或るロリータ

A Certain Lolita

夜の映画監督だったあの頃

私はお酒が好きだ。三度の飯よりお酒が好きだ。むしろ、三度の飯はお酒の愉しみを引き立てるために存在しているといってもいい。

地元にいた頃、私は毎日のようにお酒を飲んでいた。平日は仕事が終わると、まだ陽も暮れないうちに缶ビールを開けて晩酌を始める。テレビを見ながら、ネットを徘徊しながら、時には何か作業をしながらも常にお酒を飲んでいた。私の晩酌はいつも長時間に及んだ。

そして、週末になると友達と集まるのが恒例だった。元々お酒が好きな友人と二人で飲み歩いていたことを発端とし、徐々にその仲間を増やし、はじめはお酒を飲めなかった友人さえ、気づけば日本酒をがぶ飲みして酔っぱらうまでになってしまったほどだ。ダメな大人は増殖しながら、金曜日の夜を明るくしていた。

時には繁華街へ飲みに繰り出すこともあったが、二十歳そこそこだった私たちは、もれなく貧乏にちがいなく、酒場に行くたび財布の中身がすっかり空っぽになってしまうことは避けられなかった。それに田舎住まいだ。最寄り駅すら存在しない車社会では、お酒というものは家で飲むのがスタンダートであった。

酒場で飲むお酒は高い。安い店でも家で缶ビールを飲むのと比べれば当然高くつく。だがそれは酒場という雰囲気そのものの値段が含まれているというのもあるだろう。家なら百円の金麦で乾杯できるところを、わざわざ酒場の狭い席で乾杯するとき、私たちは「今日は何もかも忘れるぞ」という自制のダムを開いて、楽しい夜のひとときを送るためのチケットとして買った一杯目のビールで乾杯しているのだ。酒場でお酒を飲むということは、映画館で映画を見るのとよく似ている。あとでレンタルすれば確かに安く観られるんだけれど、あの用意された座席で、あの空間で、あのスクリーンで映画を観られるから、大枚をはたく意味があるのだ。

だとすると、家飲みは自分たちで映画を撮るようなものである。決して贅沢な空間が用意されているわけではない。待っていれば目の前に出てくる料理もない。脚本も、演出も、すべて自分たちで作り上げなければならないのだ。もちろん、何もせずにただ買ってきた枝豆をつまみながら缶ビールを流し込むのでもいい。逆に、とことんこだわって、酒場では決して味わえないような特別な時間を模索してみるのもいい。

家飲みを始めた当時は、いつも買ってきた安売りの惣菜やスナック菓子をつまむだけの、いかにも安アパートの一室が似合いそうな宴を開いていた。しかし回を重ねるごとに、私たちは貧乏なりに家飲みの質を上げることに努めはじめた。たとえば簡単な料理を作る者もいれば、庭で作った燻製を持ってくる者、旅先で見つけた珍しい地酒を持参する者もいた。それぞれがそれぞれの個性で演出をほどこし、金曜日の夜はみるみる彩られてゆく。

そして、飲みながら行うことといえば、誰かが持ってきた映画を観ることだったり、誰かが持ってきたゲームをすることだったり、トランプをしながら語り合うこともあれば、酔いが回ってきた折には、ギターを披露する者もいて、ただお金だけ払って提供される陽気な時間より、ずっと自分たちで夜をつくり上げているという感覚がした。

その頃私はまだ煙草を吸っていて、仲間内には煙草を吸う友達がもう一人しかいなかったので、ときどき二人で連れ立って外に出た。雲のない夜には、星を見ながら二人でひと息ついて、一転して仕事の悩みなどをこぼしたりする。そうしていると、家の中にいた連中も休憩がてら玄関先に飛び出してきて、結局ぞろぞろと近所の公園まで散歩に行ったりする。

今、故郷を離れた私が、いちばん恋しいのがあの時間だ。東京には素敵な酒場がたくさんあるし、田舎とちがって仕事帰りにふらりとそこらのお店に立ち寄ることもできる。だが、ここにはあの仲間たちはいないし、広い家もない。並んで星空を眺めることもできやしない。どんなに上質なお酒を飲むときでも、そこに混じる孤独の苦味が、あの頃を恋しくさせるのだ。

疲れた夜にはコンビニで少し高いビールを買って帰り、綺麗なグラスに注いで飲む。大好きな音楽をかけながら、少しずつ酔っぱらっても、淋しさは掻き消えない。長い長い夜という映画をひとりきりで撮影しながら、私は今もどこかに仲間たちの影を捜している。

今週のお題「家飲み」