読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

或るロリータ

A Certain Lolita

「キツイけど定時に終わる仕事」を選ぶことは果たして正しいのか

懊悩

仕事と趣味、この二つは人生にとって非常に重要なものである。趣味なんて、所詮付加価値でしかないという人もいるかもしれない。確かに、最低限の給料、最低限の衣食住を得ることと比べて、趣味というものは明確な基準の存在しないものである。まったくなくても生きていけるものではあるし、突き詰めれば終わりがない。だからと言って趣味を仕事の二の次としてしまってもよいのだろうか。いいや、ここは趣味に限る必要はない。その必要はないのだけれど、少なくとも生きるために最低限困らない仕事をどうにかやってのけるだけの毎日を送っているとするならば、それはもう生きているのではなくて、ただ死んでいないだけだと言える。

趣味さえあれば、人はそれなりの幸福を感じながら生きてゆくことができる。私生活を脅かさない穏やかな仕事をして、業務時間外は完全に趣味に費やしてしまうという生き方だ。これは人生の大半を占める仕事の時間を完全に捨ててしまっているとも言える。人生の半分を生け贄にして、残りの半分で精一杯もがくのだ。そうすることで限りなく仕事と趣味とのバランスを均衡に保とうとする。ごく一握りの人に限っては、趣味の重量が仕事のそれを上回ることがあるかもしれないが、その他すべての人々にとっては、労働の苦しみからギリギリに逃げ出さないで済むくらいに、精神を保っていられる僅かな精神安定剤として趣味の時間を投与するのが精一杯であろう。

それ以上に幸せな生き方があるとすれば、それは好きなことを仕事にしてしまうことだ。あるいは、始めには好きな仕事でなかったとしても、従事するうち計り知れないやりがいを感じ始めて、労働こそに美と愉しみとを見出してしまうことだろうか。しかしそう物事はうまく運ばない。ケーキ屋さんになりたい女の子がみんなケーキ屋さんになっていたら、街はスイーツの甘い香りで息がつまってしまう。私たちのほとんどは一刻も早く時計が八周してしまえばいいと、一日も早く給料日が訪れて欲しいと、そんなことを願いながら仕事をしているのだ。けれどそうでなければ世の中は成り立たない。積もり積もった苦しみの上に成り立った世界なんて、あっていいはずがないけれど、世界中に蔓延する不条理よりも、明日の晩酌に困る方が問題だ。少なくとも私はそうであった。

私は現在の職場を含め、これまでに三種類の仕事を経験した。それらはみな職種も勤務条件もちがえば、勤務地さえもただ一つとして同じものはない。それぞれ、定時に終わるが一切のやりがいは感じられず給料の安い仕事、激務だが給料はそれなりで定時に終わることなどまずない仕事、そうして給料は安く残業もそこそこだがやりがいのある仕事である。現在の仕事は三つ目にあたる。この中で私がもっとも苦しかったのは、二つ目の仕事である。地元にいた頃、仕事は定時で終わるのが当たり前だった。ときどきサボるのも当たり前だった。家に帰ってまだ陽のあるうちに晩酌をするのは当たり前だった。虚しさはあったけれど、きっとあのまま我慢を続けて生きてゆくのも不可能ではなかっただろう。決定的に足りなかったものといえばお金だけだった。

お金がなくても叶う趣味などこの世には幾らでもある。だが私は時間の対価にたったあれだけの給料を受け取り、若さを刻一刻とすり減らしてゆくのが我慢ならなかった。何も考えずに勤まる肉体労働をして、仕事の時間では身体を鍛え、就業後には思う存分趣味を謳歌し、おまけに金銭にもゆとりのできるはずの職業に就きたいと思い、地元を離れた。

