いて映っている様子はなかったし、それに無理やり彼女たちの夜を引き伸ばせるほど、私は大人の振る舞いを身につけられてはいなかった。

結局そのまま私たちは夜に散り散りになった。男ばかり数人で、駅前のラーメン屋へ入った。「締めはやっぱりラーメン」だなんて、飲酒のなんたるかを判ってもいないくせに一丁前に背伸びして、けれどそんな関係が心地よかった。

輪の中に一人ばかり、すっかり大人の振る舞いを身につけた、あるいはこの夜のネオンサインの中に、今日再会した美しい女性たちと、消えてしまってもおかしくない男がいた。彼はなぜだか淋しそうにラーメンをすすり、さも私たちの仲間のようにくたびれた笑顔を見せた。

彼がその気なら、私たちも変な視線を送る気はなかった。きっと誰にだって、ひとつやふたつ、事情はあるものだ。それよりせっかくの淋しい我ら、今宵の空っぽな思い出をすっかり乾杯の音にまぎれさせて、これからまた夜へ旅立とうではないか。

私たちは、その夜最後のグラスを合わせた。大人って、やっぱりまだまだ難しい。

 

お題「わたしの記念日」

一年が終わるたび、思い出す人がいる

年末年始の雰囲気がとても好き。学生は一足先に冬休みに入って、大人は気ぜわしく仕事を畳みにかかり、みんなどことなく浮き足立った、あの数日間が。クリスマスのロマンチックな雰囲気から、一気に年の瀬へ駆けてゆく感じ。テレビ番組はとにかく毎年おんなじように華やいで、朝っぱらから日本酒飲んだりして。人がみんなぐうたらになるような、だけどそれが許されるような、甘くてゆるいひとときが好き。

子供のころは雪の降らない街に住んでいたから、珍しく雪が降ると嬉しかったっけ。積もることはなかったけれど。朝起きて二階の窓から、向かいの家の屋根が白いドレスを羽織っていると、私は陽気に家を飛び出すのだ。あたりは静まり返っている。いるはずの人たちが誰もいない公園は、淋しい私だけの王国。すると、近所の友達も同じように分厚いコートで現れて。こんなことしてんの俺たちだけだなって、かっこつけながらやさぐれて、それが楽しくて、かき集めて作った雪だるまは茶色かった。不恰好に公園の入り口に置き去りにして、今度はストーブを焚いた部屋に入る。砂糖醤油をつけた餅を食べながらトランプをする。妹はクリスマスプレゼントの人形を抱きかかえて指をくわえて眠っている。

そんな古いページをふと思い出して、たまらなく切なくなる。あいつは今どうしているだろうか。東京に出てきて何度か会ったきり、やがて連絡が途絶えてしまった。今年くらいは、久しぶりに会いたかった。私は元気にやっている、そう伝えたかった。ただ、それだけなのに、あの頃私たちの世界のすべてだった風の便りは、今や背の高いビルにさえぎられて、どこへも届かない。小さなアパートの一室からしたためた手紙には、出す宛てもない。

もしもどこかでばったりと、年老いた私たちが出会うことがあったなら、きっとそれは運命だろう。けれど、もう二度と会えないのだとしたら、それもまた運命。別れの数は指折りなのに、出会いの数ばかり増えてゆくなんて、そんなに人生うまくはできていないのだろう。

どうしたって、別れはくる。おまえが元気でやっているなら、私も明日を生きてやる。今日が昨日になって、今年が去年になって、いつか遠い思い出になったとしても、私はどうにか生きてやる。おまえの知らない街で、お前の忘れかけた男が、ときどきおまえを思い出しながら、こんな文章を書いていることを知るはずもなく、おまえも元気に生きていてくれ。

心はいつまでも少年のまま

いつになったら自立できるのか、そんなことは考えずに過ごしてきた。小学生の気分のまま中学に進み、いつのまにか高校生になった。実家にいれば毎日あたりまえにご飯が出てきて、大きな家に守られて、いざとなれば責任なんて負う必要もない。自らの部屋に逃げ込んで本を読んだり音楽を聴いたり、どんどん自分の世界に閉じ籠っていった私には、自立なんて到底できそうもなかった。

