或るロリータ

A Certain Lolita

森田童子が死んでしまった

毎年六月になると必ず思い出す曲がある。切っても切れないみずいろで、私の心をつなぎ留めている儚い歌声がある。どこへ行って何をしようと、街も季節も私自身もすべて変わってしまっても、かならず戻れる場所がある。弱くて優しくてふるえてばかりいたあの頃の、少年の私が待つ孤独なサナトリウムが。

2018年6月12日という一日は、おそらくここ数年間のあいだでもっとも目の前に「森田童子」という文字が流れてきた一日だっただろう。そうして彼女の声を耳にした人が、この日本じゅうでもっとも多い一日でもあっただろう。街ですれ違う人、駅のホームで佇む人、電車から窓の外をながめる人、そう、耳にイヤホンをしている人がみんな、もしかしたらあの儚い歌声に胸を痛めているんじゃないかなんて、本気で考えてしまった。そんなこと、一昨日までは夢にも思わなかったのに。

訃報を耳にしたのは6月11日の真夜中。枕元でiPhoneに目を落としているときだった。もちろんショックだったが、それも一瞬。なんだか嘘みたいで、それに、はなから彼女に逢ったこともないのだし、本当に存在しているのかどうかも定かでないくらい、ある意味架空の人に近かったから、なんと言おうか、実感が湧かないというのが本音だった。死んじゃったんだ、そうか……そう思って、そのまま眠ることができた。

朝起きてから、少しずつ実感が湧いてきた。やっぱり森田童子について考えずにはいられなかった。通勤中は何も音楽を聴かなかった。感情というよりは、頭で彼女の死について思いをめぐらせた。私の中にある彼女の情報と、ネットに流れてくる彼女の情報を照らし合わせながら、うなずいたり、微笑んだりしながら、もやもやと一日を過ごした。

意外だったのは、彼女の死について言及している人が多かったこと。Twitterの数少ないフォロワーの中でさえ、何人もの人がかなしみの呟きを投下していた。実はみんな、彼女のことを知っていたんだ。いや、知っている以上の、「好きだった」に近い目線で呟いている人ばかり。森田童子のことなんて、誰も、普段話していないのに、こんなに認識されていたなんて。私は奇妙なにぎやかさを覚えて、何か狐につままれたような気持ちになった。たとえるなら、夏祭りの日のような。神輿の音が近づいてくると、普段バラバラにしか顔を合わせない近所の子供たちが、こぞって玄関から顔を覗かせて、それからその日は特別に門限が取り払われて、月の下ではしゃいだり、立ち話をしたりして……。あるいは大晦日の食卓のような。みんなで同じ番組を観て、同じ鐘の音を聞き、蕎麦をすする。

でも、祭りはいつか終ってしまうし、年もそのうち明けてしまう。彼女の死によって沸き起こった小さな台風は、数日もすれば去ってしまって、あとにはこれまで以上の淋しさが残るだけ。そう考えると、私はここに何か書き記さずにはいられなかった。もともとこのブログを始めたとき、自分の好きなことだけを書こうと決めていた。その中で、特に森田童子の話題に関しては、来たるべき時に書こうと。それはなるべくこのブログが認知されてからの方がいいだろうし、私の森田童子に対する熱情と追究とが一定に達したあとの方がいいだろうと思っていた。いずれ時は来るだろうと構えていたら、あっさりと彼女は逝ってしまった。何の準備もできていないままに、私は命題に向き合うことになった。

仕事がろくに手につかないまま一日を終え、帰り道。ゆっくりと歩きながら彼女の歌声を聴いた。やっぱりあの頃のままだった。でも、それはこの世界のどこかにいる人の歌声から、もうどこにもいない人の歌声に変わってしまった。その事実に胸の中がぽっかりと寒くなった。夕餉はひとり彼女の弔いをしようと決め、ビールを買った。家に帰り着いて食卓につき、マッチを擦ってランプに灯りをともした。パックの刺身が並んだ華やかな食卓を前にして、箸がつけられなかった。今から乾杯しようとしているわけを考えると、涙があふれてきた。急にあふれてきて止まらなくなって、声をあげて泣き出してしまった。本当は平気なんかじゃなかった。やっぱりかなしかった。どうしようもなく。逢ったこともない人なのに、初めからいないはずの人なのに、それでもなぜだかかなしかった。ベッドに倒れこんで、シーツに顔をうずめてめちゃくちゃに泣いた。それから泣き疲れてぼんやり天井をながめていたら、あの頃のことを思い出した。いつもこんな風にして彼女の歌声を聴いていたなあと。

