或るロリータ

A Certain Lolita

女性が髪を切るということ

女性が髪を切るということがどういうことかは、男にはよくわからない。実は深い意味なんてないと言われているけれど、その一方で、やっぱり何かしらの意味があるのではないかとも疑ってしまう。結局私たちはその真相を知ることなどできないのだ。あの日女子生徒たちだけを残して体育館を後にした気だるい午後の校舎も、なにも教えてはくれなかったし、どこか悶々とした、靄のようなものを心のうちに秘めたまま、やがてそれをかき消すためにまたはしゃぎ回って。だから私たちにとって女心というものは、いつまでも神聖で、ミステリーで、漢検一級みたいに難解なものなのだ。

私は髪の毛に対して情など湧いたためしはない。ただ決まった周期で、伸びたら切ってを繰り返しているだけだ。ずっと適度な長さを維持して伸びも減りもしないでいてくれたらどんなに楽だろうと思うくらいだ。女性は違うのだろうか。女性は気分転換に美容院に行ったりする。男から見れば大して長さの変わっていない髪のまま「すっきりした」「さっぱりした」という。あの赤と青のうねりの店内では一体何が行われているというのか。

だけどその気持ちも少しだけならわからなくはない。なぜなら女性は髪の毛と付き合う期間が長いからだ。肩まで、背まで、果ては腰のあたりまで髪を伸ばしている女性も時に見かけるけれど、彼女らはきっと長い歳月をともに過ごしてきた髪の毛を、一種相棒のように思っているのではないだろうか。たとえば男にして見れば履き古したジーンズや革靴、腕時計やジッポなどがそれに当たるだろうか。毎日手入れをし、美しく艶めいて、ときどき人に褒められたりするならば、愛着が湧かないはずがないだろう。

だったら尚更、そんな大切な相棒に別れを告げるときには、なにかきっかけがあるに違いないと思ってしまうのが道理である。私は今日、偶然インスタグラムを見ていた。普段は登録だけしていて滅多に開くことはないのだが、気まぐれにアプリを起動してみたのだ。そうしたら「知り合いかも」的なゾーンに、少年期仲のよかった幼馴染の女の子が表示されていた。彼女は埃かぶった空き教室みたいになっている私のページと違い、精力的に更新し、数百人というフォロワーを抱えているようだった。

なんとなく彼女の投稿を流し見していると、「髪を切ったよ」とコメントを添え、加工を施された写真があった。化粧をし、大人びていて、しかしかつての面影はそのままの彼女の写真を見て、私はふと思い出したことがあった。そういえば、いつか同じような場面を見たことがあるな、と。

彼女は幼いころからずっと髪を伸ばしていた。もちろんそれなりに手入れはしていたのだろう、小学校に上がってからはおおよそ背中あたりの長さを維持していた。彼女の髪は色素が薄く、陽に透かすと金色に輝いて綺麗だったものだ。彼女とよく遊んでいたのは小学校の高学年くらいまでで、徐々に疎遠になってしまったが、私はいつも心のどこかで彼女のことを気にかけていた。

ある日、彼女が長い髪をばっさりと切ってしまったことがある。首にもつかないくらいの、涼やかなショートヘアーに。久々に会ったとき、少し照れながらも自慢気に「髪切ったんだよ。似合ってる?」そんなことを訊かれた記憶がある。私はそのときひどいショックを受けていた。それはかなしみとかよろこびとかそういったストレートな感情ではなくて、貯めていたローソンのサンドイッチのシールがいっぱいになったのに、期限内にお皿と交換しそこねていたときのような、あるいは浴槽の栓をするのを忘れたまま、何十分もお湯を出し続けていたときのような、別にどうということはないんだけれど、取り返しがつかないわけでもないんだけれど、ちょっとぽっかり淋しいような、そんな気持ち。

私が淋しかったのは、彼女の長い髪がもう見られなくなってしまったことに対してではない。彼女が私になんの相談もなしに(恋人でもないのだから当然だが)髪を切るという人生の一大決心をして、私がまだうじうじと子供のままでいるのに彼女は前を向いて大人になろうとしていて、やがて私のことも忘れられてしまいそうで淋しかったのだと思う。

そして、彼女よりはだいぶ遅れたが、いつしか私も大人になった。そんな風にショックを受けたという感情すら、今まで忘れていたのだから。前へ進むということは、色んなことを忘れるということ。彼女が思い出とともに長い髪を切ったときのように、私もまたあの日の淋しさをどこかへ捨ててきて、今を生きている。忘れられたなら、忘れかえしてやればいいのだ。

それに、人は忘れたものに対してだけ、「思い出す」ことができるのだ。だから、案外、忘れたものっていうのは、特別なものだったりするのかもしれない。

 

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