或るロリータ

A Certain Lolita

初恋が叶わなかったすべての大人に捧ぐ

昔にもどってやり直したい。そんなことばかり考えていた頃があった。まだ世間から見れば青春と呼ばれる季節に身を置いていた頃のことだ。

子供と大人との境目がはっきりと存在しているはずはなくて、人は段階的に大人になってゆくものだと思うけれど、少年時代の延長線上にあるはずの今の自分が振り返っても、なぜだかあの頃と今とが地続きにあるとは思えない。

過去の自分に対して「子供の頃」という形容を初めて使ったのは、中学二年生のときだろうか。私はそれまで自分自身が子供であることに何の疑いも持たなかった。親に守られ、実家の中であたたかく暮らし、毎日学校へ通う。そのことに不満も納得もなかった。それが世界のすべてだと思っていたからだ。

あるとき急に人と話せなくなった。それまでも授業中にクラスメイトの前で発表したり、好きな娘と二人きりになったり、特定の状況においては緊張して声がふるえることはあったけれど、決して毎日何かに怯えながら暮らすようなことはなかったし、自分の弱さを恥じながらも人と接することは好きだった。私はどこまでも目立ちたがり屋で、だけど目立つほどの度量もない自分が悔しくて、もがいてばかりいた。

そんな性格が災いしたのだろうか。あがり症の最たる原因は、「失敗するのが怖い」=「人に良く見られたい」というところにあると聞いたことがある。私は人に良く見られることにとにかく固執していて、人前で先生に褒められてクラスメイトから尊敬のまなざしで見られる瞬間がいちばん幸福だった。学校行事にはとにかくムキになって取り組んだし、何かあれば少しでも面白い発言をしようと努めた。クラスで人気者のサッカー部や野球部のやつらや、生徒会長を務めるような器のやつには到底敵わなかったが、それなりに自分を愛せるくらいの評価は得られていたはずだ。

だからこそ、中学生になってから、徐々に勉強や部活動の成績、それに容姿や流行へのアンテナといった、真っ当な部分に評価の軸が移り始めると、どこかで取り残されている感覚がし始めた。小学校のあのにぎやかな教室の中で、宿題を忘れるバカなやつ、給食を何杯もおかわりする太ったやつ、運動神経抜群の爽やかなやつ、計算だけは得意なやつ、やたらと字の上手いやつ、バレエを習っていて身体のやわらかいやつ、そういった多種多様なキャラクター達が集まった個性の許される空間、一側面だけで愛されるか否かが判定される単純な組織のあり方は終わりを告げたのだ。

大人になればなるほど人は総合点で評価されるようになって、それは私にはひどくつまらないことだった。周りと同じ基準をクリアしつつ、その中でわずかな個性を飾りつける。それが上手な生き方とされ、さらに恋愛というものが遠いメルヘンからいっぺんに明るみに出て、それ以降恋愛が生涯を通して課される大きな宿題となる。

小学生の頃、私には好きな女の子がいた。近しい友達以外には公言していなかった。なぜなら小学生時分の、特に男子にとって、女子はいわば敵対する存在で、女子と仲良くするだけで指をさされるものだったからだ。今思えばそこには嫉妬に近い照れ隠しのような、巨大な同調圧力が働いていたのだろうが、とにかくその頃の私にとって好きな女の子がいるなんてことは、口が裂けても認めてはならないことなのであった。

だからその娘と二人きりで逢ったときには、いけないことをしている気持ちになって、だけどそこには確かによろこびがあって、だけどそれは背徳感のまじった甘苦いよろこびで、だから周りの友達に対して優越感も何もなかった。それが中学になった途端、今度は「恋人の有無」が一気に最強のステータスになり、これまでひた隠しにしていた恋心は、打ち明けても構わないものとなった。だが、長年に渡り無理矢理に心を押さえつけて過ごしてきた少年が、急に自分の恋心との付き合い方を変えられるものだろうか。彼女との関係に何かしらの進展を起こしたいと思いつつも、その術がわからず、相変わらず私は「女子と話すことが恥ずかしい小学生」という忌まわしい貨物を積んだまま、青春という長いトンネルに突入した。

