或るロリータ

A Certain Lolita

文章の距離適性

かつてTwitterが登場したとき、1ツイートにつき140文字という制限が、人々を発信へ駆り立てた。私もその例に漏れなかった。

ブログには書こうと思えばどんなに長い文章だって載せられるけれど、何文字でも書いていいと言われて、実際に何文字でも書ける人はいない。それどころか、かえって筆が動かなくなってしまうこともある。140文字はちょうどよく超えやすいハードルを提示してくれて、やさしく一歩目を導いてくれるのだ。本棚を隙間なく埋めたくなる性分の私は、Twitterの投稿画面を開くと、いつだって140文字ぴったりに文章を収めることに心地よさを感じていた。

この140文字が、人によっては短歌の31音だったり、原稿用紙の400字だったりするのだろう。

人にはそれぞれ得意な文章量がある。それは陸上選手や競走馬でいうところの「距離適性」のようなものだ。1600mの距離がもっとも得意な馬は、1200mや2000mでもそれなりに走れるかもしれないが、やはりもっとも才能を発揮できるのは1600mだろう。

文章においても同様で、SNSのちょっとした呟きにセンスを発揮している人が、いざまとまった文章を書くと切れ味が鈍ってしまうケースも見かけるし、逆に長い文章を書くことを生業にしている作家やライターがみな、胸を打つ一文を生み出せるとは限らない。

 

私は学校の作文を教師に褒められたことをきっかけに、文章を書くことが好きになった。400字詰め原稿用紙で、せいぜい数枚程度の文章量の中でなら、思う存分に暴れることができたのだ。

しかし、文章を書く類いの課題を与えられる機会はそう多くないため、持て余した表現欲求の矛先は、文学賞やエッセイのコンテストなどに向かうようになる。特に書きたいジャンルにこだわりはなく、とにかく文章を書くことそのものが好きだったので、面白そうな募集を見つけると、それに合わせた文章に取りかかる、という具合だった。

当時、一番苦労したのは長い文章を書き上げることだった。

主要な文学新人賞は、原稿用紙100枚以上からと規定されているものが多く、とてもじゃないが私にはそんな量の文章を書ききれる気がしなかった。もう少し短いところを探しても、せいぜい50枚以上、これは無理をすれば書けない長さではなかったが、文字を埋めることに必死になって、いつもの調子で文章を書くことなどできなかった。

結局、30枚程度で応募できる賞に的を絞り、フラフラになりながらゴールテープを切るような格好で、数年間、小説を書きつづけていた。

今思えば、私には長編や中編と呼ばれる長さの小説を書き上げるだけの構成力がなかったのだろう。取材を重ねて情報を掘り下げたり、伏線を張り巡らせたりするような、緻密な計算の上に成り立っている文章は、単に感情を乗せて走り抜ける文章表現とは、また別の能力が必要となる。そもそも当時の私は長編小説をあまり好まず、短編や詩にばかり傾倒していたのだ。読めないものを書けるはずがない。

一方で、短ければ短いほど書きやすいかといえば、そういうわけでもない。俳句や短歌、ショートショートや、企業の募集するコピーライティングなど、短い文章にも挑戦はしてみたが、今度はユニークな発想力や並外れた表現力が求められ、誤魔化しがきかないのだ。達人同士の剣術のように一瞬で勝負の決まる世界に踏み込むのは、大した人生経験もない10代の私には恐ろしいことだった。

 

文章は、不足せず、冗長にもならないバランスでまとめるのが一番むずかしい。

私の場合、ちょっとした思いつきを140文字に収めようとすると、大抵はみ出した分を削って整えることに苦労するし、逆にブログやnoteのような、特に制限のない場所に載せるための文章を書き始めると、およそ2000字くらいで疲れてくる。ただ、この二つの作業には、自分でもなんとかできる範囲、という感覚がある。それ以上やそれ以下になると、途端に手に負えなくなってしまうのだ。

つまり私の文章の距離適性は、140字~2000字ということになる。

 

以前、noteで2000字以内の小説を募る企画に参加したことがある。恋人と別れた男が、毎週土曜日の午後に海でお酒を飲む話を書いた。

note.com

2000字というゴールは、遠すぎず、モチベーションを保つのにちょうどよかった。かといって、短すぎもしないので、程よく畳みやすいくらいの風呂敷を広げることはできる。

