或るロリータ

A Certain Lolita

初任給が出たらまず何に使うべきか

死が間近に感じられるほど生活に困窮していたニート生活も終わり、何食わぬ顔で通勤電車に乗る毎日もすっかり板についてきた。とはいえまだ初任給をもらうまでには一ヶ月の日月を要する。カード払いで負債を先送りにしつつどうにか毎日を凌いではいるけれど、早く一度目の給料を頂戴して心温めたいのは言うまでもない。当分この貧乏生活が続いてゆくことは間違いないのだが、それでもようやく手にはいる僅かながらの報酬を、これから先どのようにして蓄え、どのようにして使っていけばよいものかと考えたりする。浪費は決して悪だとは思わない。ただ、それが無駄遣いかどうかは各々異なってくるものである。私にとって最も適切な給料の使い途とは一体なんなのだろうか。愚かなる散財に悔恨を募らせる前に、今本当に欲しいもの、必要なものを先に確認してみることにする。

 

自転車

田舎育ちの私には、自転車など高校を卒業してから数えるほどしか乗ることがなかったんだけれど、都会にくると自転車が欲しくてたまらなくなった。田舎にいた頃は買い物に出かけても、店から駐車場までの少しの距離しか歩かなくて済んだのに、今では買い物をしたら家まで荷物を持って歩かなければならない。だからまとめ買いがなかなか出来ないのだ。冬の夜などお腹を空かせて歩く帰り道は、本当に心細く耐えがたい。自転車があればどんなに楽だろうと、周りの自転車乗りたちが過ぎるのを指をくわえて見ているばかりだ。

今、手に入ったらもっとも生活効率が上がるものといえば、間違いなく自転車だろう。

 

デスク

作業机が欲しい。ブログを書いたり写真の整理をしたり、持ち帰った仕事でもパソコンを使うことが多く、要するに家にいる時間の大半をパソコンの前で過ごしている私だが、今は小さな食卓の上にパソコンを置いて使っている。それだけでテーブルはもう半分ほど埋まってしまう。ご飯を食べるたびにパソコンをずらしたりするのは手間がかかるし、第一床に座って長時間作業をしていると腰が痛くなってくる。せめて安いものでいいから椅子と机が欲しい。書類なんかが床に散らばっているのを見るとやりきれない気持ちになってしまう。その前に広い家に引っ越さないと、現段階では机を置く場所などないのだけれど。ちなみに今まで使った机の中でいちばん作業が捗ったのは学校机である。

 

CD

最近めっきり音楽を聴く時間が減ってしまった。通勤時間は短いし、いちいちイヤホンを付け外しするのも億劫なのだ。家にいる間は常にテレビを観ている上に、テレビを消して寝る前はいつも睡眠のアプリから流れる雨の音を聴いている。となると、黙って音楽だけに耳を傾ける時間というのが殊更になくなってしまうことはやむをえない。

しかし欲しいCDはあるわけで、だけどもCDというのは貧乏人にとってはおそろしく高いものだ。ネットでミュージックビデオなどが公式に無料配信される時代だ。CDを買うという行為は、好きなアーティストへの投資行為と化している。「この歌手にはお金を払いたい」そう思える出逢いがあったとしても、あまりに貧困なゆえ、Amazonの欲しいものリストにその歌手のアルバムを入れたきり、夜毎YouTubeを行ったり来たりするだけというのはあまりに佗しい。

ちなみに私が今欲しいCDの一例。

Ren'dez-vous

Ren'dez-vous

 

朝の光の中で聴くのにうってつけな透き通る手嶌葵さんの声は、私にとっての精神安定剤としていつもポケットのiPhoneに入れて持ち運んでいたんだけれど、最近久しぶりに彼女がドラマの主題歌で話題になってテレビに出ているのを見かけて、すぐにAmazonで検索したら、二年も前に私の持っていなかったアルバムが出ていたことを知った。例に漏れず評価も高く、すぐにカートに入れようとしたが、いやちょっと待て、明日の夕食さえろくに確保できない私が、何をCDなど買って、そのお金があればいくつ夜を越えられるだろう、そう思うとそれ以上注文へ進む気にはなれず、くだんの欲しいものリストへ今、昏睡状態の身なわけである。

 

