或るロリータ

A Certain Lolita

森田童子が死んでしまった

毎年六月になると必ず思い出す曲がある。切っても切れないみずいろで、私の心をつなぎ留めている儚い歌声がある。どこへ行って何をしようと、街も季節も私自身もすべて変わってしまっても、かならず戻れる場所がある。弱くて優しくてふるえてばかりいたあの頃の、少年の私が待つ孤独なサナトリウムが。

2018年6月12日という一日は、おそらくここ数年間のあいだでもっとも目の前に「森田童子」という文字が流れてきた一日だっただろう。そうして彼女の声を耳にした人が、この日本じゅうでもっとも多い一日でもあっただろう。街ですれ違う人、駅のホームで佇む人、電車から窓の外をながめる人、そう、耳にイヤホンをしている人がみんな、もしかしたらあの儚い歌声に胸を痛めているんじゃないかなんて、本気で考えてしまった。そんなこと、一昨日までは夢にも思わなかったのに。

訃報を耳にしたのは6月11日の真夜中。枕元でiPhoneに目を落としているときだった。もちろんショックだったが、それも一瞬。なんだか嘘みたいで、それに、はなから彼女に逢ったこともないのだし、本当に存在しているのかどうかも定かでないくらい、ある意味架空の人に近かったから、なんと言おうか、実感が湧かないというのが本音だった。死んじゃったんだ、そうか……そう思って、そのまま眠ることができた。

朝起きてから、少しずつ実感が湧いてきた。やっぱり森田童子について考えずにはいられなかった。通勤中は何も音楽を聴かなかった。感情というよりは、頭で彼女の死について思いをめぐらせた。私の中にある彼女の情報と、ネットに流れてくる彼女の情報を照らし合わせながら、うなずいたり、微笑んだりしながら、もやもやと一日を過ごした。

意外だったのは、彼女の死について言及している人が多かったこと。Twitterの数少ないフォロワーの中でさえ、何人もの人がかなしみの呟きを投下していた。実はみんな、彼女のことを知っていたんだ。いや、知っている以上の、「好きだった」に近い目線で呟いている人ばかり。森田童子のことなんて、誰も、普段話していないのに、こんなに認識されていたなんて。私は奇妙なにぎやかさを覚えて、何か狐につままれたような気持ちになった。たとえるなら、夏祭りの日のような。神輿の音が近づいてくると、普段バラバラにしか顔を合わせない近所の子供たちが、こぞって玄関から顔を覗かせて、それからその日は特別に門限が取り払われて、月の下ではしゃいだり、立ち話をしたりして……。あるいは大晦日の食卓のような。みんなで同じ番組を観て、同じ鐘の音を聞き、蕎麦をすする。

でも、祭りはいつか終ってしまうし、年もそのうち明けてしまう。彼女の死によって沸き起こった小さな台風は、数日もすれば去ってしまって、あとにはこれまで以上の淋しさが残るだけ。そう考えると、私はここに何か書き記さずにはいられなかった。もともとこのブログを始めたとき、自分の好きなことだけを書こうと決めていた。その中で、特に森田童子の話題に関しては、来たるべき時に書こうと。それはなるべくこのブログが認知されてからの方がいいだろうし、私の森田童子に対する熱情と追究とが一定に達したあとの方がいいだろうと思っていた。いずれ時は来るだろうと構えていたら、あっさりと彼女は逝ってしまった。何の準備もできていないままに、私は命題に向き合うことになった。

仕事がろくに手につかないまま一日を終え、帰り道。ゆっくりと歩きながら彼女の歌声を聴いた。やっぱりあの頃のままだった。でも、それはこの世界のどこかにいる人の歌声から、もうどこにもいない人の歌声に変わってしまった。その事実に胸の中がぽっかりと寒くなった。夕餉はひとり彼女の弔いをしようと決め、ビールを買った。家に帰り着いて食卓につき、マッチを擦ってランプに灯りをともした。パックの刺身が並んだ華やかな食卓を前にして、箸がつけられなかった。今から乾杯しようとしているわけを考えると、涙があふれてきた。急にあふれてきて止まらなくなって、声をあげて泣き出してしまった。本当は平気なんかじゃなかった。やっぱりかなしかった。どうしようもなく。逢ったこともない人なのに、初めからいないはずの人なのに、それでもなぜだかかなしかった。ベッドに倒れこんで、シーツに顔をうずめてめちゃくちゃに泣いた。それから泣き疲れてぼんやり天井をながめていたら、あの頃のことを思い出した。いつもこんな風にして彼女の歌声を聴いていたなあと。

