或るロリータ

A Certain Lolita

酔っぱらうということは、憂鬱を先送りにするということである

絶望の朝はいつもアルコールの残り香がする。たとえば楽しい夜があったなら、どうにかその夜を終わらせたくないと思ってしまうのが人間である。そうして夜を引き延ばすために酒を飲み、月曜日から金曜日までのあいだに起きたあらゆるもやもやを、火照った頭の熱で溶かして酒場の喧騒へ流してしまおうとするのだ。

だからといって翌朝になれば、何一つの悩みも残さず清々しい目醒めを迎えられるかといえばそうではない。走っている場所が明るければ明るいほど、急にトンネルに差しかかったときに、その暗さにうろたえるものである。私は酒が好きで、そうしていつも酒を飲んでばかりいるが、未だに酒を飲んだことを後悔しなかった朝はない。それは決まって私が酒を飲みすぎてしまうことに起因する。そして飲みすぎた折に私はことごとく理性をゆるめてしまうのだが、それがよい方向に作用したためしはほとんどない。普段無口な私が酔うとおしゃべりになって、Barで隣の席に座った美しい女性と仲良くなり、ふとももを触るに至ることはまずないだろう。確かに私は酔うとおしゃべりになる。だが喋りたいという欲求が先立つばかりで、頭の回転は鈍くなる一方なのだ。だから、舌がもつれてろくな話などできやしない。酔えば酔うほど私は「つまらない話をべらべらと口にする人間」へと堕ちてしまうのだ。

それは今朝も同じだった。同僚と酒を飲んで語り明かし、金もないのに居酒屋に四時間近く居座っていた私は、それから駅で彼と別れ、ひとりの夜がおそろしくてカラオケへ立ち寄ってしまったのだ。ふるえる指でデンモクを操作してマイクを握り、尾崎豊を熱唱していたときのことなど朧げにしか憶えていない。酔っぱらっていたためかほとんど音程などめちゃくちゃだったし、おまけに喋り疲れた後だったのでひどく喉を痛めてしまった。ドリンクバーの味噌汁とコーヒーを交互に何杯も胃に流し込んだが焼け石に水だった。酔いの熱がすっきりと冷めるのにはまだまだ時間がかかりそうだった。

やがて一時間半が経過して、かすれた声で会計を済まし、カラオケを後にした。そして、さまようように家路をたどり冷たい部屋にころがりこんだ。脱ぎすてたコートを押しのけヒーターにしがみついた。軋まないベッドの上で優しさを持ちよる相手もなく私はひとり眠った。

頭を抱えながら目を醒ました。なんだかよく憶えていないが酔っぱらっていたのだけは憶えていた。おまけに喉が痛い。寒気もする。こんなに一遍に不幸が襲ってくるなんて、よほど酒の席で悪いことをしたのだろうか。月曜日、同僚に顔を合わせるのが少し怖い。酔っぱらった私はかつて「絡み酒」と揶揄されるほど人恋しさ故に人格が豹変していた。だから真面目なタイプの友達にはあまり好かれる飲み方ではなかった。この頃は気をつけて大人しい飲み方をしていたはずなのだが、仕事の話を存分にできる相手を見つけたことと、疲れが募っての久々の酒だったことで、思わず飲みすぎてしまったのだ。そんな自己分析など後の祭り。彼にしてみれば知ったこっちゃない。私はもう考えるのをやめにしようとして立ち上がり、煙草のにおいの染みついたコートをハンガーにかけてファブリーズを振り、お湯を沸かして葛根湯を飲んだのだが、精神も肉体も、陽が昇るにつれてみるみる弱ってゆく。すべての元凶は酒を飲みすぎたことだ。飲みすぎなければ舌がもつれて後悔することもなかっただろうし、カラオケに行くのも我慢して喉を痛めることもなかっただろうし、しっかりと睡眠をとって風邪をひくこともなかっただろう。夜を引き伸ばしたいがために、すべて不健康な選択肢を選んでしまった。先送りにされた憂鬱が今届いて、その憂鬱から逃れるためにまた酒を飲もうとする。……少なくとも風邪が治るまで酒はよそう。そうしよう。この文章はすべてろくでもない私の反省文である。