この小説を短歌の31音で表すなら、たとえば次のようなものだろうか。

もう二度と会えないけれど「またいつか」ジンのボトルを海へ流して

やはり、2000字で書いた元の小説と比較すると、そこまでしっくり来ない。

いずれにしても、まずは自分の適性を把握すれば、それに合わせた表現の場を選ぶことができるし、仮に苦手な長さの文章に立ち向かうときにも、理由のわからない恐怖に怯えなくて済むはずだ。

と、ここまでつらつら書いていたら、2000字を超えて息切れしてきたので、これで終わりにする。

好きな街での日々の中でも、遠い故郷の夢を見る

夕方、自転車に乗って買い物に出かけるとき、赤や紫に染まってゆく空を眺めて、胸の奥がざわざわするのを確かめると、私はいつも嬉しくなる。生活の中に埋もれていった青春の火が、深い灰の底に、まだ幽かに残っていることを思い出させてくれるからだ。

学生服を着ていたあの頃、自転車通学だった私は、秋から冬の帰り道に、よく河原や田んぼの傍に愛車を停めて、空に抱かれていたものだ。背伸びして読み始めた古い小説と、自販機で買ったブラックコーヒーを手に、人の目につかない神社や橋の袂に座りこんで、黄昏と戯れる毎日。寄るあてもないのに、少しでも遠回りして帰りたい気持ちだった。

愛していた故郷を捨てたのは、長いトンネルのような毎日を抜け出したかったから。東京に賭けていたとも言えるし、東京に逃げたとも言えるかもしれない。夢を捨てきれずに東京に出てきたはずなのに、いつしか故郷へ帰る日を遠く夢見ている自分がいる。人はいつまでもないものねだりのまま、満たされずに生きてゆくのだろう。

東京での暮らしも長くなった。静かで緑の多いこの街は私にぴったりだ。少し不便で、人や物が溢れすぎていないところがいい。近所の学校から聞こえてくる部活動の掛け声も、いつもドアを開けてスパイスの匂いを漂わせているカレー屋も、行きつけのこじんまりとしたスーパーも、散歩するのにうってつけの広い公園も、歳月とともに私の生活に馴染んでしまった。

誰とも会わずに、誰とも話さずに、同じような毎日を送っていると、心の針が大きく振れることがあまりなくなった。暦のページだけがめくられて、年齢だけが重ねられて、ゆるやかに、この街に沈んでゆく。根を張った植物を植え替えるのが大変なように、私も足元に絡まった根っこを引きちぎって故郷へ帰ることなどできそうにない。だから不純だと知っていながらも、大好きな街の中で、故郷に焦がれつづけてしまうのだ。

いつかこの街を離れてどこかへ移るのか、あるいは故郷へ帰るのか、それともずっとここに暮らしつづけるのか、今はまだわからない。今を生きることの意味なんて、考えるだけ疲れてしまう。正義や誠実など、掲げるつもりもないし、かといって悪になる必要もない。誰かを傷つけず、誰かに傷つけられないように、それなりに、生きてゆくだけだ。

東京に染まれなかった

東京は良い街だ。いや、正確にいえばとても便利で、平等で、たくさんの可能性がある街、だろうか。職も、娯楽も、人との出会いも、私の生まれた田舎町なんて、質も量も比べる対象にすらならない。それくらい、東京になくて田舎にあるものなど、ほとんどないといってもいい。

東京に来て数年間は、出かけるたびに色んな街を歩いた。どんな名も知らぬ駅でも、商店街には田舎にはない活気があったし、一駅移動するだけでがらりと表情が変わるのも、東京の面白いところだった。そして何より、東京の夜は明るかった。狭くても、古くても、賑わっている店ばかりだったし、行けども行けどもそこには人がいて、目に見えない無数の人と人の繋がりが張り巡らされていた。

東京に来てから出会った人と酒を飲むのもそれなりに楽しかったし、知らない話もたくさん聞けた。仕事のためにジャケットを羽織って地下鉄に乗ったとき、窓ガラスに映る自分の姿は、意外にも、都会に馴染んで、それなりにうまくやっているように見えた。