恋はしていた。していたけれど、私はずっと子供のまま。あの娘はいつしか大人になっていったというのに。失恋はあっけなかった。私は何もしなかったのだから。ただ自然に時がすぎて、自然に別れた。そうして自然に忘れられるはずだった。毎日学校へ通って、何事もなく帰る日々。そんな暮らしの中では、憂鬱の入る隙間などいくらでもあった。私は思い詰めることで季節をしのいだ。

高校生になって、初めて一人で遠出をした。青春18きっぷで県外へ出た。確か3泊ぐらいの旅だったと思う。初めての東京へ、私はひとり、重いスーツケースを引きずって乗り込んだ。東京の街は、田舎者には案外やさしかった。誰も私になど見向きもしなかったからだ。ただ、ありえないような雑踏がめまぐるしくすぎてゆく。それにさえ目をつぶれば、少し息苦しいだけの、普通の街だった。そう思った。

その旅を機に私の食事量は増えた。といってももともとがきわめて少なかっただけであるが。とはいえ私はようやく青年へとつづく階段に片足をかけ、いくらか逞しく、健全に歳を重ね始めた。やがて就職活動の時期が近づいた。他に何一つ武器を持っていなかった私は、件の東京への旅の思い出だけを提げて、企業の面接へ乗り込んだ。かつての私ならしどろもどろ、人前に出るだけで汗が噴き出して、声のひとつも出せないはず。けれど練習の成果と、ささやかな覚悟もあって、私は無事に面接を終えた。

私は働き始めた。社会人と呼ばれるようになった。周囲は私を大人として扱ったが、心はいつまでも子供のままだった。少しの賃金から酒を買い、飲んだくれるようになった。それが私をかりそめの大人に仕立て上げてくれた。また単純に酔っぱらうことは最高の気分転換だとも思った。子供のような大人のような、そんなふらついた存在のまま時は過ぎていった。特別大きな障害もなく、仕事は案外やってのけることができた。少しずつ腐敗しながら、数年が経った。

私は東京へ出ることに決めた。身の回りのことを何もかも自分でできるかどうか、まだ定かではなかったけれど。だって実家はこんなに穏やかで、楽しくて、幸福な場所にちがいなかったから。掃除も洗濯もほとんどせず、時折酒の肴をこしらえるために台所へ立つのみ。きっと、そんなことは上京を阻む理由になんてなりはしなかったのだろうけど。生活など、情熱がどうにかしてくれると思っていた。それくらい私は燃えていた。人生初の転職だ。父親は心配のあまり嘆き続け、母親は快く私を送り出した。もちろん、誰より淋しかったはずだ。

それからいくつかの挫折と苦労を重ね、私は東京にてようやく生活を構えることができた。ここに来るまで、毎日が挑戦だった。もっとも、その挑戦は続いてゆくわけだが。だけど私は、心はいつまでも少年のまま。そんなことを言っていられない年齢に差し掛かりつつあることが、何より悲しいんだけれど。自立ってなんだろう。考えても、判らない。両親は、今、少しは安心してくれているだろうか。それとも、まだまだ心配しつづけているだろうか。

最近、実家へ帰ると少し距離を感じる。もはや東京の家が、私の家で、実家は、実家。そういう場所になってしまった。昔は実家なんて呼ばなかった。あれが私の家で、東京は仮の住まいだった。時々便りを寄越すとき、故郷の言葉をつかえるのが、とても嬉しい。もう、昔のままの関係ではなくなってしまったけれど。これが自立なら、やっぱり淋しい。本当は、いつまでもあの優しい場所で甘えて過ごしていたかった。いつでも帰れるつもりで、少しだけの冒険のつもりでこの土地へ来たけれど、今はもう、帰れる場所がなくなってしまった。私はここで生きてゆくしかない。大人になって、強くなったぶん、人は、淋しさを背負わされる。もう、残りの人生で何度会えるか判らない故郷の面影たちに向けて、私はこの街で生きてゆく。今日も、明日も、力強く。