結果は大失敗だった。失敗した原因は二つある。一つはその会社についてよく調べ上げていなかったこと。業務内容や社風などをよく把握していなかったのだ。何も知らずただ肉体労働が自分などに勤まると思い上がっていた。そしてもう一つは、仮に定時に終わる仕事があったとしても、決して仕事の後の時間は自分の思い通りになるとは限らないと想像していなかったことだ。それどころか、休日さえも食い潰してしまうおそれがある。私もその肉体労働を始めた頃には、定時で終わることもあった。しかし身体を引きずりながら帰りの電車に乗り込むのがやっと、とても家に帰ってあれこれしようなどという気にはなれなかった。あまりに過酷な仕事は、区切られた時間の外でも、そこで失った体力や精神力を少しでも回復させるために、ひたすら休養を必要とするのだ。

仕事は仕事で割り切って、自分は趣味に生きる。

そう考えている人にこそ、ちゃんと考えて欲しい。ただ条件だけに飛びついてしまって、果たして良いのだろうか。仮にもその道で食っていくプロになる訳である。誰にでも簡単に勤まる仕事などないと思った方がいい。人には向き不向きがあるのだ。好きなことを仕事にするのは難しくても、せめて少しでも自分に向いている仕事を見つけたいものだ。どんな職種であっても、実際にそこで自分が働いている姿を、まずは限りなく具体的に想像すべきだろう。

机を買うお金がないから自分で作った

吝嗇 愛翫

就職して早半年が過ぎた。毎月僅かながらの給料をもらい、寝床と質素な食事くらいは確保できるようになった。しかし貧乏暮らしからは未だ脱出の兆しはなく、忘れたころに届く健康保険と国民年金の支払い通知に震え上がって目をつぶりたくなるのは相変わらずである。一本の缶ビールを買うのにさえ躊躇う暮らしの中、大きな買い物など当分できそうもない。生活家電に関しては、上京したての輝かしい時期にあらかた揃えてしまっていたから、なんとか最低限の人間的な生活をするのには事欠かなかったけれど、それ以上に日々を文化的たらしめようとすることは、今の私には遠い夢のような話である。大好きなお酒さえ飲量を大幅に減らし、そのうえ名も知らぬ不穏な銘柄の安ウイスキーを冷やして飲むのがたまの贅沢、酒場など長らく足を運んでいない。そんな私の生活にもっとも足りないものは机であった。物を書いたりパソコンに向かったりするとき、机の存在は欠かせない。上京してからというもの、私はずっと小さな食卓用のちゃぶ台にパソコンを置き、床に座って画面に向かっていた。そうしているといつも途中で腰が痛くなるのだ。それに食事のたびに小さなちゃぶ台の上からパソコンを辺りの床に降ろさなければならなかった。そこに文化の香りなど何一つない。腰痛とともに惨めな思いも募ってくるのは当然のことである。

机が欲しい。就職してずっと思っていたことだった。しかし机の相場を考えれば、今の私には決して簡単に捻出できる金額ではない。かといってこのまま肉体と精神を削りつづけて暮らして行くのも建設的とは言えない。だとすれば自ずと導き出される答えはひとつであった。机など、作ってしまえばよいのではないか。

私は早速木材を買い揃えた。初期投資が存在するのは仕方のないことだ。しかし完成品を買うと思えば安いもの。アパート住まいの身もあって、世間で流行りのディアウォールと呼ばれるものに手を出してみることにした。机を作るついでに、棚も新設するのである。床と天井に突っ張り棒の方式で柱を立てて、そこに棚をそなえつけてゆくというものだ。限られた間取りの中で、本来白壁だったはずの場所を収納として使えるというのは、大いに意義のあることだった。