けれど、それだけだった。確かにそこそこの幸せを手に入れて、うまくやっていくためには、東京は最適なのかもしれない。田舎に比べると選べる仕事の種類も、もらえる給料も多いし、行ける場所や楽しめる娯楽の選択肢も数えきれない。でも、そこにみずみずしい喜びはなくて、手に入るのは、綺麗に加工された缶詰のような幸福だけ。東京には、「誰のものにもなっていない場所」がないのだ。

 

田舎に住んでいた頃、私が特に愛した場所の数々は、そのどれもが名前のない場所だった。たとえば近所にあった蛍の舞う神社の石段も、菜の花の咲き乱れる土手沿いの通学路も、学校帰りに読書をしていた沢のほとりも、どこにでも車を止められるだだっ広い海辺の公園も、私は名前を知らない。正確には、国や持ち主が定めた何らかの名称はあるのだろうが、ネットで調べても観光スポットとして紹介されているわけではないし、第一、地元の人にとっては気にも留めないようなありふれた風景だ。

だからあの街では、それらの場所の魅力に気づいた人間だけが独り占めすることができた。

東京では、どんなに駅から離れた隠れ家的な古い酒場を見つけても、穴場としてレビューサイトやブログで紹介されているし、いい感じの路地裏を見つけて嬉々として写真に収めても、大抵、同じ構図で撮られた写真がネットで見つかってしまう。東京で、自分だけが知っている場所なんて、見つけることはできないのだ。

誰かにその価値を担保されたものを安心して享受するよりも、おそるおそる見つけた知らない世界を自分ひとりが密かに愛することが喜びだった私には、東京の街は、少しやさしすぎたみたいだ。

 

コロナ禍になると、私はすっかり背伸びをやめた。都心からは足が遠のいて、酒場やギャラリー、小さなライブハウスに訪れることもなくなった。そうして家に籠ってばかりいると、東京に住んでいることの意味が、ほんとうにわからなくなる。

唯一、部屋の窓から見える景色だけは、どこか実家の雰囲気に似ていたから、大きめの公園の緑を故郷の自然のように空想して、自分を騙しながら毎日をしのいだ。テレビでは田舎を旅する番組ばかり観ているし、部屋には植物が増えつづけている。でも、大好きなアニメのビデオテープを擦り切れるまで観ていた子どもの頃みたいに、同じような思い出ばかりをかき集めて、東京の片隅で田舎ごっこをして生きることに、果たして意味はあるのだろうか。ふいにそんな不安に襲われる。

地元に残った友人や、郊外で暮らしている友人、あるいは地方移住した人の話なんかを見聞きすると、「何にもないところだけどね」という自嘲ぎみの言葉のあとに、「でも住みやすくて幸せです」という言葉を隠しているように感じてしまう。なぜなら彼らの表情には一様に翳りがなくて、すごろくで早上がりした勝者のように清々しい面持ちをしているからだ。その「何にもないところ」で育った私が言うのだから、単なる思い込みではないだろう。

 

私はもう、疲れてしまったみたいだ。ただ、すぐに東京を出ることもできず、徐々に自らがすり減ってゆくのを感じている。

この街はこの街でそれなりに好きではあるが、かつて愛していた故郷の記憶と、周囲のまぶしい声にどうしても心が乱れてしまう。全ての人との関わりを断ち、全ての情報を遮断することができるなら、こんなにも振り回されずに済むのかもしれないが、そこまで修羅にはなれそうもない。だから、今は静かに目をつぶって生きるしかないのだろう。生きていてよかったと思える日がもう一度訪れるまで。いや、生きていくことの意味なんて考えることも忘れてしまうまで。

明け方症候群

私はあまり集中力のつづく人間ではない。仕事をしている最中も、頭の中では「早く夜になってビールを飲みたいなあ」などと考えているし、物事に対して意識のすべてを注いで取り組むということがない。とにかく自堕落な人間なのだ。

ただし、世の中の何もかもが嫌で、生きていることそのものに無気力なわけではない。ごく稀に目の前のことに熱中できる瞬間は訪れる。それがほとんど生産性のあることに向かわないのが問題というだけだ。

 

学生時代の記憶を辿ってみても、およそ変わりはなかった。テストや部活動、運動会や文化祭といった、いわゆる王道のイベントには早々に見切りをつけて、その代わりに自分のこだわりを見つけたら、そこに無限の熱量を注ぎ込んだ。ノートの隅にクラスメイトが登場するパラパラ漫画を描いたり、ホームページを作るためにHTMLのコードとにらめっこしたりと、果たして将来役に立つのかどうかもわからないことに若い時間を費やした。