ふるさとはいつまでも青い思い出の中に

私のふるさとは九州の片田舎、大分県である。よくこういう紹介をすると、「大分ってどこ?」そんな期待通りの反応をいただくことが多い。年配の方だと「昔一度行ったことがある」とか、もっと年配の方だと「私のころは新婚旅行で別府に行くのが流行ってた」とか、あるいは「ラムちゃんみたいな喋り方のとこだよね?」とか「すべって転んで大分県」みたいな通ないじり方をされることもある。

判りやすく説明するなら、最寄駅まで徒歩一時間半。それはもう最寄りでもなんでもないのだが、それくらい田舎なのである。通学路は田んぼのあぜ道を通っていた。夜は街灯もなく真っ暗だし、もちろん人の話し声もしない。蛙やら鈴虫やらそのほか名前も知らない生き物の声が何重奏にも聞こえてくる。

春は近くの山でたけのこを掘ったり、夏は夕食のたびに庭のかぼすを収穫したり、とにかく絵に描いたような暮らしなのである。ちなみに収穫したてのかぼすをハイボールに絞ると爽やかでとてもおいしい。

そんな私のふるさとは、もちろん観光地としても優秀で、もっと真面目にアピールすれば人気が出るのでは……といつも悔しい思いをしている。そんな不器用なところもまた魅力のひとつではあるが。

 

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たとえば私のふるさとには青い海がある。瀬戸内海側に面しているからだろうか、とても穏やかな海だ。人でごった返している都会の海とちがって、たとえば平日の昼間なんかに行けば、ほとんどプライベートビーチ同然の場所がたくさんある。地元のおじさんがのんびり釣りをしているシルエットがなんとも癒される。

 

 

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ほかにも歩くだけで胸の高鳴る雰囲気抜群の石畳がある。狭い路地がそこらじゅうに隠れている坂道は、繰り返し散歩しても飽きない大人の迷路のようである。雨の日は和傘をさして歩くのもまたいいかもしれない。昔の煙草のCMのような、映画的な世界に浸ることができるだろう。

 

 

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ノスタルジーマニアにはたまらない、知る人ぞ知る水路がある。大分むぎ焼酎二階堂のCMでお馴染みの、円形分水と呼ばれるロマンあふれる施設である。しかも現役。観光地でもなんでもない場所の、田んぼの脇にぽつりとあるのがまた、たまらない。

 

 

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そして大分の夜は、なんと言っても飲み屋が充実している。東京のようによりどりみどり、めまぐるしい繁華街の明るい夜とまでは行かないが、安くて美味しい、洗練された店がたくさんある。気の良いお客さんも多く、小さな店に行くと近くの席のおじさんと仲良くなることもしばしば。それに酔っ払ってアーケードで眠っても、今のところ危険な目にあったことはない。

ほかにも数え切れないくらいの観光スポットや、名産品がある。どこへ行っても自然は綺麗だし、海の幸も山の幸もおいしいので、何も考えずにとにかく一度遊びにきていただきたい。

と、ここまで個人的な思い出を何一つ書くことなく、単なるふるさと紹介に終始してしまったが、東京に暮らし始めて数年が経つ私が、未だに帰りたいと願ってやまない事実が、何よりの裏づけである。それくらい、大分県は素敵な場所なのだ。好きな人の好きなところを訊かれたときに照れ臭くてうまく答えられない男のように、私はこの記事でふるさとに対する愛の一割も表現できなかった。けれど、もう、それで構わない。ただ、心はいつまでもふるさとに置いてきたまま、今もそこに恋している人間がいるということだけ、どうか忘れないでいて欲しい。そうしていつの日か、どこか南へ旅立つ折に、そんな人間のことを思い出して、大分県の空気を吸いに少しだけ足を伸ばしてくれる方が一人でも現れたなら、私の間違った愛の発露も少しは救われるだろう。

 

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森田童子が死んでしまった

毎年六月になると必ず思い出す曲がある。切っても切れないみずいろで、私の心をつなぎ留めている儚い歌声がある。どこへ行って何をしようと、街も季節も私自身もすべて変わってしまっても、かならず戻れる場所がある。弱くて優しくてふるえてばかりいたあの頃の、少年の私が待つ孤独なサナトリウムが。

