或るロリータ

A Certain Lolita

妹が女子高生じゃなくなってしまった

春はかなしい季節である。制服姿の学生が、卒業証書片手に歩いているのを見ると、決して何にもなかったけれど、なぜだか心にいつまでもわだかまりつづけているあの青春のころを思い出して、毎年のごとくに私は胸を痛める。

三月は私には無関係の、全国の中高生が別れに涙するだけのあっけない春の日にちがいなかった。しかし今年は妹がその当事者であったから、目をつぶって通り過ぎてしまえばおしまいという訳にもいかない。もちろん私はひとりで上京した身だし、明日の晩御飯にも困っているような有様だから、淋しくも彼女が巣立つ姿を直接目にすることはできない。だからせめてと彼女の写真を一枚送ってもらい、彼女が当たり前に三年間身につけていた、見慣れたはずの制服姿が、私が家を空けた隙にもう陽の当たらない箪笥の隅で、二度と取り出されることのなくなってしまうという逃れようのない事実にひとりふるえている始末である。

妹はひどく涙したらしい。彼女、案外涙もろいのだ。普段はつめたい女を気取っている癖して、心のうちでは熱いのだ。私の方がよっぽどつめたいだろう。私は卒業式などで一度だって泣いた試しがない。斉藤由貴の歌っていた通りだ。

あの日、卒業式のあと、下駄箱で脱いだ上履きをビニール袋に仕舞い、少し向こうで私を待っている両親の方へと照れくさそうに歩いて行った。桜はまだ満開には遠かった。父親の運転する車に乗って、滅多に行かない中華料理屋へ行き、チャーハンを食べた。私の制服のボタンはすべて欠けないままだったし、奇跡のような放課後のロマンスもなかった。天井に吊り下げられた小さなテレビで流れるワイドショーを見ながら、かしこまった服を着た両親と、いつもと変わらぬふりをした私とで、白く止まった名前のない時間を過ごした。

人生のうち、たった三年間。たった三年間の中学時代が、何故だかその後のもう指折り数えるのさえ億劫な長い長い季節を越えて、なおも鮮明に思い起こされるのは、歪んだ形であれど、こんな私にとってさえ特別な期間だったからであろう。妹にしてみれば高校時代の三年間も含めた、計六年間が、紛れもない青春であったはずだ。青春の熱量はすさまじい。人は生まれたときから青春を追いかけて、そうして死ぬまで青春を引きずってゆくものなんじゃないだろうか。不思議とそれが心の中で大きく膨らみ始めるのは、何もかも過ぎ去って、二度と手に入らなくなってからのことであるから、報われぬ恋文でも書いてこの想いはどこか菓子箱の中にでも仕舞っておくしかない。

妹も今、あの頃の私のような気持ちでいるのかもしれない。彼女は人生で初めて髪を染めた。美しすぎた長い黒髪はありふれた街の風景になってしまった。人々に埋もれながら、上手に大人になることを彼女は選んだのだ。きっと彼女なら、最後に流した涙の痕もすぐに乾いて、どうか青春と折り合いをつけて生きてゆくことだろう。

 

スクールガール・コンプレックス SCHOOLGIRL COMPLEX 3

スクールガール・コンプレックス SCHOOLGIRL COMPLEX 3

 

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今日でニートを辞めることになった

 ニート生活を始めて二ヶ月近くが経とうとしている。

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 自由にはちがいないけれど不安でいっぱいだった。際限のない自由はもはや自由ですらないことを知った。そんな期間だった。

どんな失敗も、どんなに無意味に思える時間も、あとで思い出にさえ変えてしまえればすべてチャラになる。それが私の考えだ。未来の自分に、すべてを賭けてみるというわけだ。いつか光が見えてくると信じて、真っ暗なトンネルをやみくもに進み続ける。

働いているあいだは、毎日、仕事を辞めたくて仕方なかった。世間でニートなんてやってる呑気な連中が羨ましくて仕方なかった。けれど、実際に職を失ってみると、お金もないし、ハロワにも通わなければならないし、心身ともにすり減っていく一方で、会社員をやってる方がよっぽど気楽だと思った。ニートは偉大である。

そんな私も、明日より晴れて社会復帰を果たすこととなった。

決して安定した仕事ではないし、苦労するであろうことは目に見えている。結果も求められる世界だ。けれど、これまで経験してきた職業の中ではもっとも自分のやりたかったことに近い仕事に携われそうで、密かに燃えているところである。

最終日くらい、ニート生活を楽しんで、パーっと祝い酒でも飲んで締めくくりたいところだけど、貧乏生活は当分続きそうだし、大好きなお酒を買えるのはまだまだ先になりそうだ。