 

傷つけた人々へ

傷つけた人々へ

 

 

夜の街をドライブしていた頃

まだ故郷にいた頃、私はときどき夜になると思い立ったようにドライブへ出かけた。おんぼろの軽自動車に乗って、街灯もない山道を下って街へ出た。私にとって毎晩の憂鬱とたたかう燃料はアルコールだけだったから、ドライブをするという日には生唾を飲み込んでお酒を我慢しなければならなかった。だけどそれに替えられないくらいドライブは私の憂鬱を吹き飛ばしてくれることがあった。普段仕事で嫌というくらい車を運転していたくせに、やはりあてもないのが良かったのか。好きなところに好きなだけ、意味もなく車を走らせる。まるで夜を切り裂くような感覚だった。

例えば黙って淋しい音楽に耳を傾けていることもあったし、夏には窓を開けて夜風と月明かりに陶酔することもあった。けれどとりわけ好きだったのは尾崎豊を聴きながら大声で歌うことだ。ほとんど車もない寂れた国道線を飛ばしながら車の窓が割れるほどに大声で叫ぶのは、この上ない快楽だった。その日起きたすべての物事が煙草の煙とともに窓の隙間から夜空へ消えていった。

歌い疲れると私はそこでUターンした。そうして今度は尾崎の声に耳を傾けながら車を走らせる。心地よい脱力感と、どこか名残惜しさとで、訳もなくコンビニへ寄り道したりする。普段飲まないコーヒーを買って飲んでいると、私はなぜだか自分が今この世で一番「青年」という言葉がぴったりの存在になったような気がする。大人でも子供でもなく青年だった。

きっと尾崎もそうだろう。彼は一瞬の火花のように生きた。彼の作る曲は単なる少年の希望でもなく、青春の甘酸っぱさでもなく、かといって大人になりきれてもいない、青年という形容がまさに相応しい、その頃私にいちばん似合いの曲だった。人は「今時尾崎なんて」そんな風に私を懐古主義者のような目で見る。けれど自分が恰好良いと思うものに対してそこに世間のものさしなんて必要ない。私を肯定するためには、私一人いれば充分だったのだ。

やがてまた街灯が少なくなってくる。馴染みの山道を走りながら、明日も仕事だなんて絶望が挨拶を交わしてくる。これからずっと生きとおす自信はなかったけれど、もう一日だけならどうにか死なずに済みそうな気がした。そうして一日一日を積み上げてゆくのだ。そろそろ今夜も終わりだ。カーステレオに手を伸ばす。最後に聴くのはいつもあの曲だった。

 

今週のお題「卒業」

歩きながら音楽を聴くのは楽しい

タイムカードを切って、仕事場のドアを開ける。エレベーターを待つあいだ、ポケットからiPodを取り出す。イヤホンを耳に挿して、iPodの電源を入れる。今朝、通勤中に聴いていた相対性理論が一時停止になったままだ。プレイリストをぐるぐる回して、浅川マキを再生する。夜に似合いのブルースだ。月のあかりに照らされながら、ゆったり歩くのにぴったりだ。エレベーターが開いて閉じて、ぐんぐんと降りてゆく。

喫煙所の若いねーちゃんと眼が合った。会釈をして通り過ぎる。深い闇の中で自販機の光に張りのある肌が艶めいてきれいだ。

それから私は駅に向かって歩く。高架下を通り過ぎるとき、既にたくさんの乗客を抱えた上り下りの電車が私の頭上を走ってゆく。駅へ吸い寄せられるように歩く人と、駅から放たれるように歩く人とがすれ違いざまにコートの裾を寄せながら、狭い路地に靴音を立てる。

駅前ではネオンサインや赤提灯が私を誘惑するけれど、今は我慢の時だと目をそらして駅の階段をのぼる。音楽のリズムに合わせて一段一段のぼっていると、ここがまるで私だけの小さなライブハウスになったような気がする。

ホームで電車を待つときも、退屈なんてしなかった。私は電車を待っているのではなくて、音楽を聴いているのだから。と、やがて電車がすべり込んでくる。座る席はないけれど立つのには窮屈しないほどの車内で、私は窓に向かって立ち、流れてゆく景色を見る。夜の街はこうして電車の窓から早送りをしながら見るのがいちばんきれいな気がする。そんなことを思いながら。