しかし振り返れば、あんな風に何かに打ち込めた経験は、決して無駄ではなかったと思う。というより、今では輝いてすら見える。それがよくある青春映画のような冒険や恋愛ではないだけで、私にとってはあれこそが青春そのものだったのだ。

 

大人になるにつれ、良くいえば冷静に、悪くいえば他人行儀で物事に取り組むことが増えたのは、私自身が経験によって変わったところもあるだろう。しかし一番大きな理由は、刺激的なことに触れる機会が減ってしまったせいだと思う。なぜなら今でも仕事終わりにビールの栓を開ける瞬間には、ビールのことしか考えていない全力の私がそこにいるからだ。

子どもがみな美しくて純粋なのではない、そのように振る舞うことが許された時間が大人より多く与えられているだけだ。週末の酒場に集った大人たちを見てみれば、彼らがまだ人生を楽しむことを忘れていないのがすぐにわかる。

 

さて、そんな私でも、ときに降って沸いたような研ぎ澄まされた精神状態を手に入れることがある。それがどんな条件によるものかは未だはっきりしていないが、よく晴れた日の穏やかな午後に、コンビニで買ったアイスコーヒーを飲みながら、好きな音楽をかけて仕事に取り掛かるときなど、ふいに少年の心を取り戻すことがある。普段の私なら流れる音楽の方に意識が持って行かれてしまって、ろくに仕事は捗らず、だらだらと驢馬のような自分の体に鞭打って、のらりくらり夕暮れを迎えるだけだ。

しかしそんな日の私はまるで、いつかの夏休みの午前五時のように、今日はどんなことをして過ごそうか、いや、どんなことでもできる気がする――と、まぶしいくらいの活力に満ちている。幼い頃、これから一日が始まるという明け方に、しばしばこの感覚が私を包んだ。それはきっと、「終わり」ではなく「始まり」の前に立っているからだろう。夕暮れに逃げ込むより、夜明けに立ち向かう方が、人は前を向けるのだ。

私はこれを「明け方症候群」と呼ぶ。自堕落な私を救ってくれる幸福な病名である。

 

しかしあろうことか、私はあまりの嬉しさと懐かしさに、この感覚を記録しておかなければならない気がして、やり残した仕事をほっぽり出したままこんな文章を書き始めてしまった。本末転倒ではあるが、一種のカルテと思えば仕方がない。できることならこの病が、永遠に治らないでいてくれることを願うばかりだ。

沈んでゆくTwitterという島で

Twitterがなくなる、という話題が飛び交っている。でも心のどこかで、きっとなくなることはないだろう、と思っている私がいる。だってこんなに長い間、ずっと当たり前にあり続けてきたんだから。そうしてこれからも、ずっと。そう信じていた。

若者の主流は今やTwitterよりインスタとか、TikTokとか、あるいは別の何かとか、そんな話を耳にすることもあるけれど、私にとってTwitterは、現れては消えていった有象無象のアプリやサービスとは違う、日常の一部、いや、現実から少しずれたところにあるもう一つの世界みたいなものだった。

逆にいえば、Twitterが特別楽しいものという感覚もなかったし、積極的に利用していたわけでもない。Twitterより楽しい娯楽は他にいくらでもあるし、Twitterより大事なコミュニティが大半だ。「今からTwitter見よう!」とか「今日はTwitterの人と交流しよう!」とか、そう意気込んでアプリを開くことはまったくない。

一方で、何か頭に浮かんだからといって、こうしてブログを書いたり、誰かと会って話をしたりすることは、少し体力のいることだ。私にはそんな時間も元気もない。けれどTwitterは日常の隙間でふと感じたことを、好きなタイミングで投稿できる。それを誰かが見てくれているかもしれないし、誰も見ていないかもしれない。それが、ちょうどよかった。あんなにちょうどいい場所は、世界のどこにもない。

 

私がTwitterを始めたのは2009年。確かに当初は、流行りに乗るつもりで手を出した部分もある。当時よく絡んでいたネット上の知り合いたちがこぞってTwitterを始め、気軽に彼らと交流できるのが嬉しくて、興味を惹きたくて、毎日どっぷり浸かっていた。その前後にはSkypeがそれに近い役割を担っていたが、Twitterよりは閉ざされていて、距離感が近くて、ログイン状況が分かったりするのが、臆病な私には性に合わなかった。

