或るロリータ

A Certain Lolita

いま、私の手元に夏がある

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どうやってこの本の存在を知ったのか憶えていない。おそらく誰か知り合いのつながりのツイッターなんかで偶然発見したのだと思う。それよりも最初にこの表紙が目に入ったときのイラストといい、表題の短歌といい、手書きの文字といい、すべてが私の捜していたものにちがいなくて、存在をしらなかったはずなのに私はこの本をずっと待ちわびていたように思う。ひとめぼれだった。

私はすぐさま作者の方のツイッターのホームに飛んだ。この歌集は一般販売も行っているらしい。通販で、とも考えたが、吉祥寺の「百年」という古書店にも置いているらしく、その店は何度か前を通りかかったことがあったので、ならば今すぐにでも、とコートを羽織った。

同時に、私はこの本を手にするのが少し怖かった。なぜならそれがあまりに私の感性の奥深くまで突き刺さってくることが判ったからだ。ともすると私はこの本のページをめくりはじめてから閉じ終えるまでに、長い歳月を要するかもしれなかった。私はこれまで、夏が好きで、夏にかかわるすべてのものが好きで、絵も、文章も、音楽も、とにかく世界中から夏のかおりのするものをかき集めてつめこんだ部屋の中で暮らしているような人間だった。だからこそ、私はこの本の表紙を見た瞬間に、感じ取ってしまったのだ。これは私の追い求めてきたものたちを、そのすべてを、ぎゅっとこのサイズに凝縮した、水色爆弾だと!

すっかり春の陽気だった。寒がりの私にはまだコートが必要だったが、生ぬるい風はわけもなくセンチメンタルになるような別れの気配を孕んでいた。いつか卒業した日のことを思い出して、誰もいない長い廊下を思い出して、戻りたいほどの過去でもないのに、戻れないという事実に泣きたくなりながら、駅までの道のりを歩いた。真昼の駅ではあちこちに子供の姿があった。電車もがらがらで簡単に座ることができた。その清々しい風景のなにもかもが私を憂鬱にさせる要素ばかりだったが、それより今は、やがてくる夏のことを考えるべきだった。もうすぐ私は、夏に逢える。

「百年」の店内は混み合っていた。髭の似合う男性や、背の高いカップル、都会の景色に溶け込めるような人ばかり。私だけが不釣り合いな気がして、息の詰まる思いだったけれど、店内をぐるりと一周、そうして見つけた。ああ、本当にあった。やっぱり東京は凄いところだ。画面の向こうにいる凄い人たちと自分とが、同じ地平に生きているということを教えてくれる。ネットの向こうが決して断絶された世界でないことを証明してくれる。故郷にいたころの私は、あの狭い部屋の中から、どこへも行けなかったというのに。

それから私は意気揚々、まるで初めてラブレターをもらった日の帰り道のように、早くこのときめきを繙きたい気持ちでいっぱいだった。気分がよくて、ちょっと寄り道して、春らしくロゼのスパークリングを買って帰った。

そうしていま、私の手元に夏がある。

夏は、人にとって特別な季節だ。ただ暑くてうっとうしい季節だという人もいるけれど、それはつまり、夏という季節を無視できないということでもある。四季それぞれによさがある。その上で、やっぱり夏を中心に一年が回っているという気がするのである。もっともそれは私が夏という季節に心底惚れ込んでいるからそう思うだけなのかもしれないけれど。

私はもう二十回以上夏を経験している。季節なんて、延々とめぐりくるものだから、二十回というと反対に少なく思えてしまうけれど、ならば、それぞれの夏がどういうものだったか、すぐに思い出せるかというと、それはできそうもない。たとえば近所の友達と石畳に寝そべって雲を眺めたのが何度目の夏だったか思い出せないし、クーラーの効いた部屋で家族全員でトトロを観たのが何度目の夏だったかも思い出せない。思い出だけは次々とよみがえってくるけれど、記憶はどれもまばらで、具体的な日月とのつながりは浮かび上がってこない。私は夏を記憶するばかりで、記録しそこねていたようだ。

そうしてこの先何十回夏がくるのだろうか。少なくともこれまで経験した夏の二倍の回数は残っているはずだ。それが果たして、多いのか、少ないのか。実はそれを決めるのはこれからの私自身ではないだろうか。

でもこれから何十回も夏が来て、
夜のベランダでお酒のんだり
泳いだあとにくっついたり
「バニラコーク」の味を想像したりするから
人生は楽しくてしょうがない(本文中より引用)

 想像するだけでわくわくして、あとになって何度も思い返せるような出来事を、あらたに積み重ねていけばよいのだ。そうすることで、夏は私たちの心の中で増幅してゆく。人生にとってかけがえのないものとなる。

私は決して青春をあきらめてはいない。あの夏はもう戻ってこない、そんな言葉で夏を思い出の箱の中に押し込めてしまうのはもったいない。それに、大人には大人にしかできない夏の楽しみがあるはずだ。(たとえばお酒にまつわることなど)

少年の日の夏が帰らないのは、確かにその通りかもしれない。だけど、果たして私はあの夏をもう一度繰り返したいのだろうか? むしろ、それ以上に輝ける夏を追求するべきであろう。もう過去にはもどれない。私はそのあきらめを受け入れることにした。思い出をときどき酒の肴にすることはあるけれど、夏がくるたび、私はそのあきらめを越えてみたいのだ。今年の夏こそ、何かあるかもしれない。いや、何もなくたっていい。私はただ、夏を後悔しないように歩みたい。

       ♡

というわけで、みなさんもよろしければ、夏という季節から放たれた弾丸のような一冊、気だるく甘酸っぱいバニラコークの味に身悶えしてみてはいかがだろうか。

短歌や文章を書かれているのは伊藤紺さんという方で、無論、夏が好きなのだろうという思いがつぶさに伝わってきた。短歌というのはもしかしたらこの世でもっとも強力な表現方法のひとつなのかもしれない。限られた文字数の中では、こねくり回した文法のからみ合いなどは当然使えないから、いつもふわりと、口笛のようにやさしい。歌の前後にも、途中にも、とてつもない余白があって、その余白には、目をつぶってしまってもいいし、とことん追いかけてみてもいい。短歌は、読み手の感受性に多くを委ねてくれるところがあって、だからこそ、ときどき、その余白が思いがけず殺しにかかってくることがある。この本を読んでいる中でも、ひとつふたつ、思わず胸を撃ち抜かれたような歌があった。厄介なことに、それらは一度頭に焼きつくと、永久的に反芻されて、離れなくなってしまうのだ。だから短歌はおそろしい。

イラストやデザインを担当されたのはeryさんという方だそう。脱力感のあるイラストとポップな色使いで紙面がとても華やか。だけど小物などは緻密に描き込まれていたり、レトロ感のあるフォントや、文字の添え方にセンスの炸裂を感じる。たぶん、きっと、もの凄くお洒落で都会的な人なのだろうと勝手に想像してしまった。

 

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この手作り感も素敵。

夏がくる前にこの本に出逢えてよかった。そして、とてもバニラコークを飲んでみたくなった。

 

昔作ったやつ↓ 

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