そうして机は完成した。製作の過程については割愛する。なぜなら私は有用な文章を書くことがもっとも苦手だからである。それより日々の徒然の中で、沸き起こった感情をあれこれこねくり回して囀るのが心地よい。何はともあれ机は完成したのである。好きな本や小物を並べたり、お気に入りの絵を飾ったりしてゆくと、そこがどんどん自分の居場所に変わってゆく実感を得た。城、とまで呼べる代物ではないが、少なくともこの一帯だけは私にとって行きつけのBARの席のように安堵と高揚をもたらす場所となった。これでこのブログを更新するのももう少し捗りそうである。ちなみにこの文章はiPhoneで書いた。

f:id:steam:20160917231302j:image

私は懐かしくなりたくて映画を観る

懐古

ときどきそんな気がするのだ。私にとって物語の筋道などどうでもよくて、ヒロインが有名女優かどうかなんて関係がなくて、監督の裏設定などはなから興味がないのだ。私は映画を観るときいつだって、その風景や音楽、ヒロインの細やかな動作や声に気を取られている。いわゆる映像美を堪能するためだけに映画を利用していると言ってもいい。そうして私が映画を観るにあたって、自分の中のどの感情をいちばんにけしかけたいかといえば、それは興奮でも恐怖でも官能でもなく、懐かしさというものだ。私は映画を観てとにかく懐かしくなりたい。それでいて面白かったならそれに越したことはないけれど、たとえストーリーが面白くなくても懐かしくなれれば及第点である。

まだふるさとに住んでいたころ、私は土曜日の午後になるとよく映画を観た。金曜ロードショーなんかで放送されていたのを録画したやつや、ツタヤに行って借りてきたやつなど、とにかく家で観ることが多かった。夏であれば私は蝉の声を遮るように窓もカーテンもしめきって、キンキンにエアコンを効かせた部屋の中で、昼間から酒を飲みながら映画を観る。それはキンキンに冷やしたビールだったり、純米吟醸だったり、ハイボールだったりした。ベーコンとチーズをトースターで焼いて、それをアテにワインを飲むこともあった。とにかく私はあの座り心地の悪いソファーに凭れて、自分だけのために存在する空間の中で、ひたすら映像美に眼をかたむけていたのだ。

懐かしくなればなるほど酒が進んだ。沈んでしまうのがわかっているのに、それでも自ら淋しさへと身を投じるのは、まるでいたずらにささくれを剥いて血を流してしまう我慢の効かない子供のようだった。だけど、私にとって映画とは、懐かしくなるための唯一の手段であり、あの頃へもどるためのタイムマシンだったのだ。

今週のお題「映画の夏」

ポケモンに支配された街の中で

文藝

街がいっぺんに明るくなった。明るくなりすぎてしまった。憂鬱なものはみんな騒々しくなり、病もみんな健康になり、あらゆるビルとビルの隙間にまで光が当たるようになった。街に陰などどこにもなくなった。昼が永遠に終わらなくなった。

こんなに天気のよい真昼には外に出てみようかと、陽射しの中へ飛び出してみれば、そこらじゅうにうつむいて歩く人々。緑色の画面を切羽詰まった顔で見つめながら歩いている。夫婦もカップルも赤ちゃん抱えたギャルメイクの母親も、スーツ姿のサラリーマンも休憩中の警備員も、みんなおんなじだ。この街は電脳世界になってしまった。これまで日陰に隠れていた人々もみんな公然へと躍り出て、そうして感情を持たない機械仕掛けのようにそこらじゅうを歩いている。私はゾンビに襲われた街の中を、ひとり駆け抜けるような気分だった。

ポケモンGO』というものの存在を知らなかったわけではない。けれどそんなものは一部のゲーム好きな若者たちがまっさきに飛びつくだけのことだろうと思っていたのだ。何もテレビで大きな地震が起きたあとのように連日そのことを報道しているわけでもないし、選挙通知のように全家庭に手紙が届くわけでもない。だからなおさら一部で盛り上がって終わってゆくひとつのコンテンツに過ぎないと思っていたのだ。

だけどその朝、私は外に出た途端、世界がまるで昨日までとちがっていることに気がついた。そこにいるすべての人々が、街そのものが、ポケモンのためだけに存在しているような気がしてしまうのだ。彼らは何事もないふりをして私に微笑みかけながら、けれどそれは円滑にポケモンを捕獲するためのつくり笑い。本当はもうそこには感情などなくて、ただポケモンだけが彼らにとって最優先の事項なのだ。私のことを知っている人間など、この街にはひとりもいなくなった。