はっきり言ってしまうと、私は森田童子が好きだ。そのことを打ち明けるまでに、結局十年もかかってしまった。あれから十年も経ってしまったことにおそろしくなってしまうけれど、十年前も、九年前も、そうして去年の今ごろも、私はいつだって森田童子を聴いて過ごしてきた。好きなアーティストを訊かれても、カラオケに行っても、絶対にその名は口にしなかった。できなかった。なぜだろう。ただ好きなだけじゃないからだろうか。彼女は私の青春のすべてと言ってもいい。真っ暗な濁りの中をやみくもに走り続けていた長い日々の中で、私が縋ることのできた唯一の存在だった。彼女と出逢わなければ、私は今ここにいなかったかもしれないし、私は今の私になれなかったかもしれない。

彼女の歌声を聴いていると、楽だった。何も考えなくてすむからだ。学校で友達ができなくても、好きな娘に恋人ができて心にひびが入っても、急に人と話せなくなって外に出ることがおそろしくなっても、私にまとわりつく社会の亡霊は、ひとたび自室のベッドの上で、あおむけになって彼女の曲に耳を傾けていると、心地よく剥がれ落ちてゆくのだった。学校から帰ってくると、夏は窓を開けて夕風に吹かれながら、暮れてゆく空のもと、蝉の声と混ざり合う彼女の声に目をつぶった。冬は炬燵にすっぽりと潜りこんで、ひたすら汗をかきながら彼女の声を子守唄のようにして眠るのが日課だった。その瞬間が楽しいとか、これが自分の趣味だとか、そんな意識はひとつもなくて、ただ生活の一部として、ご飯を食べるみたいに、お風呂に入るみたいに、そうやって毎日三時間は彼女の曲を聴いて過ごした。

夜は彼女の声がなければ眠ることもできなかった。まるで夢の世界へ向かってゆく夜行列車の発車音みたいだった。今思えば完全に依存していたんだけれど。それから少し経って社会人になり、私はちょっとだけ世間と向き合うことを決めた。もう大人になってもいいかな、とあきらめた。色んな音楽を聴くようになったけれど、どんなに周囲の音があざやかに入れ替わっても、森田童子だけは必ず私の中に居続けた。少しでもブルーな日には、やっぱり戻ってきてしまうのだった。そのためか、あの大人になんてなれるはずもない不安定な少年は、薬に頼ることもなくなんとか青年になれたのだ。

これは誇りでもなんでもないけれど、私は少なくとも今の二十代の中で、もっとも森田童子の歌声を聴くことに時間を費やし、心を使い果たした自信がある。だってそれしかなかったんだから。学生時代何をしていましたか、そう訊かれたときに、毎日炬燵に潜って森田童子を聴いていました、なんて、おまけに過去を振りかえりながら、じゅくじゅくの傷口をさわってばかりいました、なんて、誰が言えようか。かといって、単に「好きな歌手」に留まるほど、私は大人として平気に彼女の名前を口にすることはできなかった。それに、別に共感してもらうつもりもなかった。ただ、彼女の曲を聴くことは、私がすべての青春を投げ出して打ちこんだ大事業だったというだけだ。

上京して私は玉川上水沿いのアパートに住んだ。「まぶしい夏」という曲を聴きながらよく散歩をした。甘ったるい懐かしさに胸をきゅっとつままれるようだった。懐かしいという気持ちはすべて故郷に置いてきたはずなのに、不思議と彼女の曲は東京の街が似合う。辛い仕事の帰り道には「ラスト・ワルツ」を聴いていたし、エアコンのない真夏の部屋で真っ白なシャツを着て「逆光線」に心ごと凭れるのが私を落ち着かせた。彼女はだめになることを肯定してくれた。そこにある現実という景色がたとえ不幸だったとしても、目をそらさずに向き合いながら、それでいて戦いもせず受け入れる。だめだったらそれまでだと、流されるように。