いつしか電車が着いて、私はくだんの駅へ降りる。改札を抜けて、小洒落た街並みの中を歩く。今日は鞄が欲しかったのだ。だけどあんまりお金がないから、いくつか古着屋を巡ってみることにしたのだ。初めて通る路地裏の、少し怖そうな男の人と、目を合わせないように肩がぶつからないようにきわめて遠くを歩きながら、私の寄り道は続く。

たぶん、どこでもいいから歩きたいのだ。そんな夜はきっとある。信号が青に変わって、横断歩道をいっせいに人が渡り始める。人ごみの中にいるときがいちばん孤独になれた。私だけのライブハウス、ダンスホール。あの娘がくれたブルースを聴きながら私の夜は終わらない。

空の綺麗な町だった

東京には二種類の人間がいる。それは東京で生まれた人間と、田舎で生まれた人間である。私は後者、東京の空を狭いと思ってしまう方の人間だ。あらゆる場所で人々は持ち寄った故郷の話をする。故郷の話は人と人とをいちばん初めに繋ぐきっかけになる。そうして同郷の人と出逢えた日には、何やら気恥ずかしいくらい安堵して、妙に気取った装いで、互い都会の言葉で話したりする。

私は人生で数えるほどしか、ひとりで酒場へ行ったことがない。淋しがり屋のくせに、臆病者なのだ。ひとりで酒場へゆくのには、たいへんな勇気がいる。あの重い扉を開けるのに、この若くて細い腕はあまりに頼りないのだ。だけどいざ入ってみれば、顔をしかめた大人たちも、案外優しかったりして、後悔したためしはない。

ゆうべ私は仕事を終えて、いつも通り過ぎるはずの駅で降りた。初めて降りる駅だった。ひどい雨の夜だったが、初めての街は美しかった。雨に滲んだ街灯が奇跡のように光っていた。

初めて入った酒場でカウンターに腰掛けて、ウイスキーを頼んでみた。みんなひとりだった。店主や、隣に座っていた人と会話をする。なんだか大人になったみたいだ。あるいは子供に戻ったようでもある。雨に濡れた肩は冷えたが、人のあたたかさに触れながら、夜は更けていった。

その人は高村光太郎が好きだと言った。それは私のもっとも好きな詩人の一人である。

智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。

 あの一節を誰かの口から聞くのなんて、国語の授業以来だった。その人も田舎生まれだった。開いた本の活字のうちに、淋しい身の上の拠り所を見つける人のいることが、たまらなく嬉しかった。きっとそれは恋でもなく友情でもなく、なにやらほかに言い表しようのない仲間意識というものだ。夜はきっとそうした淋しい人たちの集まりでつくられているのだろう。そう思うと私は自分ひとりの靴音を聞いて歩くことに、もう恐怖しなくなった。

あんなに空の綺麗な町もそうそうないだろう、と故郷の話をするたびに思う。なんでもない日に外を歩いて見上げた空がいちばん広々していた。あるいは日が暮れて部屋の窓から遠くの町灯りを眺めるのも好きだった。今でもやっぱり私はふるさとが恋しいのだろう。いつか過ごした日常を夢見るなんておかしな話だけれど、ここで暮らしてゆくのには、思い出だって必要だ。酔っ払って電話をかけたふるさとの友達が、まるで昨日まで一緒に遊んでいたみたいに、当たり前に話をしてくれたことが嬉しかった。私は、あの町が好きだから、あの町を離れたのだ。そうして、淋しいのは私だけじゃない。さよならは、ひとりじゃできないものだから。淋しさの償いに、私はこれからも、強く生きてゆかなければ。

 