現在午前一時半。もう、ニート最終日は二十四時間を切っている。まだやり残したことは沢山ある。とりあえずこうしてブログで記録兼報告を済ませることはできたから、あとは仕事に備えて読んでおこうと買った本に一通り目を通すことと、書きかけの小説をキリの良いところまで書き進めることと、鞄やらスーツやらを支度しておくことと、それからそれから、考えて行くとあまりに不完全な自分にまた不安が募ってくる。こんなので働いてゆけるのだろうか。だけど、きっとどうにかなる。判らない時は、もう何も考えずに、とりあえずやってみるのだ。それで、これまでどうにかなってきたのだから。

何はともあれ、あと一日。終わるのが判ると、少し恋しい。人間とは、不思議なものだ。大して話したことのないようなクラスメイトでも、「明日で転校する」なんて言われると、どこか淋しくなってしまうものだし。

夏が好きすぎて写真集を作ってしまった

私は夏が好きである。何よりも夏が好きである。夏という季節に関わるすべてのものが好きである。このブログを始めた頃もちょうど夏の手前で、夏に関する記事を毎日毎日書いていたのを憶えている。だから、夏が好きだという人に出逢うと嬉しいし、その気持ちを共有したくなる。きっとアイドルの追っかけをしている人と似たような感情なのかもしれない。恋とか憧れとか崇拝とか色んなものに突き動かされて、私は夏を求め続ける。

そんな私の趣味といえば、へたくそな写真を撮ることとへたくそな文章を書くことと、あとはお酒を飲むことくらいしかなくて、どうせならその趣味を遣って何かを生産した気になりたいと思い、本を作ることにした。というか、作った。

 

表紙はこんな感じ。

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写真集といっても、サイズはCDジャケットよりふた回り大きいくらいで、紙質もそんなに丈夫ではない。映画のパンフレットくらい。

中身は主に去年の夏に撮りためた写真の中から良さげなやつをいい感じにレイアウトしており、全部で36ページ程。

写真のみをでかでかと載せてるページや、お得意のクサいポエムを飾ってるページ、あとは文章中心のページも混ぜつつ展開している。

ちなみに、過去の記事やnoteの方に載せたものも一部使い回している(気に入ってるからしょうがない)。

 

 

中身の一例。

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本当はもっと上等な卒業アルバムみたいなレベルのものを作りたかったけど、なにしろ予算が足りない。だってニートだもの。良く言えばコンパクトで持ち運びやすい。良く言えばね。

 

早く夏が来ないかなあ。

なぜネットサーフィンをしているときは時間が一瞬で過ぎるのか

インターネットは便利なものである。指先ひとつで世界中の情報を簡単に得られるからだ。ネットの海を飛び回るのは誰も楽しい。休日など起き抜けにツイッターを見て、そこで面白そうなリンクが貼られているのを思わずクリックし、そこからまた別の記事に飛んで、と繰り返していると早起きしたはずの休日、気づけば日が昇りきっているなんてこともよくある話だ。そんなとき人は後悔する。絶望する。それはネットサーフィンによって得られたものと、過ぎた時間との釣り合いが取れていないからだ。

学校に通っていた頃は、授業の五十分間が長く感じた。特に苦手な物理の授業ともなると、それは永遠のように感じられた。大好きな国語の授業であればまだその時間に意味を見いだせるものだけれど、それでも五十分は五十分だった。

ところが一歩外に出ればどうだ。急に時計の針を押さえつけていた悪魔のやつが指を離してしまったように、みるみる時間が過ぎてゆくではないか。帰宅中の道のり、スーパーでの買い物、家に帰り着いて、鞄を下ろし、制服を脱ぎ、と、そんな時間でさえ、何故かあっという間に過ぎてゆくではないか。

音楽を聴いたり、本を読むのが日課だった。楽しい時間は早く過ぎるというが、まったくその通りで、家に帰り着いてから、まず時計を見て、寝るまであと五時間、そして本を読みながら、あと四時間半、音楽を聴きながら、あと四時間、ご飯を食べながら、あと三時間半、とカウントダウンをして、あまりの自由時間の少なさに癇癪を起こしたい気持ちになる。

たとえば神様が世界をおつくりになったのなら、どうしてこうもそこここに不条理を散りばめないと気が済まなかったのだろう。まるで猟奇作家だ。悪趣味だ。楽しい時間がゆっくり過ぎて、辛い時間がさっと過ぎるのでは、いけなかったのだろうか。

と、嘆いても人生ここまで来てしまった以上、自分自身で後悔の種を蒔かないように留意するほか仕様がない。そう言いながらも私はまたもや、ニートという駆逐されるべき身分でもあるに関わらず、はりぼての自由に縋るような行為に逃げてしまったのだ。