これは欲しいというより、少しでもお金が余れば買おうと思っている。本を読まないとどんどん心が乾いてゆくのは明白である。私がまだ十代だったころ、本屋へ通うのがいつも楽しみだった。新しい本のすべすべの手触りと紙のにおいが好きだった。最初の一行を読むときがいちばんドキドキした。そうして最後の一行まで、やはりドキドキしっぱなしだった。本を読むということは今も変わらず私にとって重要なことであるにちがいない。忙しさにかまけて買った本にさえ手をつけないでいる私だが、どんなに疲れている時でも、せめて毎日一ページでいいから本を読む習慣をつけたい。かつて私の代名詞であった「文学少年」という言葉は、今はもうまったく別人のことを指しているみたいに他人事に聞こえてしまう。何週間も本を読まないことがざらにある生活の中で、誰が文学好きを名乗れようか。書くこととおなじくらい読むことは大切なことだ。書いているからといって読まずにいると、そのうちきっと書くことしかできない鉛筆のお化けになってしまうだろう。 

すみれの花の砂糖づけ (新潮文庫)

すみれの花の砂糖づけ (新潮文庫)

 

というわけで給料日がきたら一段落として、まずはこの本を買おうと思っている。

 

私は鞄を持っていない。というと語弊があるけれど、持っているのはビジネスバッグとボストンバッグと小さなショルダーバッグである。仕事に行くぶんにはまったく困ることはない。しかし遊びに行くときに、元来、鞄を持たない主義だった私は、今やカメラもあればノートや長財布、薬の類も常に携えておきたいと思いながら、それにふさわしい鞄を果たして持ち合わせていないのだ。ビジネスバッグは勝手がいいが、プライベートの場において、そんな堅苦しい鞄を持って現れたなら、相手方に息の詰まる思いをさせることが懸念される。ボストンバッグは旅行用に買ったもので大袈裟過ぎて話にならないし、ショルダーバッグは少しばかり収納力に不安がある。さしあたり手頃な鞄をひとつ購入し、プライベートの時間をもう少し快適に過ごしたいと思ってはいるのだが、結局鞄のような「なくてもすぐに困るわけではない」ものは、後回しにしてしまうのが関の山である。

 

フロム・ザ・バレル

何を隠そうウイスキーである。貧乏人が酒を求めるなど大衆に背を向けるような行為であることは承知しているが、来月、再来月、いや、すぐにとは言わずとも、そのうち少しのへそくりでも出来たなら、かねがね飲んでみたいと思っていたネット上で大評判のこの銘柄を、どうか一本購入したいという願いが私を労働へ向かわせている。うまいのかうまくないのかといえば、うまいことは間違いない。なぜなら私はどんな酒を飲んでもうまく感じる都合のよい舌を持っているからだ。かといって、何を飲んでも同じかといえばそうではない。うまい酒はよりうまく感じるにちがいない。

フロム・ザ・バレル 500ml

フロム・ザ・バレル 500ml

 

 

と、これだけつらつら挙げてみると、労働意欲が湧いてくるかと思いきや、実際の給料というものは、生活費やら保険の支払いやらで痛々しく削られてゆくものだから、この中のどれかひとつを手にするのさえ危ういほど、まだ私の未来は澄み切っているわけではない。とすると、私に残された数少ない手段といえば、たとえばAmazonの欲しいものリストを公開して、偶然宝くじが当たってお金の使い途に困っている方が、哀れみの心からひとりの貧乏人にお恵みをくださることを祈るという他力本願なやり方くらいであろう。

気になるあの娘の給食を

四時限目の終わりを告げるチャイムが鳴ると教室は一斉にがやがやと騒がしくなる。班ごとに机を向かいあわせる。給食の時間が来たのだ。給食当番の班はみんな白衣を着て帽子をかぶっている。私は友達と連れ立って手洗い場へ向かう。

手洗い場はこの階にはふたつあった。それぞれ廊下のいちばん端にある。だから私たち一組と、隣の二組は東側の手洗い場を、三組と四組は西側の手洗い場を使っていた。手を洗ったあとはいつも、私はお気に入りのドラえもんのハンカチで手を拭いていた。一方で女子たちを見るととても手を拭くのさえ躊躇われてしまいそうな上品で可愛らしいハンカチを取り出していて、私は自分が恥ずかしくなる。