私は基本的に自分から人に話しかけれらない。だからSkypeやLINEのように、伝わる相手が限定されている空間では、途端に寡黙になってしまう。既読がつかず、返信も必要としない、あくまで独り言というスタンスでなければ口を開けない人間なのだ。

そんな私にとって、Twitterはやさしかった。フォローされたからといって必ず挨拶を返す必要もないし、仮にブロックされてしまってもすぐに気づくことはない。LINEグループの「○○が退出しました」や、手紙に押された「あて所に尋ねあたりません」の文字のように、明確に別れを突きつけてくるものがそこにはない。いつのまにか出会い、いつのまにか別れている、そんなゆるやかな関係が楽だった。行きつけの店の常連同士のように、本名も知らず、店の外では会ったこともないコミュニティだからこそ生まれる居心地のよさがあった。

 

だけどそんな場所が、明日からなくなってしまうとしたら……。ただ、冒頭に書いたように、すぐになくなることはきっとないと思っている。それに、Twitterという看板そのものは、永遠にあり続けるのかもしれない。けれどすでに、そこから逃げ出していく人や、移動先を探している人を見かける。その結果誰もいなくなってしまったとしたら、そこはもう私の知っているTwitterではない。

少なくとも、行きつけの店のオーナーが変わって内装のセンスが悪くなったり、お気に入りのメニューが消えたりしたら、離れてしまう人の気持ちはわかる。もっといえば住居や街、国や惑星もそうだろう。我慢できないくらい居心地が悪くなったとき、人はその場所を立ち去るものだ。

だけど私には、新しい場所を探すことはできない。親しい人たちと手を取り合って別の場所にたどり着いても、そこではもう、誰に向けるでもない文章は書けなくなる。関係が深い人も、そうでない人も入り混じって薄まった場所だからこそ、私は私でいられたのだ。

 

Twitterを始めるずっと前、中学生の頃に日記のようなブログをやっていた時期がある。お互いの記事にコメントし合う関係の相手が何人かいて、学校に馴染めなかった私には唯一の拠り所となっていた。もちろん顔も本名も知らなかったが、何か辛い出来事があったときには、「この地平の果てのどこかに、私の味方が確かに存在している」という事実に救われたものだ。

Twitterもそうだろう。この15年近く、もがきながら大人になってゆく過程で、Twitterの中でだけは何も持たなかったあの頃に戻れた気がする。Twitterは過去の自分を記録し、生かしておいてくれる心の故郷だったのだ。

もしも連絡先を交換しても、きっと個人的に連絡を取ることは一生ない、けれど生きているかどうかは知っておきたい、そんな相手がTwitterにはたくさんいた。現実なら切れてしまうはずの淡い縁を、なんとか繋ぎ止めてくれていたのがTwitterだった。フォロワーという関係性を失ったあとは、もう、いつかどこかですれ違っても、気づくことさえできないのだ。呼ぶための名前も持たない。

それがどんなに貴いことだったか、夕暮れが迫ってようやく気づいた。若い日々のほとんどを、その奇跡のような場所のかたわらで過ごすことができた私は、紛れもなく幸運な人間のひとりに違いない。

人々が一緒に見ていた長い夢が、今、醒めようとしている。それでも臆病な私は、時代の海に沈んでゆくあの島で、きっと最後まで独り言をつぶやき続けるだろう。

あの頃の未来を過ぎて、どんな風に生きてゆくか

夏が好きだと叫びつづけてきた私だけれど、冬にしか思い出せない記憶もある。朝、外に出た瞬間の澄んだ空気に目が醒める清しさや、短い真昼の陽だまりにまどろむ心地よさ、あるいは肌寒くなってきた夕べに南の窓を閉める直前、ふと漂ってくる夜の匂いに紛れこんだ郷愁。この窓から見える景色が、故郷の姿に少しだけ似ているからだろうか、私はそこで窓を閉める手を止めて、手足が冷え切ってしまうまでぼんやり遠くを眺めてしまうことがある。故郷と違うのは、夕暮れが闇に溶けかかる空のふちに、山の影が存在しないことだ。どこまでも続く街並みは、地平線と呼ぶには少し歪で、やけっぱちに走り出しても、抱き止めてくれる山の背中が見えないのは、どうにも心細く思えてしまう。