今週のお題「好きな街」

仕事を辞めている間に観た映画を振り返る

仕事を辞めてニート生活が始まった当初、せっかくだから沢山インプットをしようと、度々ツタヤへ赴いたものである。私は映画に関してまったくの素人である。もっとも、映画の製作にでも携わっていない限りみんな素人には違いないのだろうけれど、とりわけ私ほど映画を観た本数と映画に関する知識が比例しない人間も珍しい。普通はきっとあの映画のあのシーンがよかったとか、そんなことを映画通同士カフェの窓際の席で語り合ったりするものだろうけれど、私は仮に観たことのある映画であっても「面白かった」というような感想しか絞りだせないほど何も考えずに映画を観てしまう人間なのである。だからこそ私が面白いと思う映画はきっと誰でも面白いはずだ。

そうして今回はこの二ヶ月ほどで観た映画の記憶を辿り、憶えている限りを列挙して行きたい。

 

海月姫

海月姫

海月姫

 

 能年玲奈ちゃんが主演のコメディ。色んなジャンルのオタク女性たちが住むアパートに、女装した美少年が入り込んでくるというお話。女装しているのは今をときめく菅田将暉くんであるが、普通に美しいから反則だ。

設定だけで面白そうだから、劇場公開時に観に行くつもりだったのが行けずじまいで、結局今更観ることになったという。

 

サマータイムマシン・ブルース

 こちらもコメディ。SF研究会のメンバーがタイムトラベルしまくる話。夏のけだるさがよく出ている。出演者がとても豪華で、「みんな若いなあ」なんて思いながら観てしまった。

 

Mr.&Mrs.スミス

Mr.&Mrs. スミス [Blu-ray]

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 偶然テレビでやっているのを観たのだけれど、洋画は一度観だしたらテンポがよくて、なかなか場を離れられなくて困ってしまった。

主演がブラッド・ピットアンジェリーナ・ジョリー。ハリウッドスターとかまったく興味のない私でも知っている名前である。二人は夫婦なのだが、お互いに自分が殺し屋をやっていることを隠して生活している。そのうちに実はお互いが敵対組織だったことを知り、大変な夫婦喧嘩に発展していくという話。

このくらい派手に喧嘩したら、どんなに仲の悪い夫婦でも何故かすっきりするんじゃないかと思えるような、痛快なアクションだった。

 

 幸福の条件

幸福の条件 [Blu-ray]

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全財産を失った夫婦が、カジノで出会った富豪に「100万ドルで奥さんと一晩過ごさせてくれ」と提案を受ける。NTR物の苦手な私は、見ているのが辛かった。男女どちらの立場にも感情移入できて、思わず考えさせられる一作だった。

 

 冷たい熱帯魚

冷たい熱帯魚

冷たい熱帯魚

 

食事中にこの映画を観たことを後悔した。けれど、最後にはそんな後悔はどうでもよくなった。血みどろのバイオレンスストーリー。熱帯魚屋を営んでいる夫婦の生活模様から、まさに現代日本のじめじめとした感じが滲み出ていて、気の滅入るようだったが、それを掻き消すようなぐちゃぐちゃのバイオレンスシーンを観て、これは眼で楽しむ映画なのだと思った。

 

 地獄でなぜ悪い

 こちらもぐちゃぐちゃのバイオレンス。ちなみに同じ園子温監督である。ヤクザが紆余曲折あって実際の抗争を映画に撮ろうとする話である。演技も演出も何もかも吹っ切れていて面白い。

 

俺はまだ本気出してないだけ

 40歳にして漫画家を目指すフリーターの物語。設定だけ見ればおぞましいが、本人が底抜けに明るいのと、周りの人間との関わりの人情くささに予想外に胸を打たれた映画だった。ただ笑えるでなく、「自分も頑張ろう」という気になれた映画だった。

 

夏の終り

夏の終り [DVD]

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 瀬戸内寂聴の自伝小説が原作の恋愛映画である。満島ひかりは「強い女」と「か弱い女」のふたつの側面を併せ持っているから凄い。時代背景に合わせた映像美と文学の香りを堪能できる上質な一作だった。

 

 IZO

IZO [DVD]

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 まずWikipediaを見ていただきたいのだが、注目して欲しいのはその出演陣。多分日本映画史上もっとも豪華な出演陣なのではないだろうか。内容は、ひたすら人を斬りまくるという斬新なもの。主題歌を歌っている友川かずきのファンなので視聴するに至った。人がやっているアクションRPGのゲームを隣で観ているような気分になった。友川かずきの歌の通り、「訳のわからん気持ち」にさせられた作品である。