目醒めは七時半と早かったにもかかわらず、昨日読み損ねた一日一話更新のNARUTOのアプリで漫画を読んで、二度寝はせずに済んだものの、布団を這い出てお湯を沸かし、常飲の漢方を飲みながらパソコンを起動、メールのチェックを済ませたあとで2chとテレビの旅番組とを交互に見ながら一時間、まだ九時だ、と自分に言い聞かせながらパソコンを閉じ、実家に手紙を書きかけてやめ、幾つか物憂げなメモ書きをして紙を丸め、そうしてまたパソコンを開き、食べ忘れていた朝食にとグラノーラを齧りながらまたネットサーフィン。ヒトデさんの記事を観て、昔大好きだったポケモンのことを思い出して郷愁に耽り、そういえばいつまでポケモン観ていたっけ、と、ポケモン主題歌の年表など調べあさり、古い順に聴きながらフェイスブックをチェックする。そこでふと長らく会っていない従姉のことを思い出し、試しに彼女の名前で検索してみると、偶然にも彼女がフェイスブックをやっているのを発見する。あのころあんなに慕っていた頭のよくて優しかったお姉ちゃんはすっかりケバケバしいギャルになってバンドの追っかけをしたりコメント欄で男と下ネタをやりとりしていたりして悲しくなる。彼女と仲良くしていたころの純粋な私には決して教えられない未来である。そうして今の私自身の姿も、もちろんあのころの私には見せられない。そういえば今日は土曜日だ。あのころは確か土曜日は午前中で学校が終わって、学校で配られた蜜柑ジュースを飲んで家に帰ったっけ。昼から何して遊ぶ?なんて友達と話しながら。次々湧いてくる懐古の渦に戻ってこられなくなりそうで、またポケモンの曲を再生したら、余計死にたくなったからネットサーフィンはだめだ。

故郷の言葉で話せる相手

故郷の言葉で話しているとき、私は早口になるらしい。

東京は田舎者の寄せ集めだと言うけれど、出てきたばかりの私には、誰が根っからの東京人で、誰が自分と同じ田舎者かなんて、一切判別がつかない。生活はスマートだし、着ている服もお洒落だし、言葉も自然な標準語に聞こえる。私にはみんな、都会の人に見えるのだ。

敬語で話す相手には、方言を遣う機会がないから、あまり不自然がられることはないのだけれど、そうでない相手や、あるいは敬語であっても、話の内容に熱中してしまったときなど、ふとした拍子に方言がこぼれてしまうことがある。まったく、都会人ぶるのには骨が折れる。

いち早く上京している友人を訪ねた時、私は心許して、はなから故郷の言葉を遣う。そうしたら、相手も、「懐かしいなあ」などと言いながら、言葉を崩し始めるのだ。少なからず誰も、普段はどこかで気を張り詰めているようだ。懐かしい友人に会ったとき、私は心から安心する。やっぱりコレだよな、という感じでわざとキツい方言を多用したりする。二十年以上住んでたんだから、そう簡単に遣う言葉を変えられるはずがない。

家族と電話をしたときなども、それは同様だ。ずっと寒風に吹かれながら歩いていて、ふっと暖かい部屋に入ったような、心のくつろぎを感じてしまう。ずっと当たり前のように過ごしていたあの暖かい部屋、ふるさとは、私の精神を大きく支えていたものらしい。人は、部屋の中にいるうちは、外の寒さになど気付かないものだ。

先日、数ヶ月ぶりに家族と再会した。(参照: 久しぶりに家族に会った - 或るロリータ

家族はどうやら、私がひどくやつれて痩せ細っているものと思っていたらしく、大して風貌に変化のない私に、ほっとしたような感想を漏らしていた。

それに対して、「そんなすぐ変わらんっちゃ。」なんて言葉を返せるのが嬉しかった。

どんなに遣う機会が少なくなっても、やはり方言は記憶の箱をひらく鍵だ。

 

今週のお題「方言」

夕暮れの玉川上水沿いを散歩する

ニートにとって一番の問題は、運動不足である。ハロワに呼びつけられたり、食材を切らしてスーパーへ出かけたりする日であれば、往復二十分ほどの道のりを歩くことはあるんだけれど、何の予定もない日には、まったく陽の光を浴びずに一日を終えるなんてことも珍しくない。

というわけで、気まぐれに散歩をすることにした。太宰治が入水自殺を図ったことで知られる玉川上水沿いを歩いてみる。

川岸に鴨を発見。 

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今夜は鴨鍋にしようか……なんて考えてしまった。貧乏は心まで貧しくしてしまうようだ。

 

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少しずつ空の色が変わり始めた。

雲や建物も西陽で色づいている。この時間帯の空が一番好きだ。

 

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目にしみる夕陽。

あまりに美しすぎて、今の私なんて、存在ごと浄化されてしまいそうな気がした。