はっきり言ってしまうと、私は森田童子が好きだ。そのことを打ち明けるまでに、結局十年もかかってしまった。あれから十年も経ってしまったことにおそろしくなってしまうけれど、十年前も、九年前も、そうして去年の今ごろも、私はいつだって森田童子を聴いて過ごしてきた。好きなアーティストを訊かれても、カラオケに行っても、絶対にその名は口にしなかった。できなかった。なぜだろう。ただ好きなだけじゃないからだろうか。彼女は私の青春のすべてと言ってもいい。真っ暗な濁りの中をやみくもに走り続けていた長い日々の中で、私が縋ることのできた唯一の存在だった。彼女と出逢わなければ、私は今ここにいなかったかもしれないし、私は今の私になれなかったかもしれない。

彼女の歌声を聴いていると、楽だった。何も考えなくてすむからだ。学校で友達ができなくても、好きな娘に恋人ができて心にひびが入っても、急に人と話せなくなって外に出ることがおそろしくなっても、私にまとわりつく社会の亡霊は、ひとたび自室のベッドの上で、あおむけになって彼女の曲に耳を傾けていると、心地よく剥がれ落ちてゆくのだった。学校から帰ってくると、夏は窓を開けて夕風に吹かれながら、暮れてゆく空のもと、蝉の声と混ざり合う彼女の声に目をつぶった。冬は炬燵にすっぽりと潜りこんで、ひたすら汗をかきながら彼女の声を子守唄のようにして眠るのが日課だった。その瞬間が楽しいとか、これが自分の趣味だとか、そんな意識はひとつもなくて、ただ生活の一部として、ご飯を食べるみたいに、お風呂に入るみたいに、そうやって毎日三時間は彼女の曲を聴いて過ごした。

夜は彼女の声がなければ眠ることもできなかった。まるで夢の世界へ向かってゆく夜行列車の発車音みたいだった。今思えば完全に依存していたんだけれど。それから少し経って社会人になり、私はちょっとだけ世間と向き合うことを決めた。もう大人になってもいいかな、とあきらめた。色んな音楽を聴くようになったけれど、どんなに周囲の音があざやかに入れ替わっても、森田童子だけは必ず私の中に居続けた。少しでもブルーな日には、やっぱり戻ってきてしまうのだった。そのためか、あの大人になんてなれるはずもない不安定な少年は、薬に頼ることもなくなんとか青年になれたのだ。

これは誇りでもなんでもないけれど、私は少なくとも今の二十代の中で、もっとも森田童子の歌声を聴くことに時間を費やし、心を使い果たした自信がある。だってそれしかなかったんだから。学生時代何をしていましたか、そう訊かれたときに、毎日炬燵に潜って森田童子を聴いていました、なんて、おまけに過去を振りかえりながら、じゅくじゅくの傷口をさわってばかりいました、なんて、誰が言えようか。かといって、単に「好きな歌手」に留まるほど、私は大人として平気に彼女の名前を口にすることはできなかった。それに、別に共感してもらうつもりもなかった。ただ、彼女の曲を聴くことは、私がすべての青春を投げ出して打ちこんだ大事業だったというだけだ。

上京して私は玉川上水沿いのアパートに住んだ。「まぶしい夏」という曲を聴きながらよく散歩をした。甘ったるい懐かしさに胸をきゅっとつままれるようだった。懐かしいという気持ちはすべて故郷に置いてきたはずなのに、不思議と彼女の曲は東京の街が似合う。辛い仕事の帰り道には「ラスト・ワルツ」を聴いていたし、エアコンのない真夏の部屋で真っ白なシャツを着て「逆光線」に心ごと凭れるのが私を落ち着かせた。彼女はだめになることを肯定してくれた。そこにある現実という景色がたとえ不幸だったとしても、目をそらさずに向き合いながら、それでいて戦いもせず受け入れる。だめだったらそれまでだと、流されるように。

実はちょうど一年ほど前、新宿のネイキッドロフトで「森田童子ナイト」というイベントがあった。森田童子を想う人々がつどい、飲んだり食べたりしながら、彼女の思い出について語り合う会である。もちろんそこに彼女本人はいない。夜の東京に出かけることにいつまでも慣れない私だったが、迷ったあげく、仕事終わりにひとり中央線に揺られたのを覚えている。狭い建物に、小さな立て看板がひとつ。注意しなければ見落としてしまいそうな場所だったが、ひとたび近づくと、開け放ったドアの向こうから彼女の歌声が一気に漏れ出してきた。ほっとしたと同時に、果たしてこんなに堂々と彼女の曲をおおっぴらに聴くことが許されるものなのか、と悩ましくもあった。暗い部屋の中はすでにたくさんの人影。もちろん自分よりずっと年上の人が多かったけれど、中には同年代の若い娘の姿もある。私は「雨のクロール」という特製カクテルを頼んだ。部屋じゅうに響く彼女の歌声は、集団でいながらも心地よい孤独を与えてくれて、まるで小学生のころ体育館で薄着になって、一斉に結核の予防注射を打ったときのことを思い出した。