作業着から伸びたかじかむ手でハンドルを握り、さびれた住宅団地を飛ばしたあの頃。安月給の身に、愉しみは毎晩の発泡酒だけだった。テレビの笑い声に包まれながら、日焼けした肌を上気させて、夜のなかに、夢のなかに、何もかも溶かしてしまう。不安もあったし、淋しさもあった。憂鬱は毎晩のように襲ってきたけれど、それでも一日一日をそうしてやり過ごす私は、あの頃たしかに、生きていたのだ。そう、あの頃の私には、まだ、未来があった。もちろん、未来なんて、蓋を開ければただの空っぽの、言い訳でしかない場合がほとんどなんだけれど。

きっと、今の私の方が、穏やかに、上手に生きているんだろう。苦しみから逃れるように行き着いたのは、しかし喜びすらも遠くから微笑んで見ているだけの、臆病な自分。徐々に削ぎ落とされた感性は、こうして夕暮れの網戸越しに、ときどき音や匂いが思い出させてくれるばかりで、自ら扉を開ける方法は、記憶から薄れ始めている。人はこれを、大人になると呼ぶのかもしれないね。その淋しい代名詞のもとで、少年は、モノクロームに変わってゆく。

求めるものはこの世のどこかにあるのではない、私の中にかつてあったのだ。手に入らなかったものへの後悔より、失ったものへの恋しさが涙を運んでくるようになったときから、心の時計の針は、反対向きに回り始めた。決して戻ることのできない身体を置き去りにして、どこまでも。いつか心と身体の距離が見えなくなるくらい遠ざかってしまったとき、私はどのようにして生きていくのか、今はまだ想像もつかない。ただ、今夜を凌ぐためにグラスを傾けるとき、そういえば、あの頃もこんな風に悩みながら、迷いながら、理由もわからず、それでも生きていたことを思い出す。そう、だからきっとこれからも、そうして生きてゆけばよいのだ。わからないまま生きていけばよい、それがわかっただけで、充分だろう。

この10年間、そばにはいつだってブログがあった

こうしてキーボードを叩くのもかなり久々である。一つ前の記事が去年の年明け、まだ世界がコロナ禍に突入する前だ。

そんなに長いこと文章を書いていなかったのかと、この二年ほどを振り返ってみる。たとえるなら夏休みの補習のあとの静まりかえった校舎をそそくさと歩いているような、嵐の日に雨戸を締め切って昼間からワインを飲んでいるような、あるいは金曜日の残業終わりのネオンサインのような。いずれにしても一瞬にして過ぎてゆくと知っているからこそ身を置いていられたものだ。けれど夏休みはいつまでも終わらなかったし、嵐はこの街から過ぎてゆかなかったし、金曜日の夜は今も永遠につづいている。

私が、あるいは私だけでなく多くの人々が見誤っていたのだろう。刹那的なものだと信じていた、この不安と、少しのドキドキとを抱え、浮き足立ったまま日常を待っていたら、結局なんだか空虚なままに二年ちかくを過ごすことになってしまった。この期間、世の中の機微に気づき、新たに何かを始めた人や、逆にいっそ腹をくくって、人生の大きな決断をした人も周りにはいた。しかし私の人生はそんなに操縦性が高くない。

だから、変わってゆく世界を受け入れられずに、未練がましく過去を想う私には、こんなお題がお似合いだろう。

——はてなブログ10周年特別お題「はてなブロガーに10の質問

ブログ名もしくはハンドルネームの由来は?

ブログ名は有島武郎の『或る女』をもじったもの。

地元にいた頃、毎週のように温泉に通っていて、そこで物思いに耽るのが好きだった。サウナに入っていたときに「ブログをやりたい」と思い立ったためハンドルネームは当初「sauna」としていたが、そのまますぎるのと、響きがあまり可愛くなかったことから、一週間ほどで「Mist」に変更。今に至る。

 

はてなブログを始めたきっかけは?

前身となる日記ブログをはてなダイアリーで始めたのが2008年のこと。もう13年も前になる。本当に日記帳にしたためるような、極めて私的な文章ばかり載せていた。途中ではてなブログというサービスが始まり、少なからず他人に読まれることを前提とした文章を書いてみたいと思うようになっていたこともあり、「或るロリータ」に移行。現在、他人に読まれることを前提としていない文章はnoteの方に棲み分けしている。

 

自分で書いたお気に入りの1記事はある?あるならどんな記事?