中学一年生のあいだは、同じ学年の中で恋愛関係に発展する者もほんの一組二組で、そのたび学年じゅうのニュースになって、羨望の混ざったひやかしの目線の方が強かった。二年生になるとカップルの数も増えて、もちろんそうでない者の方が多数派ではあったのだが、どこかに感じている劣等感のためか、色恋沙汰をからかう声は少なくなった。そして三年生にもなると、恋愛経験の有無で確実に差が出てくる。未経験の者は、「そもそも付き合うってなんだろう?」「あいつらは付き合ってどんなことをしているのだろう?」そんな疑問ばかりで勉強も手につかず、何もかもが未知の世界のまま身体だけが成長してゆく淋しさにうろたえる。一方で既に特定の相手のいる者は、もはや初めて出来た恋人の存在というものに浮かれるだけの期間を経て、次に将来のことを考え始める。すぐに結婚という言葉を持ち出すのはまだ中学生らしいと微笑ましくなるかもしれないが、一度くらいそうして責任の所在を自分の中にも感じることのできる経験というものは、必ず人を強くするものだ。

その時期になると、仮に手を繋いで歩くふたりに口笛でも吹こうものなら、「何子供みたいなことやってんだ……」と呆れられることは必至で、大人になる方法も分からない者の前で、大人になるための準備に頭を悩ませている者もいるという極端な構造が完成する。もちろん私は前者だった。

昔にもどってやり直したい。もっとも強くそう思っていたのはこの頃だろう。「中学生ごときで何そんなこと言ってるんだ」そう思われても仕方がない。現にその頃親からよく「人生まだ長いんだから、悲観する必要はない」なんて言われていたし、今思えばその通りなんだけど、それでもいちばん時間を巻きもどしたかったのがあの頃だということは変わらない事実である。

幼稚園か、せめて小学生にもどれたらいいのに。いつもそんなことを思っていて、でも、もどれたら何をやり直したいかというと、それは勉強でも運動でもなく、好きな娘との関係だった。どこかの分岐点で別の道を選んでいたら、きっと今あの娘が隣にいて、私だけに微笑みを向けてくれていたのだろう、そんなありもしないことを考えては憂鬱にベッドに沈み、高校に入る頃にはもう、私はすっかり青春を捨て去った人間になったつもりでいた。

もどりたい。けど、もどれない。それがいちばん辛かった。私が欲しいものはお金でも名声でも大企業への就職内定でもなく、過去へもどることなのだから。そして、それはどうしたって手に入りっこないってわかっていたのだから。

孤独に磨耗されながら私は高校を卒業した。それから就職して、流石に初恋の思い出なんて薄れてしまったが、やはりどこかに「もどりたい」という思いはいつもあった。

だが、最近、「もどりたい」と思う回数が極端に減っていることに気がついた。強いて言えば、故郷にもどりたいと思うことはあるが、過去にもどりたいと思うことはほとんどない。仮にもどったとして、今の状況と同じか、もしくはそれ以上の状態に持っていくために、また同じような努力をして、同じような選択肢を間違えないように選び続けて、そんなこと考えていたら途方もなくて、とてももどってやり直す気になどなれないのだ。本当はもう、もどりたくなんてないのかもしれない。

私が欲しかったのは、あの娘自身ではなかったのだ。私が欲しかったのは、何かをやり遂げたという感覚。引きずっていると思っていたのは、あの娘を手に入れられなかったことではない、何もせずに終わってしまった自分への不甲斐なさだ。後悔は消せないものだと思っていた。確かにそうだ。だが、やり直せない思い出の上から、やり直したくない思い出を上塗りすれば、もう過去になんてもどれなくなる。前に進むしかなくなるのだ。私は知らず知らずのうちに、そういう道を歩んでいたのかもしれない。

今、魔法が使えたなら、私はもうあの頃になんてもどらないだろう。そんな大層な魔法なんて、使おうにも手遅れなのだ。それでも何か魔法を使うとすれば、出口の見えないトンネルの中でもがき続けていたあの頃の自分に、一言だけこう伝えたい。「未来はそんなに悪いものじゃない。安心して悩んでいいよ」と。

 

 今週のお題「もしも魔法が使えたら」

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