実はちょうど一年ほど前、新宿のネイキッドロフトで「森田童子ナイト」というイベントがあった。森田童子を想う人々がつどい、飲んだり食べたりしながら、彼女の思い出について語り合う会である。もちろんそこに彼女本人はいない。夜の東京に出かけることにいつまでも慣れない私だったが、迷ったあげく、仕事終わりにひとり中央線に揺られたのを覚えている。狭い建物に、小さな立て看板がひとつ。注意しなければ見落としてしまいそうな場所だったが、ひとたび近づくと、開け放ったドアの向こうから彼女の歌声が一気に漏れ出してきた。ほっとしたと同時に、果たしてこんなに堂々と彼女の曲をおおっぴらに聴くことが許されるものなのか、と悩ましくもあった。暗い部屋の中はすでにたくさんの人影。もちろん自分よりずっと年上の人が多かったけれど、中には同年代の若い娘の姿もある。私は「雨のクロール」という特製カクテルを頼んだ。部屋じゅうに響く彼女の歌声は、集団でいながらも心地よい孤独を与えてくれて、まるで小学生のころ体育館で薄着になって、一斉に結核の予防注射を打ったときのことを思い出した。

何気ない顔で生活しながら、この都会の中には、同じように森田童子を聴いて暮らしている人がいたんだ。それもこんなにたくさん。私はイベントの内容よりも、そんな不思議な空間に身を置いていることに終始はらはらしっぱなし。イベントが終ったあとに、「やっぱり森田童子はひとりで聴くものだ」と再確認したにせよ、あのつどいに参加できたことは、今となっては貴い経験である。

さて、ここまでこうして文章を書きながら、未だ私はこの記事の締めくくり方が判らない。きっと判りたくないのかもしれない。私が森田童子について書くときは、すでに何かあったときに違いないんだから。それだけは判っていたから。家族や友達のような近い存在であればあるほど、手紙なんて書かないもの。それこそ、結婚式か、告別式か。だからこれは私からの彼女に対する追悼文なのかもしれない。そんなつもりで書き出したわけではないけれど、でも、ニュースを見た故郷の母から急に連絡がきて、「あなたがショックを受けるだろうから言うべきかどうか迷ったけど」なんて言われたら、やっぱりそんな私が彼女の死をだまって見送ることなんてできるはずもない。

もっと色々書こうと思ったことはある。けれど別に書かなくてもいいことだ。そんなことばっかり。あの頃、好きな娘からの着信音を「G線上にひとり」に設定していたこと、高橋和巳を読み漁ったこと、セルロイドの筆箱を今でも使っていること、菜の花がいちばん好きな花になったこと。どれも気まぐれだけれど。だって私は別に彼女のファンなんかじゃないから。彼女のことを深く知りたいわけでもないし、彼女の真似をしたいわけでもない。ただひたすら彼女の作品に溺れて、救われただけの人間だ。姉のように、母のように、恋人のように、彼女に縋りつづけていた私の旅は、しかし決してひとりでは続かなかった。だから、ぼくの一生ぶんの敬愛の気持ちを、彼女に捧げたい。

最後に、彼女の死を受けて、ひとつだけ誓ったことがある。「生きていればいつか会える人」には、今すぐにでも会っておいた方がいいということだ。それは憧れのアーティストだったり、はるか昔の友人だったり、忘れられない恋人だったりするのかもしれないが、いつか会ってみたいとか、もう一度会いたいとか、そんな風に思いながら、会うことを先延ばしにして、会えないことを世間のせいにして、それで季節に流されてしまったら、きっともう、二度と会えないんだと思う。今、会えない人は、たぶん、死ぬまで会えないんだと思う。会いたいなら、今すぐに、会おうと努力するべきだ。もしそれでだめなんだったら、本当に会えないんだよ。それだけの話。勇気を、十年後の自分に押しつけてはいけない。どうせ目をそらすんだったら、きっと十年後だって、おんなじだ。

確かにこの時代を生きていたはずなのに、まるで遠い時代の出来事みたいに、彼女はこの世界から失われてしまった。出す宛てのない別れの手紙を書き崩して、インターネットの海に放り投げたそのあとで、私はこれからどのように生きていくというのだろう。

今はまだ、判らない。