何気ない顔で生活しながら、この都会の中には、同じように森田童子を聴いて暮らしている人がいたんだ。それもこんなにたくさん。私はイベントの内容よりも、そんな不思議な空間に身を置いていることに終始はらはらしっぱなし。イベントが終ったあとに、「やっぱり森田童子はひとりで聴くものだ」と再確認したにせよ、あのつどいに参加できたことは、今となっては貴い経験である。

さて、ここまでこうして文章を書きながら、未だ私はこの記事の締めくくり方が判らない。きっと判りたくないのかもしれない。私が森田童子について書くときは、すでに何かあったときに違いないんだから。それだけは判っていたから。家族や友達のような近い存在であればあるほど、手紙なんて書かないもの。それこそ、結婚式か、告別式か。だからこれは私からの彼女に対する追悼文なのかもしれない。そんなつもりで書き出したわけではないけれど、でも、ニュースを見た故郷の母から急に連絡がきて、「あなたがショックを受けるだろうから言うべきかどうか迷ったけど」なんて言われたら、やっぱりそんな私が彼女の死をだまって見送ることなんてできるはずもない。

もっと色々書こうと思ったことはある。けれど別に書かなくてもいいことだ。そんなことばっかり。あの頃、好きな娘からの着信音を「G線上にひとり」に設定していたこと、高橋和巳を読み漁ったこと、セルロイドの筆箱を今でも使っていること、菜の花がいちばん好きな花になったこと。どれも気まぐれだけれど。だって私は別に彼女のファンなんかじゃないから。彼女のことを深く知りたいわけでもないし、彼女の真似をしたいわけでもない。ただひたすら彼女の作品に溺れて、救われただけの人間だ。姉のように、母のように、恋人のように、彼女に縋りつづけていた私の旅は、しかし決してひとりでは続かなかった。だから、ぼくの一生ぶんの敬愛の気持ちを、彼女に捧げたい。

最後に、彼女の死を受けて、ひとつだけ誓ったことがある。「生きていればいつか会える人」には、今すぐにでも会っておいた方がいいということだ。それは憧れのアーティストだったり、はるか昔の友人だったり、忘れられない恋人だったりするのかもしれないが、いつか会ってみたいとか、もう一度会いたいとか、そんな風に思いながら、会うことを先延ばしにして、会えないことを世間のせいにして、それで季節に流されてしまったら、きっともう、二度と会えないんだと思う。今、会えない人は、たぶん、死ぬまで会えないんだと思う。会いたいなら、今すぐに、会おうと努力するべきだ。もしそれでだめなんだったら、本当に会えないんだよ。それだけの話。勇気を、十年後の自分に押しつけてはいけない。どうせ目をそらすんだったら、きっと十年後だって、おんなじだ。

確かにこの時代を生きていたはずなのに、まるで遠い時代の出来事みたいに、彼女はこの世界から失われてしまった。出す宛てのない別れの手紙を書き崩して、インターネットの海に放り投げたそのあとで、私はこれからどのように生きていくというのだろう。

今はまだ、判らない。

八代亜紀はなんて可愛いんだ

そんなことを言うと白い目で見られるのが世間である。

しかたがない。彼女は私よりずっとずっと年上だからだ。だけど八代亜紀の目つきが今でも色気を備えているのには間違いないし、歌声の魅力がいつまでも衰えないのも事実である。


Marty Friedman with Aki Yashiro

こんな動画を見つけた。

かっこよすぎて思わず三度見返した。

彼女の歌声がもともとどこか尖っていたのもあるし、彼女がジャズの歌い手をしていたこともある。ともかく彼女はこのようにして、単なる一演歌歌手というよりは、日本歌謡文化の女王といえる存在と言っても過言ではないのだ。舟歌を聴く前から酔っぱらっている私には、これ以上多様な表現をもって彼女の魅力を伝えうることはできないけれど、ここに紹介する動画を見ていただければ、その魅力は存分に伝わるものであろう。

 