振り返ってみると、このブログは私の人生の軌跡である。故郷でのんびり過ごしていた頃の記事に始まり、転職を決意し、打ち明け、上京し、失業し、再就職する。予定していたことも、していなかったことも、その度にブログに吐き出すことで心の安定を保っていたのかもしれない。読み返すとそれぞれの時期の記憶が鮮明によみがえってきてハラハラするけれど、何より魂を込めて書いた文章といえば迷いなく次の記事だ。

steam.hatenadiary.com

今夜、久しぶりに森田童子を聴いて眠ろうと思う。


ブログを書きたくなるのはどんなとき?

書きたくなる瞬間は一日に一度くらいあるけれど、書き始めるに至るのは稀なことである。頭の中で最初の数行ぶんくらいを考えながら洗い物をしたり、シャワーを浴びたりしていても、いつしか生活の音に忙しなく掻き消されてしまって、やがてあきらめの夜がくる。iPhoneのメモには書きかけの想いの切れ端が、しけたマッチのように捨てられず溜まっていく。だからこんな風にテーマを与えられたときは、重い腰を上げやすい。私は〆切が決まっていないと何もできない人間なのだ。それは冒頭で申し上げた通り、この記事が約二年ぶりの投稿であることが証明している。

 

下書きに保存された記事は何記事? あるならどんなテーマの記事?

数えてみると15記事あった。前述のようにほとんどが最初の数行でやめたものか、思いついたタイトルだけを先につけたものである。それこそ五年以上前に考えたものがほとんどで、今思えば続きを書ける気がしないものばかりだが、いくつか紹介する。

「夏をさがしに自転車で冒険に出かけた」
「作業に集中したいなら、浴びるほどお酒を飲んだ方がいい」
「長風呂のすすめ」
「私の帰宅は美しかっただろうか」

自分の記事を読み返すことはある?

頻度は少ないが、読むときは一気に読み返してしまう。お酒の勢いや真夜中のテンションで感情に委ねて文章を書くことが多いので、書いているときの気持ちは、書き終わった瞬間から薄れ始めることがほとんど。そのため後から読み返してみると、新鮮な気持ちで文章が入ってくる。まるで感情を閉じ込めたタイムカプセルを開けているような気持ちになれるのだ。だからたまにブログを開くと、ついつい関連記事などを遡って懐かしさに浸ってしまう。

 

好きなはてなブロガーは?

Sakak's Gadget Blog」のケイスケさん。写真がとにかくかっこよくて昔から憧れています。

 

はてなブログに一言メッセージを伝えるなら?

シンプルで使いやすいのと、定期的にお題を与えてくれるので、自堕落な私でも文章の書き方を忘れずに今日まで生きてこられました。ブログという場を与えてくれてありがとうございます。私だけでなく、色んな人の大事な思い出が残されていて、まさにブログは財産だと思います。どこでもドアがなくても、国会図書館に行かなくても、誰もが世界中の人々の思い出を覗き見ることができる。こんなに素敵な場を、できれば永遠に残しつづけて欲しいと願うばかりです。

 

10年前は何してた?

先が見えない毎日で、暗く沈んでばかりいた。社会に出るのが怖くて、逃げ出してしまいたくて、井上陽水の「カナリア」という曲を暗い部屋でリピートしながら、毎日、時間よ止まれと願っていた。すでに絶望の真っ只中にいたはずだけれど、未来はそれよりももっと絶望の果てに違いないから、せめて今くらいの絶望で手を打とう、この瞬間に留めておいて欲しいなどと、悲しい論理を振りかざしていた。あのとき、人生の結末を自分の頭の中だけで勝手に決めつけて、前に進むことをやめてしまわなくてよかった。もう、10年も経ちました。

 

この10年を一言でまとめると?

悲しいことも苦しいことも、恥ずかしい失敗もたくさんあった。決して正しかったかは分からないし、順調だったとも正解だったとも言い切れない。けれど遠回りも含めてそんな10年の道程の先に今の私がいることは事実だから、全てをひっくるめてこの10年間を認めやりたい。おつかれさま。