そんな風にしながら私は人の出入りするにぎやかだけど少し広々とした教室で、友達とゲームの話などしながら、給食当番たちの戻るのを待つのだった。好きなはずのゲームの話も、そのときは頭に入ってこなかった。それはその日の給食が大好きなハヤシライスだったせいではない。その日は気になるあの娘が給食当番だったからである。

私はそんな年から面食いだった。ほとんど話したこともない、ただ顔がタイプだというだけの女の子のことを、いつも目で追っていた。そうしてそれを恋のように思っていた。けれど、小学生の恋なんて、みんなそんなものなのかもしれない。

私のいたクラスでは、給食当番がずらりと配膳台の奥に並んで立ち、生徒たちは手荷物検査のようにおぼんを持ってその前を通過するというシステムだった。それぞれおかずやごはんの係りの者が、ひとりひとりに配膳をし、一番最後まで通過したときには、おぼんの上にすべてが揃っているというわけだ。

そうして給食当番の分に限っては、周りの誰かが代わりにもう一度配膳台へゆき、一式盛り付けを施されたあとで、その当番の人の机に置いておくという助け合いの制度をとっていた。つまり私は合法的にあの娘の給食を配膳することができたという訳だ。もっともそれをしたからといってどうなる訳でもなかったし、給食当番は仕事に夢中で、誰が自分の分を用意してくれたのかなんて気づいていない場合が多かった。けれど私は何故だか他の誰にもその権利を渡したくなかったのだ。

銀のおぼんを抱えて、あの娘の席まで歩くとき、誰にも気づかれないようにドキドキした。そうしてあの娘の席まで辿り着き、机の上に小さな少女漫画の落書きを見つけたなら、いつも大人しいあの娘が少し、自分に似ているような気がして、嬉しくなる。かたん、とおぼんを机に置いて、そそくさと自分の席に戻る。やがてみんなが席に着いたら、手を合わせて一斉に食べ始める。ゆっくりとスプーンを動かすあの娘の姿を、ななめ後ろから見つめて、また、嬉しくなる。

 

今週のお題「給食」

貧乏だから家で餃子をつくる

ビールといえば餃子。餃子といえばビール。このふたつはまるでラブコメにおけるツンデレな幼馴染のように切っても切れない関係である。

数年前、初めて地元に餃子の王将ができた。田舎者は大喜びだった。毎日開店時間前に店の前で行列ができていた。「みんなして餃子餃子って呆れたものだ」と別段餃子が好きな訳でもなかった私はいつも王将の前を通りながら冷ややかな目で見ていた。

そんな私が餃子とビールの相性に気づいたのは、ツンデレの幼馴染がようやくデレ始める展開くらい遅かった。しかもそのきっかけは「ワカコ酒」のドラマを観たことである。

ワカコ酒」といえば女の子がうまそうにお酒を飲むことで一世を風靡した美食漫画であるが、漫画のファンだった私は律儀にドラマ版もチェックしていたのだ。ドラマ版に関しては賛否両論あるだろうけれど、食べ物のうまさを表現するという点においてはやはり映像の方に軍配が上がる。

友人の家でお酒を飲みながらたまたまそのドラマの餃子の回を見ていたところ、あまりに餃子が食べたくなってしまって、王将まで走ったのを憶えている。

ワカコ酒 DVD-BOX(4枚組/本編Disc3枚+特典Disc1枚)

ワカコ酒 DVD-BOX(4枚組/本編Disc3枚+特典Disc1枚)

 

 そんな私が上京して、東京には王将以外にも沢山美味しい餃子屋があることを知り、休日の昼間などは餃子を食べに出かけたいと思うことがしばしばあるのだが、なんせ私はお金がない。いつも餃子屋の前を通るたびに目を伏せて、頭の中に浮かんでくるあのこうばしい香りとビールの喉越しを必死でかき消して、通り過ぎるほかなかった。

ところが昨日、いよいよ餃子を食べたい気持ちが抑えられなくなってしまい、けれどもお金がない……。そうしてあることに気がついたのだ。

「自分で作ってしまえばいい」

レシピは調べれば簡単に出てきたし、具材をこねて皮に包んで焼くだけだという事実を知り、これまで勝手に上がっていた餃子づくりへのハードルが一気に下がった。

早速取り掛かることにする。

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仕事を辞めたらすぐにハロワに行かないと後悔する

私は今年の始め、仕事を辞めた。しかし、役所の手続きや引越しの準備に追われて疲れていたのもあり、ハロワへ通い始めたのは退職からおよそ一ヶ月後であった。結論から言うと、そのせいで、20万円以上の大金を損してしまったのだ。