さて彼女の曲の中で、私がもっとも好きなのは『雨の慕情』である。


雨の慕情 / 八代亜紀

心が忘れたあの人も
膝が重さを覚えてる

 こんな歌詞をさらっと歌っていいものか。

こんなに詩的で切迫した歌詞は、誰の目にも触れずに埋もれて行くのがこの国ではなかったのか。

雨の慕情はその知名度に反して、こんなに胸を打つ歌詞を備えている稀有な曲のひとつであると思う。懐かしの歌番組などで流れるたび、私は少し覚悟をする必要があるのだ。こんなに悲しい歌詞を、こんなに悲しい歌詞を、雨の日でもないのに聴きたい自分がどこかにいる……。

悲しい恋の歌を聴きたい夜もある

幸福より憂鬱が酒の肴になることは間違いない。今夜も私はビールにウイスキー、それでは飽き足らず安物の焼酎を煽りながらネットサーフィンに明け暮れている。それも悲しい恋の歌ばかりを探し求めて。暗い気分に浸れるのは、酒飲みにとって至福の時間である。騒ぎながら誰かと酒を飲むのももちろん楽しいが、ひとり沈んで酒を飲むのも上質な時間にはちがいないからだ。

そんな私の気分をどんな色からでもブルーに塗り替えてしまう、ほどよくアダルトな曲をいくつか紹介したいと思う。決して自殺願望が芽生えるような陰鬱とした曲ではなく、割に軽やかな曲調の中で悲恋を歌っているからこそ、心がすっと攫われてゆくものだ。

ロング・バージョン / 稲垣潤一


稲垣潤一 ロング・バージョン

さよなら言うなら今が
きっと最後のチャンスなのに
想いとうらはらな指が
君の髪の毛かき寄せる

 愛していない女を愛することのむなしさを表現した曲である。さよならを言うのは決して簡単なことではない。さよならを言うということは、自分が悪者になることへの片道切符であるからだ。人はどうしても傷つくことを先延ばしにして、明日の自分に何もかも託してしまう。けれどもそれは、いつか来る終りの時の悲しみを、一層深めるだけの行為である。分かっていながら、人は強くなれない生き物なのだけれど。

 

埠頭を渡る風 / 松任谷由実


埠頭を渡る風 2004年逗子マリーナラストライブ

 正面を向けない恋を、吹き抜ける風のような曲調に乗せて歌った一曲である。

ユーミンの曲の中では、いちばん好きな曲である。

地元にいたころ、行きつけの料理屋でよくかかっていて、思わず耳を傾けたのを憶えている。

steam.hatenadiary.com

 

スタンダード・ナンバー / 南佳孝


南 佳孝 「スタンダード・ナンバー」

 薬師丸ひろ子の『メイン・テーマ』というタイトルの方が、一般的には認知されているかもしれない。彼女の曲が女性目線で歌われているのに対し、この曲は男性目線になって一部歌詞が変わっている。昔はこうしてアンサーソング的なものが度々作られる時代だった。遊び心が効いていてとても好きだ。

女性バージョンが、いわゆる悲劇のヒロインであるのに対し、男性バージョンはさらりとかっこつけて歌い上げている中に、その女性の傷心に気づきながらも気づかないふりをしているという、どうにも救いようのない仕上がりになっている。悲しみを表現できる人は強いのだ。悲しみを誰にも打ち明けられない人の方が、きっといつでも辛い思いをしている。

 

恋人も濡れる街角 / 中村雅俊


恋人も濡れる街角 1984 live version

中村雅俊の代表曲である。作詞作曲は桑田佳祐

歌詞とメロディーのセンスが、もうこの上ないほどに絶妙で、こんな曲を作ってくれたという事実だけで私は身悶えして雨上がりのアスファルトでばたばたと寝そべりたい思いである。

エロティックな歌詞のあいだに、失恋した孤独な男を描いている。

 

さらばシベリア鉄道 / 大瀧詠一


さらばシベリア鉄道 / 大滝詠一

大瀧詠一の声はカクテルのようだ。爽やかさの中に、甘さ、酸っぱさ、ほろ苦さがあって、おまけに海の色をしている。

大瀧詠一松本隆のコンビは、売れ線でありながら詩的な曲をつくるから反則だ。

 

裏切りの街角 / 甲斐バンド


裏切りの街角 甲斐よしひろ

甲斐バンドの代表曲。このころがいちばん甲斐よしひろの声が乗っている気がする。目をつぶれば雨の街が浮かんでくる、珠玉の一曲。

 

全部、君だった / 山崎まさよし


山崎まさよし / 全部、君だった

昭和歌謡至上主義な私は、最近の曲なんて全部クソだ、特に歌詞がクソだ、と仄かに偏見を持ち始めていたんだけれど、中学生のころにハマっていた山崎まさよしの曲を聴き返してみたら、まるで文学のような美しい歌詞の世界にどっぷりと浸ることができた。