私は友人の家へ駆け込んだ。「大変だ……、」そう言いかけて、彼のスマホの画面の中でポケモンがうようよ動いているのが目に入った。彼は「どうしたの?」と心配するふりをしながら私の方を向いたが、その目の中にきっと私は映っていない。彼はもう私のことなど忘れてしまったのだ。

私はひとりさまよい歩いた。おなじようにさまよい歩く人たちがたくさんいる。片手にスマホを持ってさえいれば、彼らも私を仲間だと思い込むだろう。そうすることで私も「世間」の一部になったふりをすることができるのだ。もう、この街で本当に感情を残しているのは私ひとりかもしれない。感情を残して生きるということは、時代に取り残されてしまうということだ。すべての人類を乗せて出航しようとする船を、ひとり港に立って見送るということだ。もう、ここで生きる道などないのかもしれない。けれど私は、変わってしまうことが怖かった。

家に帰って、私は原稿用紙に向かった。何か書こうと思ったが書けなかった。友人や妹から「ポケモンGOやってる?」そんなラインが次々届く。私はスマホを放り投げて眠った。

目が醒めると真夜中だった。無性にのどが渇いて、コンビニへビールを買いに出た。すると、こんな真夜中なのにうろついている人が何人もいる。たった数百メートル、コンビニへ行くあいだにも、やつらは私の世界を侵してくるのだ。コンビニへ着くと、店員はいなかった。奥の休憩室を覗いてみると、緑の画面をじっと見つめて微笑む青いストライプの少女が見える。私はカウンターに百五十円を置いて店を出た。店先の国道では、頭から血を流して倒れる男性と、フロントガラスの割れた車が見える。倒れた男性はアスファルトに寝そべりながら血だらけの指でポケモンを捕まえている。運転手と思わしき男性も車に凭れてポケモンを捕まえている。気づけば交差点のあちこちでおなじような状況が起きている。信号はあやしく点滅を繰り返している。コンビニの裏では若い女性が裸にされて男にひどい暴力を受けている。けれど痛みよりポケモンに夢中である。いつしか夜空は真っ赤に燃えていた。朝焼けが来たのかと思った。けれどそれは街じゅうで起きた火事のせいらしかった。誰もそのことに気づいているひとはいない。私もビールを飲み干して、何も気づかなかったふりをして家へ帰った。そうして原稿用紙をぐしゃぐしゃに丸めて鉛筆を折り、枕元に落ちているスマホを拾って、そっとポケモンGOのダウンロードを開始した。


Netflix火花お題「夢と挫折」

Sponsored by Netflix

人に何かを伝えるということの難しさ

懊悩

人は、自分のためだけに発せられた言葉の真理にはなかなか気づかないものである。学問にしろ恋愛にしろ、自分のためだけに用意された言葉、作られた言葉は、案外心に響かない。人は、日常の中からしか学ぶことのできない生き物なのだ。

だから本当に伝えたいことを相手に伝えるということはとても難しい。

たとえば政治に熱心な若者がいたとして、周りの友達や恋人とも国の将来への不安を語り合い、希望を導き出すための議論をしたいとする。けれど、仲間たちは政治になど無関心。そんなとき、どんなにその若者がひとりで熱く語り始めたとしても、その行為は場を白けさせる効果しか生まないだろう。考えてみればその若者だって、始め政治に興味を持ったとき、きっと誰かに強制されたわけではないだろう。偶然演説を聞いたのかもしれないし、政治家の著書を目にしたのかもしれないし、ネットで特集が組まれていたのかもしれない。きっかけは何であれ、「この人について知ろう」と身構えた状態ではなく、極めてフラットに、日常の中で、心を許している状態の中で入ってきた情報だからこそ、胸を打たれるものがあったのではないか。だとすれば、飲み会の席などで情熱を持って仲間たちの思想を正そうとするのは、見当違いな手段なのである。本当に行うべきは、日常の中で、自然と彼らが道を踏み外すきっかけを用意することなのである。