 

 この子の七つのお祝いに

あの頃映画 「この子の七つのお祝いに」 [DVD]

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怨念のつまったサスペンスホラー。昭和の匂いが漂う映画であった。だけども古臭いことと面白いかどうかはまったく関係ない。ホラーでも観てみるつもりの軽い気持ちで借りた映画であったが、単純に面白く、二時間見入ってしまった。紛れもない名作である。ホラーというよりは、女の執念の怖さを感じさせられる。

 

 海でのはなし。

海でのはなし。 [DVD]

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 スピッツの曲が好きで、宮崎あおいが好きで、西島秀俊が好きなら観た方がよいだろう。私も現にそうだった。

青春はいつだってちっぽけだ。ちっぽけな世界の中でもがいていたあの頃が懐かしくなる、静かで、海の音のする映画である。

 

 ミスト

ミスト コレクターズ・エディション [DVD]

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今や「後味の悪い映画」の代表としてネット上で度々目にするこの作品。自分のハンドルネームと同じということもあり、前々から気になってはいたんだけれど、後味が悪いと知っているとなかなか進んで観る気にはなれない。

その日は偶然気分が乗っていて視聴に至った。霧に覆われた町で、スーパーに逃げ込んだ状況から物語は展開してゆく。スーパーの中で過ごす各々の葛藤や集団心理をうまく描いていて、スケールを大きくしすぎないところが私の肌に合っていた。 

後味は、確かに良くはなかった。けれど、覚悟していたぶんそこまでショックを受けた訳ではなかった。映画としても単純に面白く、人に幾つかオススメの映画を薦めるときに、こっそり混ぜておきたい一作である。

 

以上、思い出せる範囲で書いてみた。

私は人に薦められた映画はとりあえず観てみる主義なので、もしお薦めの映画がある方は、ぜひ教えて頂ければ、ツタヤへ走ります。

初任給が出たらまず何に使うべきか

死が間近に感じられるほど生活に困窮していたニート生活も終わり、何食わぬ顔で通勤電車に乗る毎日もすっかり板についてきた。とはいえまだ初任給をもらうまでには一ヶ月の日月を要する。カード払いで負債を先送りにしつつどうにか毎日を凌いではいるけれど、早く一度目の給料を頂戴して心温めたいのは言うまでもない。当分この貧乏生活が続いてゆくことは間違いないのだが、それでもようやく手にはいる僅かながらの報酬を、これから先どのようにして蓄え、どのようにして使っていけばよいものかと考えたりする。浪費は決して悪だとは思わない。ただ、それが無駄遣いかどうかは各々異なってくるものである。私にとって最も適切な給料の使い途とは一体なんなのだろうか。愚かなる散財に悔恨を募らせる前に、今本当に欲しいもの、必要なものを先に確認してみることにする。

 

自転車

田舎育ちの私には、自転車など高校を卒業してから数えるほどしか乗ることがなかったんだけれど、都会にくると自転車が欲しくてたまらなくなった。田舎にいた頃は買い物に出かけても、店から駐車場までの少しの距離しか歩かなくて済んだのに、今では買い物をしたら家まで荷物を持って歩かなければならない。だからまとめ買いがなかなか出来ないのだ。冬の夜などお腹を空かせて歩く帰り道は、本当に心細く耐えがたい。自転車があればどんなに楽だろうと、周りの自転車乗りたちが過ぎるのを指をくわえて見ているばかりだ。

今、手に入ったらもっとも生活効率が上がるものといえば、間違いなく自転車だろう。

 

デスク

作業机が欲しい。ブログを書いたり写真の整理をしたり、持ち帰った仕事でもパソコンを使うことが多く、要するに家にいる時間の大半をパソコンの前で過ごしている私だが、今は小さな食卓の上にパソコンを置いて使っている。それだけでテーブルはもう半分ほど埋まってしまう。ご飯を食べるたびにパソコンをずらしたりするのは手間がかかるし、第一床に座って長時間作業をしていると腰が痛くなってくる。せめて安いものでいいから椅子と机が欲しい。書類なんかが床に散らばっているのを見るとやりきれない気持ちになってしまう。その前に広い家に引っ越さないと、現段階では机を置く場所などないのだけれど。ちなみに今まで使った机の中でいちばん作業が捗ったのは学校机である。