2018年6月12日という一日は、おそらくここ数年間のあいだでもっとも目の前に「森田童子」という文字が流れてきた一日だっただろう。そうして彼女の声を耳にした人が、この日本じゅうでもっとも多い一日でもあっただろう。街ですれ違う人、駅のホームで佇む人、電車から窓の外をながめる人、そう、耳にイヤホンをしている人がみんな、もしかしたらあの儚い歌声に胸を痛めているんじゃないかなんて、本気で考えてしまった。そんなこと、一昨日までは夢にも思わなかったのに。

訃報を耳にしたのは6月11日の真夜中。枕元でiPhoneに目を落としているときだった。もちろんショックだったが、それも一瞬。なんだか嘘みたいで、それに、はなから彼女に逢ったこともないのだし、本当に存在しているのかどうかも定かでないくらい、ある意味架空の人に近かったから、なんと言おうか、実感が湧かないというのが本音だった。死んじゃったんだ、そうか……そう思って、そのまま眠ることができた。

朝起きてから、少しずつ実感が湧いてきた。やっぱり森田童子について考えずにはいられなかった。通勤中は何も音楽を聴かなかった。感情というよりは、頭で彼女の死について思いをめぐらせた。私の中にある彼女の情報と、ネットに流れてくる彼女の情報を照らし合わせながら、うなずいたり、微笑んだりしながら、もやもやと一日を過ごした。

意外だったのは、彼女の死について言及している人が多かったこと。Twitterの数少ないフォロワーの中でさえ、何人もの人がかなしみの呟きを投下していた。実はみんな、彼女のことを知っていたんだ。いや、知っている以上の、「好きだった」に近い目線で呟いている人ばかり。森田童子のことなんて、誰も、普段話していないのに、こんなに認識されていたなんて。私は奇妙なにぎやかさを覚えて、何か狐につままれたような気持ちになった。たとえるなら、夏祭りの日のような。神輿の音が近づいてくると、普段バラバラにしか顔を合わせない近所の子供たちが、こぞって玄関から顔を覗かせて、それからその日は特別に門限が取り払われて、月の下ではしゃいだり、立ち話をしたりして……。あるいは大晦日の食卓のような。みんなで同じ番組を観て、同じ鐘の音を聞き、蕎麦をすする。

でも、祭りはいつか終ってしまうし、年もそのうち明けてしまう。彼女の死によって沸き起こった小さな台風は、数日もすれば去ってしまって、あとにはこれまで以上の淋しさが残るだけ。そう考えると、私はここに何か書き記さずにはいられなかった。もともとこのブログを始めたとき、自分の好きなことだけを書こうと決めていた。その中で、特に森田童子の話題に関しては、来たるべき時に書こうと。それはなるべくこのブログが認知されてからの方がいいだろうし、私の森田童子に対する熱情と追究とが一定に達したあとの方がいいだろうと思っていた。いずれ時は来るだろうと構えていたら、あっさりと彼女は逝ってしまった。何の準備もできていないままに、私は命題に向き合うことになった。

仕事がろくに手につかないまま一日を終え、帰り道。ゆっくりと歩きながら彼女の歌声を聴いた。やっぱりあの頃のままだった。でも、それはこの世界のどこかにいる人の歌声から、もうどこにもいない人の歌声に変わってしまった。その事実に胸の中がぽっかりと寒くなった。夕餉はひとり彼女の弔いをしようと決め、ビールを買った。家に帰り着いて食卓につき、マッチを擦ってランプに灯りをともした。パックの刺身が並んだ華やかな食卓を前にして、箸がつけられなかった。今から乾杯しようとしているわけを考えると、涙があふれてきた。急にあふれてきて止まらなくなって、声をあげて泣き出してしまった。本当は平気なんかじゃなかった。やっぱりかなしかった。どうしようもなく。逢ったこともない人なのに、初めからいないはずの人なのに、それでもなぜだかかなしかった。ベッドに倒れこんで、シーツに顔をうずめてめちゃくちゃに泣いた。それから泣き疲れてぼんやり天井をながめていたら、あの頃のことを思い出した。いつもこんな風にして彼女の歌声を聴いていたなあと。