たとえば一緒にテレビを見ているとき、ザッピングのふりをしてちょうど政治番組を流してみたり、積ん読の一番上におすすめの書籍を目につくように置いておいたり、だけど決して自分から相手におすすめをしてはいけない。その人の人生の中で、きわめて偶然に、運命のように手に取ったものから衝撃を受けるということが大切なのである。

もちろん誰かに薦められてそのままのめりこんでしまう人も中にはいるだろう。だがそういう人は遅かれ早かれ何かしらの洗脳を受けて受動的に自分を構成してゆくものである。眼を向けるべきはそのほかの大多数の存在だ。あなたが今一番好きなアーティストに、最初にはまったきっかけはなんだったか、考えてみるといい。友達に「このアルバムめっちゃいいから聴いてみて」と渡されたことだろうか。そうかもしれない。けれど、私はちがう。私はこれまで、好きになったもののほとんどは、自分から見つけたものばかりだ。たとえば最近好きになってライブに行ったインディーズのバンドがあるんだけど、それはツイッターで誰かがつぶやいていたものを偶然見つけてそこから音源にたどり着いてはまったという流れ。これは一見他人に影響されているように思えるのだが、そうではない。決してその人は、私におすすめをするためにつぶやいていたからではないからだ。誰かを経由したとしても、間接的に、そして自らその情報にたどり着くということがここでは重要なのである。

私は普段歌謡曲ばかり聴いて、古い小説ばかり読んで、「趣味は音楽です」とも「趣味は読書です」とも名乗れないほど共感を得られる相手のいない悦びを持っている。だからときどき誰かと肩組むのが恋しくなって、カラオケで私が歌った曲に対して「うわー、俺その曲めっちゃ好きだわー」みたいな声があがる日が死ぬまでにくればいいなと思っているんだけど、かといってアルバムを渡したところで聴いてくれるような純真な友達は一人もいないし、カーステレオでさりげなく流していてもみんなおしゃべりに夢中で気づかなかったりで、一体人に何かを伝えることはどうしてこんなに難しいんだろうと思った。毎日毎日その人の家に行って見えるところにCDを置いて帰ろうかなとか考えても、そこまでするともはや偶然の出逢いを装うことはできないし、なんだかぐしゃぐしゃにして捨てられるのがわかっていながら駅前でチラシを配る人の気分だ。

思想に関しても同じことで、友人が「俺はこういうの絶対許せないわ」という趣旨の発言をしたとき、私が仮にそのことについて無頓着だったとしても、「別にいいんじゃね」という発言は控えるようにしている。なぜなら私にとってどうでもよくても、許せないと思っている人間にとっては、それが許せないと思えない人間の考えが理解できないからである。たとえそこで議論をぶつけて、どちらかがどちらかを言い負かしたところで、さて世間に何か変化があるだろうか。何の一石も投じることはできていない。だとすれば私はこの狭い席でお互いの勝敗を気にかけて討論番組の真似事をすることよりも、世間の憂さには目もくれず猥談にでも花を咲かせて少しでもうまい酒を飲むことの方が、それぞれの人生にとって平和的なのではないかと思うのである。そうして個々が平和を抱えていけば、その集合体としての世間も、結果的に平和になるのではないか。この世から戦争なんてなくなるのではないか。と思ったけどそんなことはないか。

鎌倉の紫陽花を見に行ったら夏が始まった

旅情 私情

仕事を始めてからなにかと忙しいこと続きで、ろくに休めもしない休日が続いているところである。無尽蔵に湧いてくるやりたいことリストに、どうにか優先順位をつけつつ、ふと、念願の鎌倉へ今年も行けていないことに気づいた。毎年毎年、鎌倉の紫陽花に憧れつつ、上京してようやくその夢が叶えられる状況になったというのに、すっかり後回しのまま、六月が終わろうとしていた。

