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或るロリータ

A Certain Lolita

明日、退職の意思を告げる

私情 労働

「仕事を辞めさせて頂きます。」

 そう告げようという前の晩、私は落ち着かなかった。つまり今この瞬間である。正確には、一週間ほど前から気が気ではなかったのだが。明日、八月二十八日、この日に退職の意思を告げることを決定したのは、もう二ヶ月以上前になる。準備やタイミング、様々なことを考慮して、この日がいちばん妥当であると思ったのだ。

 言わなければならない、そんな思いで気重になりながら夏を過ごした。もっとも、それすら忘れさせてくれるような煌めく瞬間を求めて、夏を駆け抜けたつもりではあったのだけれど。この町で過ごす夏が最後になることを思えば、その重圧による焦りは計り知れなかった。やり残したことを考えると際限がなくて、人はやり残さずに生き通すことなどできやしないのだと悟った。

 仕事を辞めたいと思い始めて三年が経つ。絶対に辞めてやる、と決意して一年が経つ。思えば入社当時から、私は常に疑問を抱いていた。本当にこの職場でいいのだろうか、間違いはないのだろうか、と。考えれば考えるほど嫌な部分が目についた。就職のよろこびを感じていたのは、配属先が決まってから初出勤までの、ほんの短い間に過ぎない。

 何度苦悩しただろう。友人と酒を飲むたび仕事を辞めたいとばかりぼやいていた。私の話を聞くたび彼らは「そんな職場すぐに辞めちまえ!」と応援してくれた。私は一人ではなかった。戦う場所では孤独でも、家に帰ればそれを肯定してくれる多くの仲間がいる。そう考えると戦えそうだった。

 だけど私がならなければならないのは、戦士ではなく鬼だった。私が職場を去るにあたって、人間関係というものはむしろ私を躊躇させるたったひとつの理由だったからだ。組織は憎けれど、仕事仲間は好きだった。彼らもまた、私と同じ被害者なのだと思うと、幾らドライに努めていても、情がこぼれそうになるのは仕方がない。

 昨日、パートのおばさんが職場を去った。人の少ない部署だから、その人にしか出来ない仕事というものが山ほどある。上司は頭を抱えていた。給料を増やしてでも引き止めろと助言する者もあった。「いつかこんな日が来るんだよね。」或る同僚がしみじみ呟いた。いつか……その「いつか」を考えることを先延ばしにした結果が、組織を苦しめていることに気がついていない。すぐ隣に、もうひとつ「いつか」が迫っていることなど、想像もしない様子で、私に期待の目を向ける。あなたはこの職場の未来を担ってるなんて、簡単に口にする。私は若い。確かに若い。若いけれど、若いから、私には未来がある。あなた方にはしてみればもう遠く過ぎた季節かもしれないが、私には、職場の未来より先に、私自身の未来があるのだ。

 全てが憎ければ、どんなに楽だったろう。あの優しい人たちが、驚き、悲しみ、そうして私に対して注いできた情熱が全て泡となって消えることに絶望する表情を見るのが、たまらなく心苦しい。私はひどい裏切り者に見えるだろう。だけど、私の人生は、職場の未来のためにあるんじゃない。私は、私のことだけ考えていればよいはずなのだ。

 一生寄り添う気持ちがなくなったとき、少しでも早く別れを告げることが、どちらにとっても深い傷を負わずに済む最善の方法である。出逢うことは簡単だ。何故ならそれは喜びとともにしか現れないからだ。だけど別れるのには、気力も体力も使う。お互いどっと疲れるし、時には取り返しのつかない痣をつくることもある。

「簡単に別れられると思うなよ。」

 ヤクザかメンヘラが言いそうな台詞である。だがこれは誰にでも当てはまる台詞であると思う。少なくとも私にはそうだった。相手が許すかどうかではなく、自分が苦悩する羽目になるから、喜びの餌に釣られて、簡単に出逢うことを選んではならない。私もあの日、求人票をもっとよく吟味しておけば、ここまでがんじがらめにならずに済んだのかもしれない。

 何はともあれ、もう後戻りは出来ない。腹をくくるしかない。別れ話を告げる時の男のようなまなざしで、暗い喫茶店の扉をくぐる代わりに、あの会議室に上司を呼び出すつもりだ。今夜は眠れそうにない。もう少し酒を飲もう。