はっきり言ってしまうと、私は森田童子が好きだ。そのことを打ち明けるまでに、結局十年もかかってしまった。あれから十年も経ってしまったことにおそろしくなってしまうけれど、十年前も、九年前も、そうして去年の今ごろも、私はいつだって森田童子を聴いて過ごしてきた。好きなアーティストを訊かれても、カラオケに行っても、絶対にその名は口にしなかった。できなかった。なぜだろう。ただ好きなだけじゃないからだろうか。彼女は私の青春のすべてと言ってもいい。真っ暗な濁りの中をやみくもに走り続けていた長い日々の中で、私が縋ることのできた唯一の存在だった。彼女と出逢わなければ、私は今ここにいなかったかもしれないし、私は今の私になれなかったかもしれない。

彼女の歌声を聴いていると、楽だった。何も考えなくてすむからだ。学校で友達ができなくても、好きな娘に恋人ができて心にひびが入っても、急に人と話せなくなって外に出ることがおそろしくなっても、私にまとわりつく社会の亡霊は、ひとたび自室のベッドの上で、あおむけになって彼女の曲に耳を傾けていると、心地よく剥がれ落ちてゆくのだった。学校から帰ってくると、夏は窓を開けて夕風に吹かれながら、暮れてゆく空のもと、蝉の声と混ざり合う彼女の声に目をつぶった。冬は炬燵にすっぽりと潜りこんで、ひたすら汗をかきながら彼女の声を子守唄のようにして眠るのが日課だった。その瞬間が楽しいとか、これが自分の趣味だとか、そんな意識はひとつもなくて、ただ生活の一部として、ご飯を食べるみたいに、お風呂に入るみたいに、そうやって毎日三時間は彼女の曲を聴いて過ごした。

夜は彼女の声がなければ眠ることもできなかった。まるで夢の世界へ向かってゆく夜行列車の発車音みたいだった。今思えば完全に依存していたんだけれど。それから少し経って社会人になり、私はちょっとだけ世間と向き合うことを決めた。もう大人になってもいいかな、とあきらめた。色んな音楽を聴くようになったけれど、どんなに周囲の音があざやかに入れ替わっても、森田童子だけは必ず私の中に居続けた。少しでもブルーな日には、やっぱり戻ってきてしまうのだった。そのためか、あの大人になんてなれるはずもない不安定な少年は、薬に頼ることもなくなんとか青年になれたのだ。

これは誇りでもなんでもないけれど、私は少なくとも今の二十代の中で、もっとも森田童子の歌声を聴くことに時間を費やし、心を使い果たした自信がある。だってそれしかなかったんだから。学生時代何をしていましたか、そう訊かれたときに、毎日炬燵に潜って森田童子を聴いていました、なんて、おまけに過去を振りかえりながら、じゅくじゅくの傷口をさわってばかりいました、なんて、誰が言えようか。かといって、単に「好きな歌手」に留まるほど、私は大人として平気に彼女の名前を口にすることはできなかった。それに、別に共感してもらうつもりもなかった。ただ、彼女の曲を聴くことは、私がすべての青春を投げ出して打ちこんだ大事業だったというだけだ。

上京して私は玉川上水沿いのアパートに住んだ。「まぶしい夏」という曲を聴きながらよく散歩をした。甘ったるい懐かしさに胸をきゅっとつままれるようだった。懐かしいという気持ちはすべて故郷に置いてきたはずなのに、不思議と彼女の曲は東京の街が似合う。辛い仕事の帰り道には「ラスト・ワルツ」を聴いていたし、エアコンのない真夏の部屋で真っ白なシャツを着て「逆光線」に心ごと凭れるのが私を落ち着かせた。彼女はだめになることを肯定してくれた。そこにある現実という景色がたとえ不幸だったとしても、目をそらさずに向き合いながら、それでいて戦いもせず受け入れる。だめだったらそれまでだと、流されるように。