「ハロワなんて使わずに就職するから関係ない」

と考えている人は、大きな思い違いをしている。ハロワは単なる職業相談の場に留まらないのだ。ハロワを利用しようがしまいが、まずは必ずハロワへ行くべきである。国は、私たちにお金を払わせようとあらゆるところで目を光らせているが、逆に、私たちがお金をもらえるという場面にあたっては、向こうからは何の報せも寄越してくれないのだから。ずるいシステムだが、「法律で決まってますから」と言われれば、役所の人に何を言おうがどうにもならないし、私たちは出来る限りの予備知識を持って物事にあたるしかない。

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noteで小説を書くのが楽しい

noteというサービスをご存知だろうか。まだ数年前にできたばかりなのだが、これだけ情報が氾濫する社会の中で、シンプルにクリエイターが写真でも音楽でも文章でもなんでも投稿できるというサービスである。noteには投げ銭システムがあり、それで大儲けしている人もいるらしい。お金絡みの話で、最近少し悪い方で話題になることがあるnoteだけれど、私にはあまり関わりのない話なので気にかけていない。

私がnoteを始めたのは一年半ほど前で、Twitterのフォロワーさんがたまたまやっているのを見かけて自分も登録してみたのだ。まったく使い方が判らなかったが、シンプルな画面と、人の少なさが心地よくて、なんとなくツイッターとブログの中間のような使い方をしていた。

noteにはTwitterでいうところのふぁぼ(いいね)や、はてなでいうところのスターのような機能がある。「スキ」というものだ。この「スキ」というのにキュンとしてしまって、私はnoteが好きになった。

私はnoteでポエムを書くようになった。酔っぱらうと私の指先は訳もなくキーボードの上でタップダンスを踊り始めるのだ。そんなときに書き散らした文章を、ブログに載せるのも迷惑だし、Twitterに載せるには長すぎるし、まさかFacebookやLINEに晒す訳にも行くまい。私はnoteを酔った時の感情を吐き捨てる場所として使うようになった。noteは私の精神安定剤だった。ときどき誰かが「スキ」をつけてくれるのが嬉しくて、ますます酔っぱらう夜が続いた。

さて、そんなnoteでは、密かに小説界隈が盛り上がっている。ネットで小説を発表する場として、ブログもpixivも小説家になろうも、私にとってはしっくり来ないものだった。ブログで書くには、なんだか周りとの空気感があまりに違いすぎるし、pixivも、やはりイラストがメインというイメージが拭えない。小説家になろうとかそれに似たようなサイトは閉鎖的だし、投稿されている数が多すぎてなんだか開くのが億劫になってしまう。第一、ネットで発表される小説は、いわゆるラノベ系統のものが主流で、私のような果たして小説とも散文詩ともつかないタップダンスの足跡は、発表なんてするべきでなくパソコンに眠らせておくのが賢明だと思えてしまう。

だからnoteにした。なんだかnoteの人はみんな優しいのだ。空気感がとてもよい。書くのが好きで、読むのが好きな人たちが集まっているのだろう。誰にあてるでもなくnoteでひたすら詩作にふける人を見つけたりすると、私は舌なめずりをする。

今、noteで行なわれているショートショートフェスティバルというイベントが面白い。2000文字以内の短い小説を発表しあうというものだ。私も参加してみたのだけれど、それを通じてこれまで知らなかった方を知ることができたり、逆に何人もの方にフォローされたりして、小説が好きな人がnoteには沢山集まっているのだと改めて思い知らされた。

note.mu

このイベントも、別に運営がやっている訳ではなくて、noteで作品を発表しつづけている海見みみみさんという一人のクリエイターの方がすべて管理されている。おまけに参加した作品はすべて同人誌にまとめるのだという。自分の書いた文章が紙に印刷されるというのはそれだけで嬉しいものだ。思わず注文してしまった。これだけ多くの方の文章をまとめて読める機会というのはそうそうないものだし。

ネット上では、音楽や動画、イラストと比べて、小説というのはやはり盛り上がりにかける部分があるけれど、こうしたイベントを通して、文章を書く楽しさや読む楽しさに気づく人が少しでも増えたらいいと願うばかりである。