今週を逃したらきっともう行くチャンスはないと思い、無理矢理に予定を空けて私は鎌倉へと乗り込んだ。あいにくの曇天で、青空も見られなかったし、おまけに海は荒れ放題。だけどなんとか紫陽花を見るという目的は達成した。乗ってみたかった江ノ電にも乗れたし、訪れた場所が思いの外田舎で、故郷を少し思い出したりした。

正直、今年が始まってまだ半年しか経っていないという事実に驚きを隠せない。失業、引っ越し、転職とつづき、走り続けた半年間であった。この半年でいくつも歳をとったような気さえする。これまでの人生は、何も考えずにただ過ぎていった時間の早さに恐怖し、焦燥するばかりだったが、今、ようやく歳月と肩を並べて走っていると思えるのだ。けれど、こんなに早いスピードで走りつづけなければ、時の流れには追いつけないのかと思うと、いったい世の中のどれくらいのひとが、時代においてけぼりにされずに済んでいるのか疑問になる。私だって、そのうちまた、走り疲れて、立ち止まってしまうかもしれないし。

もうずっと、一週間があっという間に終わってしまうという体験をしている。そして、一度身体を横たえたら、二度と起き上がれなくなりそうで怖い。私は知らず知らずのうちに、これまで掬い損ねてきた青春の影を、必死で取り戻そうともがいているのだろうか。ゴールなんて存在するのかもわからない。けれど振り返ってこの半年を、私は後悔することなく生きることができた。だから走り続けることは決して間違っていないのだろう。

毎年、毎年、終わるたびに後悔してきた大好きな夏という季節に、これから立ち向かうのだ。今年こそ。

f:id:steam:20160625182659j:plain

今週のお題「2016上半期」

自分が今、幸せなのかが分からない

労働

五月がもうすぐ終わる。夏がくるのだ。私は夏が好きだ。このまま走り続けていたら、夏なんてあっという間に訪れて、そうしてあっという間に過ぎてゆくだろう。そう思うと、一体どういう準備をして夏を迎えればよいのか分からなくなってしまった。

新しい仕事は楽しい。やりがいもある。賃金は安いけれど、これまでの私の人生で邪魔でしかなかった労働というものが、今や生きる活力にさえなりつつある。しかしふと、ひとりの夜になると、なんだか労働にすべてを注ぐことに疑いを持ち始めてしまう自分がいる。

大前提として労働は生きるために、生活するために行うものであろう。その労働が、自分を成長させるものであり、自分を楽しませる新鮮なものであったなら、より素晴らしいことには違いない。けれども労働が一日のすべてを背負ってしまったら、それは果たして正しいと言えるのだろうか。

ひょっとしてこの激しく鮮烈な毎日が永遠に終わらないのではないかという気がしておそろしくなる。気づけばお気に入りの革靴もぼろぼろだ。眠い目をこすりながら仕事をし、棒のような足を引きずって家に帰り、作り置きのカレーを掻き込んで、こんな風にしてときどきブログを書き、風呂に入り、布団に倒れ込む。なかなか寝付けない。耳元を掠めて飛ぶ小蝿のせいだろうか。寝付けないことに焦り、苛立ち、それでもどうにか眠りに就く。夢を見る。いつもよくない夢だ。悪魔も幽霊も登場しない、人間だけの悪夢を見るのだ。だから私は眠りが浅い。深夜、何度も目を醒ましては、また眠り、どうにか朝を迎える。結局また眠いまま、仕事に出かける。そんな毎日。

酒をやめた。外食もやめた。何もかもやめてしまおうと思っている。健康になりたい。清々しく生きてみたい。夜を愛して生きるのは、少しのあいだ休憩だ。そうしたら報われるだろうか。真昼の東京で胸を張って生きられる人間になれるだろうか。なんて、嘘だ。ほんとうはそんな人間になりたいわけじゃない。ただこうして、身体じゅうに鉛をまとわりつけたまま生きるのは、心まで寒くさせるから、夏がくるまえに衣替えをするだけなのだ。

 

 今週のお題「わたしの一足」

川の底からこんにちは [DVD]

川の底からこんにちは [DVD]