 

CD

最近めっきり音楽を聴く時間が減ってしまった。通勤時間は短いし、いちいちイヤホンを付け外しするのも億劫なのだ。家にいる間は常にテレビを観ている上に、テレビを消して寝る前はいつも睡眠のアプリから流れる雨の音を聴いている。となると、黙って音楽だけに耳を傾ける時間というのが殊更になくなってしまうことはやむをえない。

しかし欲しいCDはあるわけで、だけどもCDというのは貧乏人にとってはおそろしく高いものだ。ネットでミュージックビデオなどが公式に無料配信される時代だ。CDを買うという行為は、好きなアーティストへの投資行為と化している。「この歌手にはお金を払いたい」そう思える出逢いがあったとしても、あまりに貧困なゆえ、Amazonの欲しいものリストにその歌手のアルバムを入れたきり、夜毎YouTubeを行ったり来たりするだけというのはあまりに佗しい。

ちなみに私が今欲しいCDの一例。

Ren'dez-vous

Ren'dez-vous

 

朝の光の中で聴くのにうってつけな透き通る手嶌葵さんの声は、私にとっての精神安定剤としていつもポケットのiPhoneに入れて持ち運んでいたんだけれど、最近久しぶりに彼女がドラマの主題歌で話題になってテレビに出ているのを見かけて、すぐにAmazonで検索したら、二年も前に私の持っていなかったアルバムが出ていたことを知った。例に漏れず評価も高く、すぐにカートに入れようとしたが、いやちょっと待て、明日の夕食さえろくに確保できない私が、何をCDなど買って、そのお金があればいくつ夜を越えられるだろう、そう思うとそれ以上注文へ進む気にはなれず、くだんの欲しいものリストへ今、昏睡状態の身なわけである。

 

これは欲しいというより、少しでもお金が余れば買おうと思っている。本を読まないとどんどん心が乾いてゆくのは明白である。私がまだ十代だったころ、本屋へ通うのがいつも楽しみだった。新しい本のすべすべの手触りと紙のにおいが好きだった。最初の一行を読むときがいちばんドキドキした。そうして最後の一行まで、やはりドキドキしっぱなしだった。本を読むということは今も変わらず私にとって重要なことであるにちがいない。忙しさにかまけて買った本にさえ手をつけないでいる私だが、どんなに疲れている時でも、せめて毎日一ページでいいから本を読む習慣をつけたい。かつて私の代名詞であった「文学少年」という言葉は、今はもうまったく別人のことを指しているみたいに他人事に聞こえてしまう。何週間も本を読まないことがざらにある生活の中で、誰が文学好きを名乗れようか。書くこととおなじくらい読むことは大切なことだ。書いているからといって読まずにいると、そのうちきっと書くことしかできない鉛筆のお化けになってしまうだろう。 

すみれの花の砂糖づけ (新潮文庫)

すみれの花の砂糖づけ (新潮文庫)

 

というわけで給料日がきたら一段落として、まずはこの本を買おうと思っている。

 

私は鞄を持っていない。というと語弊があるけれど、持っているのはビジネスバッグとボストンバッグと小さなショルダーバッグである。仕事に行くぶんにはまったく困ることはない。しかし遊びに行くときに、元来、鞄を持たない主義だった私は、今やカメラもあればノートや長財布、薬の類も常に携えておきたいと思いながら、それにふさわしい鞄を果たして持ち合わせていないのだ。ビジネスバッグは勝手がいいが、プライベートの場において、そんな堅苦しい鞄を持って現れたなら、相手方に息の詰まる思いをさせることが懸念される。ボストンバッグは旅行用に買ったもので大袈裟過ぎて話にならないし、ショルダーバッグは少しばかり収納力に不安がある。さしあたり手頃な鞄をひとつ購入し、プライベートの時間をもう少し快適に過ごしたいと思ってはいるのだが、結局鞄のような「なくてもすぐに困るわけではない」ものは、後回しにしてしまうのが関の山である。

 

