或るロリータ

A Certain Lolita

夜の街をドライブしていた頃

まだ故郷にいた頃、私はときどき夜になると思い立ったようにドライブへ出かけた。おんぼろの軽自動車に乗って、街灯もない山道を下って街へ出た。私にとって毎晩の憂鬱とたたかう燃料はアルコールだけだったから、ドライブをするという日には生唾を飲み込んでお酒を我慢しなければならなかった。だけどそれに替えられないくらいドライブは私の憂鬱を吹き飛ばしてくれることがあった。普段仕事で嫌というくらい車を運転していたくせに、やはりあてもないのが良かったのか。好きなところに好きなだけ、意味もなく車を走らせる。まるで夜を切り裂くような感覚だった。

例えば黙って淋しい音楽に耳を傾けていることもあったし、夏には窓を開けて夜風と月明かりに陶酔することもあった。けれどとりわけ好きだったのは尾崎豊を聴きながら大声で歌うことだ。ほとんど車もない寂れた国道線を飛ばしながら車の窓が割れるほどに大声で叫ぶのは、この上ない快楽だった。その日起きたすべての物事が煙草の煙とともに窓の隙間から夜空へ消えていった。

歌い疲れると私はそこでUターンした。そうして今度は尾崎の声に耳を傾けながら車を走らせる。心地よい脱力感と、どこか名残惜しさとで、訳もなくコンビニへ寄り道したりする。普段飲まないコーヒーを買って飲んでいると、私はなぜだか自分が今この世で一番「青年」という言葉がぴったりの存在になったような気がする。大人でも子供でもなく青年だった。

きっと尾崎もそうだろう。彼は一瞬の火花のように生きた。彼の作る曲は単なる少年の希望でもなく、青春の甘酸っぱさでもなく、かといって大人になりきれてもいない、青年という形容がまさに相応しい、その頃私にいちばん似合いの曲だった。人は「今時尾崎なんて」そんな風に私を懐古主義者のような目で見る。けれど自分が恰好良いと思うものに対してそこに世間のものさしなんて必要ない。私を肯定するためには、私一人いれば充分だったのだ。

やがてまた街灯が少なくなってくる。馴染みの山道を走りながら、明日も仕事だなんて絶望が挨拶を交わしてくる。これからずっと生きとおす自信はなかったけれど、もう一日だけならどうにか死なずに済みそうな気がした。そうして一日一日を積み上げてゆくのだ。そろそろ今夜も終わりだ。カーステレオに手を伸ばす。最後に聴くのはいつもあの曲だった。

 

今週のお題「卒業」