実はちょうど一年ほど前、新宿のネイキッドロフトで「森田童子ナイト」というイベントがあった。森田童子を想う人々がつどい、飲んだり食べたりしながら、彼女の思い出について語り合う会である。もちろんそこに彼女本人はいない。夜の東京に出かけることにいつまでも慣れない私だったが、迷ったあげく、仕事終わりにひとり中央線に揺られたのを覚えている。狭い建物に、小さな立て看板がひとつ。注意しなければ見落としてしまいそうな場所だったが、ひとたび近づくと、開け放ったドアの向こうから彼女の歌声が一気に漏れ出してきた。ほっとしたと同時に、果たしてこんなに堂々と彼女の曲をおおっぴらに聴くことが許されるものなのか、と悩ましくもあった。暗い部屋の中はすでにたくさんの人影。もちろん自分よりずっと年上の人が多かったけれど、中には同年代の若い娘の姿もある。私は「雨のクロール」という特製カクテルを頼んだ。部屋じゅうに響く彼女の歌声は、集団でいながらも心地よい孤独を与えてくれて、まるで小学生のころ体育館で薄着になって、一斉に結核の予防注射を打ったときのことを思い出した。

何気ない顔で生活しながら、この都会の中には、同じように森田童子を聴いて暮らしている人がいたんだ。それもこんなにたくさん。私はイベントの内容よりも、そんな不思議な空間に身を置いていることに終始はらはらしっぱなし。イベントが終ったあとに、「やっぱり森田童子はひとりで聴くものだ」と再確認したにせよ、あのつどいに参加できたことは、今となっては貴い経験である。

さて、ここまでこうして文章を書きながら、未だ私はこの記事の締めくくり方が判らない。きっと判りたくないのかもしれない。私が森田童子について書くときは、すでに何かあったときに違いないんだから。それだけは判っていたから。家族や友達のような近い存在であればあるほど、手紙なんて書かないもの。それこそ、結婚式か、告別式か。だからこれは私からの彼女に対する追悼文なのかもしれない。そんなつもりで書き出したわけではないけれど、でも、ニュースを見た故郷の母から急に連絡がきて、「あなたがショックを受けるだろうから言うべきかどうか迷ったけど」なんて言われたら、やっぱりそんな私が彼女の死をだまって見送ることなんてできるはずもない。

もっと色々書こうと思ったことはある。けれど別に書かなくてもいいことだ。そんなことばっかり。あの頃、好きな娘からの着信音を「G線上にひとり」に設定していたこと、高橋和巳を読み漁ったこと、セルロイドの筆箱を今でも使っていること、菜の花がいちばん好きな花になったこと。どれも気まぐれだけれど。だって私は別に彼女のファンなんかじゃないから。彼女のことを深く知りたいわけでもないし、彼女の真似をしたいわけでもない。ただひたすら彼女の作品に溺れて、救われただけの人間だ。姉のように、母のように、恋人のように、彼女に縋りつづけていた私の旅は、しかし決してひとりでは続かなかった。だから、ぼくの一生ぶんの敬愛の気持ちを、彼女に捧げたい。

最後に、彼女の死を受けて、ひとつだけ誓ったことがある。「生きていればいつか会える人」には、今すぐにでも会っておいた方がいいということだ。それは憧れのアーティストだったり、はるか昔の友人だったり、忘れられない恋人だったりするのかもしれないが、いつか会ってみたいとか、もう一度会いたいとか、そんな風に思いながら、会うことを先延ばしにして、会えないことを世間のせいにして、それで季節に流されてしまったら、きっともう、二度と会えないんだと思う。今、会えない人は、たぶん、死ぬまで会えないんだと思う。会いたいなら、今すぐに、会おうと努力するべきだ。もしそれでだめなんだったら、本当に会えないんだよ。それだけの話。勇気を、十年後の自分に押しつけてはいけない。どうせ目をそらすんだったら、きっと十年後だって、おんなじだ。

確かにこの時代を生きていたはずなのに、まるで遠い時代の出来事みたいに、彼女はこの世界から失われてしまった。出す宛てのない別れの手紙を書き崩して、インターネットの海に放り投げたそのあとで、私はこれからどのように生きていくというのだろう。

今はまだ、判らない。