フロム・ザ・バレル

何を隠そうウイスキーである。貧乏人が酒を求めるなど大衆に背を向けるような行為であることは承知しているが、来月、再来月、いや、すぐにとは言わずとも、そのうち少しのへそくりでも出来たなら、かねがね飲んでみたいと思っていたネット上で大評判のこの銘柄を、どうか一本購入したいという願いが私を労働へ向かわせている。うまいのかうまくないのかといえば、うまいことは間違いない。なぜなら私はどんな酒を飲んでもうまく感じる都合のよい舌を持っているからだ。かといって、何を飲んでも同じかといえばそうではない。うまい酒はよりうまく感じるにちがいない。

フロム・ザ・バレル 500ml

フロム・ザ・バレル 500ml

 

 

と、これだけつらつら挙げてみると、労働意欲が湧いてくるかと思いきや、実際の給料というものは、生活費やら保険の支払いやらで痛々しく削られてゆくものだから、この中のどれかひとつを手にするのさえ危ういほど、まだ私の未来は澄み切っているわけではない。とすると、私に残された数少ない手段といえば、たとえばAmazonの欲しいものリストを公開して、偶然宝くじが当たってお金の使い途に困っている方が、哀れみの心からひとりの貧乏人にお恵みをくださることを祈るという他力本願なやり方くらいであろう。

気になるあの娘の給食を

四時限目の終わりを告げるチャイムが鳴ると教室は一斉にがやがやと騒がしくなる。班ごとに机を向かいあわせる。給食の時間が来たのだ。給食当番の班はみんな白衣を着て帽子をかぶっている。私は友達と連れ立って手洗い場へ向かう。

手洗い場はこの階にはふたつあった。それぞれ廊下のいちばん端にある。だから私たち一組と、隣の二組は東側の手洗い場を、三組と四組は西側の手洗い場を使っていた。手を洗ったあとはいつも、私はお気に入りのドラえもんのハンカチで手を拭いていた。一方で女子たちを見るととても手を拭くのさえ躊躇われてしまいそうな上品で可愛らしいハンカチを取り出していて、私は自分が恥ずかしくなる。

そんな風にしながら私は人の出入りするにぎやかだけど少し広々とした教室で、友達とゲームの話などしながら、給食当番たちの戻るのを待つのだった。好きなはずのゲームの話も、そのときは頭に入ってこなかった。それはその日の給食が大好きなハヤシライスだったせいではない。その日は気になるあの娘が給食当番だったからである。

私はそんな年から面食いだった。ほとんど話したこともない、ただ顔がタイプだというだけの女の子のことを、いつも目で追っていた。そうしてそれを恋のように思っていた。けれど、小学生の恋なんて、みんなそんなものなのかもしれない。

私のいたクラスでは、給食当番がずらりと配膳台の奥に並んで立ち、生徒たちは手荷物検査のようにおぼんを持ってその前を通過するというシステムだった。それぞれおかずやごはんの係りの者が、ひとりひとりに配膳をし、一番最後まで通過したときには、おぼんの上にすべてが揃っているというわけだ。

そうして給食当番の分に限っては、周りの誰かが代わりにもう一度配膳台へゆき、一式盛り付けを施されたあとで、その当番の人の机に置いておくという助け合いの制度をとっていた。つまり私は合法的にあの娘の給食を配膳することができたという訳だ。もっともそれをしたからといってどうなる訳でもなかったし、給食当番は仕事に夢中で、誰が自分の分を用意してくれたのかなんて気づいていない場合が多かった。けれど私は何故だか他の誰にもその権利を渡したくなかったのだ。

銀のおぼんを抱えて、あの娘の席まで歩くとき、誰にも気づかれないようにドキドキした。そうしてあの娘の席まで辿り着き、机の上に小さな少女漫画の落書きを見つけたなら、いつも大人しいあの娘が少し、自分に似ているような気がして、嬉しくなる。かたん、とおぼんを机に置いて、そそくさと自分の席に戻る。やがてみんなが席に着いたら、手を合わせて一斉に食べ始める。ゆっくりとスプーンを動かすあの娘の姿を、ななめ後ろから見つめて、また、嬉しくなる。

 

今週のお題「給食」