 

ちなみに私は二作品投稿してみたのだけれど、どちらも酒と煙草と失恋の香りのする話になって、自分の引き出しの狭さにかなしくなってしまった。

note.mu

note.mu

社会復帰を果たして最初の一週間が終わった

金曜日の夜だ。最高の瞬間だ。この感覚を味わったのは数ヶ月ぶりである。地元にいた頃はいつも金曜日になると私は浮き足立っていた。帰ったら友達とお酒を飲めるからである。仕事中でもどんなお酒を飲むかとかどんな料理を作るかとかそんなことばかり考えていた。もっとも金曜日でなくても、お酒自体は毎日のようにひとりで飲んでいたんだけれど。

私にとって労働とは、賃金をもらうために仕方なくすることであった。一日のほとんどを奪ってしまう不自由の最たるものだった。世間から身を隠すためのむなしい鎧であった。だから私は働かなくて済むのなら永遠に働きたくなどないと思っていたし、日がな一日パソコンの前にいたり本を読んだり文章を書いたりときどき散歩に出かけたりして、それで暮らしてゆけるならそんなに幸せなことはないと思っていた。だけどそれを叶えるためには私のブログから得られる収入では到底足りそうもなかった。そんなもの国民健康保険料を払えばすべてなくなってしまうからだ。

そういうわけで私は地元にいるあいだ、別段興味もないような仕事をしていた。慣れてしまえば楽な仕事だった。休みも多かったし、残業などまったくなかった。仕事中にラブホテル街に営業車を停めて昼寝をしていたこともある。だけど給料は安かった。生活がとても成り立たなかった。働けば働くほど私の貯金は少なくなっていった。危うく破産する直前で私は仕事を辞めたのだ。

次に就いた仕事は倍の給料がもらえた。だけど今度はきつかった。暇な仕事ほど苦しいものはないと思っていたけれど、そこで勤め始めて考えが180度変わった。少しでいいから休みたい、もう解放されたい、そう思いながら私は耐え抜き、前よりずっと沢山もらえたはずの給料はストレスによるやけ食いと引越し資金とで泡沫のように消えた。

この世でいちばんいいのは楽で給料が高い仕事だ。次にいいのは楽で給料が安い仕事か、あるいは大変だが給料が高い仕事。これは人によってどちらを優先するかが変わってくるだろう。最後に、大変だが給料も安いというおそろしい仕事が続く。そうして私はずっと、楽で給料がたくさんもらえる仕事にばかり目が行っていた。そんな仕事あるはずないと思いながら、周りの人間にもある程度妥協を覚えることを諭されながら、やっぱり自分の人生をあきらめきれないでいた。周りの友達はなぜか楽で高収入のやつが多かったし、それを聞いて爪を噛むばかりの日々だった。

ところが私は気付いたのだ。世の中でいちばんいい仕事は、楽で給料が高い仕事などではないということに。いちばんいいのは、「楽しい仕事」だということに。それはどんなに楽な仕事よりも、あるいは働かずに親の脛を齧り続けているニートよりも、貴いものだ。どんなに楽な仕事だって、どうせ労働時間中は少なからず拘束されているもの。どうせ一日の半分以上拘束されるんなら、それが楽しいに越したことはない。それが自分の人生を豊かにすることに繋がるに越したことはない。そんな甘い話があるものか、と人は言うだろうけれど、「楽しい」という定義も感情も、人によって違うものだからこそ、自分に合った仕事さえ見つければ、きっと明日はあかるくなるはずだ。単純に楽なだけの仕事というならば、そのポストを多くの人が争うかもしれないが、「その人にとって楽しい仕事」であれば、それは、人の数だけ世の中に存在しているのだから。捨てる神あれば拾う神ありという感じで、不思議なほどに人生は流れ着くところへ流れ着いてしまうものである。私は終わったはずの青春を思い返すばかりの灰色の日々を越えて、ようやく労働というものに一筋の光を見出すことができそうだ。

文芸フェスで夜の丸の内へ行ってきた

風のさわりが肌に優しくなり始めた早春の宵、ようやく社会復帰した私は久しく終業後の心地よい気だるさを引きずりながら、中央線の上り電車の混み合う車内へ乗り込んだ。向かう先は東京駅丸の内ビルディング。今宵はなにやら文芸フェスなるイベントが行われるというのだ。

東京の人は贅沢である。こうした素敵なイベントが、夜な夜なそこいらで行われていて、簡単に足を運ぶことが出来るというのだから。

登壇するのは小説家の川上未映子さんと、イーユンリーさんという海外の作家であった。実は私はふたりの作品をまったくと言って良いほど読んだことがないのであった。川上未映子さんの作品であれば図書館に行った折に数冊パラパラとめくったことがあるが、腰を据えて読んだという記憶はない。ただ私は美人作家を生で見たいというみだらな発想でもってわざわざ慣れない都会の真ん中へ赴くことを決めたのだ。

というと少し道化が過ぎるだろうか。実際のところ、対談のテーマである、翻訳によって文体やリズムはどこまで届くのかという話に興味を誘われ、ひと月ほど前、まだニートだった私は軽い気持ちで参加予約を申し込んだ訳である。

仕事の都合で途中参加となってしまったのだが、イーユンリーさんという方は英語で話されるため、入り口で同時通訳用のヘッドホンを渡されて、そんな経験もちろん初めてだった私は、何やら間違って国連会議にでも迷い込んでしまったのかと思い気おくれしながら会場へ入ったのだった。

内容については私のような無学な人間が口を挟む余地もなかったけれど、例えば川上さんの言う、文学における翻訳は単なる言葉の意味をたどるばかりではなく、時には文脈が変わったり全く遣われていない言葉を遣われることがしばしばあり、それは自分がその作品を読んで得られた体験を、どうにか別の言語でぴったり表そうとした結果なのだという考えには、翻訳者の方のもどかしさを感じられた。私は滅多に海外文学を読むことがないんだけれど、それは翻訳なんて所詮作り物だという偏見を持っていたからに違いない。文体至上主義の私には、書き手の肌ざわりがじかに感じられないであろう海外文学は、どうしても敬遠されたのだ。どうにもあいだに翻訳者を挟むことが、ひとつの壁を作ることのように思えたのだ。しかしそれでは字幕の映画しか見ないと言い張る偏屈な大学生と変わりない。声優も翻訳者も、単なるボイスチェンジャーや電子辞書のような機械ではなく、それぞれが職人としてむしろ原作を越えようとさえもがいて作品づくりに臨んでいるはずなのだから、そこに優劣という概念を持ち込むのが甚だおかしい話である。

また御二方は創作にかかるにあたって、どんな話を書こうというテーマをはっきりと決めてしまわないのだという。それをイーさんは地図を描く行為だと喩えていた。行き先の決まった運転より、どこへ行くか分からないドライブの方が楽しいものが出来るに決まっていると。それは全くその通りである。私のような人間は、久しく労働者と名乗る権利を取り戻して、立ち寄った東京駅八重洲口から少し歩いたところのネパール料理屋で、名も知らぬビールやらラム酒やらを流し込み、明日のことすら考えられなくなるほどに思考の回らない状態で、書き始めと書き終わりすら何も決めずにこの文章を書き出している始末である。考えずに書いて何か煌めかしいものが生まれるならば、それがいちばんであるが、そんなことができるのはきっと天才と呼ばれる方々のみで、私はそれに該当しない単なる文字叩きの酔っぱらいであるから、何ら関わりのない話だったのかもしれない。

さて、私のもっとも知りたかったことといえば、文字書きとして一流な彼女らが、推敲の猶予さえない、この生の現場において、果たしてどのような話を展開できるのかということであった。要するに文章が面白い人は喋りも面白いのかということだ。特に川上さんなんて文体のリズム感が音楽的だなんて言われるくらいだから、きっとポンポンと息をするように詩を生み出している人なのかと思ったら、案外普通のねーちゃんといった面持ちで上品に受け答えを済ませているものだから拍子抜けした。

やがてイベントが終わり会場の外では御二方の作品が沢山売られていて、そうして売れていた。私は買わなかった。なぜならお金がないからだ。お金がないのに本を読むというのは、パンがないならケーキを食べるというくらいありえない話で、誰にも理解され難いであろうから、せめてこのひと月の生活がうまくいき、給料というものを手にしたあとで、本屋にでも足を運ぼうかと思う。

 

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すべて真夜中の恋人たち (講談社文庫)
 

 タイトルが素敵だから一度読んでみたいと思っている。