淋しさを表現するのに、研ぎ澄まされた表現はやはり必要である。

 

さて、今夜も酒がうまい。

憂鬱を共有したい人は、いつか一緒に飲みましょう。

ちなみに、ここに挙げた曲の半分くらいが、私のカラオケのレパートリーだったりする。

今年あなたはスナックでどんな曲を歌いますか

あなたの十八番は?と訊かれると困ってしまうが、知らない人の前でもまず歌いたい曲というのはいくつか存在する。そのひとつが風の『22才の別れ』である。

風というバンドはかつてフォークソング全盛期のかぐや姫伊勢正三がやっていたバンドである。バンド自体の知名度は低く、『22才の別れ』がかぐや姫の楽曲だと思っている人も少なくないのではないだろうか。

そんな『22才の別れ』であるが、度々CMソングなどにも起用されており、おそらく誰も耳にしたことがあるはずだ。ちなみに有名な『なごり雪』も伊勢正三の作った曲であり、それぞれ男性の視点と女性の視点から歌われた曲である。

 


二十二才の別れ

変わってゆく自分、一方で相手には変わらずにいて欲しいと願う、このやりきれなさ。思い出だけはどうにか自分の中で守っていきたいという。人はどうにも大人にはならなければいけないらしい。ずっと子供のままでいられたら……誰もそう願ったことがあるのではないだろうか。

私は次にスナックへ行くことがあったなら、この曲を歌おうと思う。そうして泣こうと思う。涙を流してスナックのテーブルを濡らすのだ。乾き物が乾き物でなくなるとき、私はまたひとつ思い出から遠ざかる。

ジュリーのようなエロい男に憧れる

エロいと言われる男に憧れる。それは決して飲み会の席で下ネタを言って許されるというようなアドバンテージが欲しい訳ではない。スカートめくりをして大目に見られたい訳でもない。いいや、それらが許されるならそれに越したことはないけれど、私が憧れてしまうのは、女性が思わずうっとりしてしまうような「エロさ」をその人自身が持っているという状態のことを指している。もっとも私は女性の気持ちなんて判らないから、すべて憶測で語ることしかできないんだけれど、少なくとも私は性別の壁を超えてそのエロさを滲ませている男をひとり知っている。それはジュリーこと沢田研二である。

沢田研二といえば昭和の大スターだ。私は二十代だけれど周りの友人は私がカラオケでいつもジュリーを歌うからその名は知っている。だが、触れる機会のないままに育ってきたほとんどの若者は、ジュリーのことなんてまるで知らないのではないだろうか。

あの頃のアイドルが総じてレベルが高かったというのは、単なる年配者の懐古主義ではないだろう。今にしてYouTubeなどで昭和時代のテレビ番組の映像を観てみると、そのオーラの違いに度肝を抜かれる。たぶん無言でステージに突っ立っているだけでも観客に息を飲ませるであろう美貌をして、姿を隠していても聴き惚れさせるような歌声を持っている、そうした反則的存在がジュリーなのである。私はこの文章をひどく酔っぱらった状態で書いているから、おおよそこのあたりで文章があられもない方角へ破綻してしまいそうだから、そろそろそのジュリーの魅力については動画とともに紹介するのがよいだろう。


沢田研二💃サムライ✩1978.1.21R

とてもかっこいい。かっこいいとしか言いようがない。私はこの年にして未だにジュリーに密かに憧れながら、スナックではいつもジュリーを歌うんだけど、最近めっきりスナックに行かなくなってしまったから、それも叶わなくなっている。たとえば女の子が金髪のナイスバディの外国人のねーちゃんを見て、「この人エロい」と思うのと同じような感覚で、ジュリーは男から見てもエロい。そうしてジュリーを見るたびにエロいという言葉がどんどん明るいものになってゆく気がする。人は、エロくあろうとすることが、実は重要なんじゃないかしら。そんなことを思いながらジュリーの動画を見て酒を飲む四月の末。

さだまさしのアルバム『夢供養』がオリコン1位になる時代があった

さだまさしのアルバムで一番好きな一枚を訊かれたら答えに悩んでしまうけれど、名盤を選ぶのなら『夢供養』の存在は避けては通れない。『夢供養』は、1979年に発表されたさだまさしのソロ4枚目のアルバムだ。オリコン1位、レコード大賞のベスト・アルバム賞を受賞している。このアルバムが評価された1979年という時代を、私は非常に奇妙に思う。

3枚目のアルバム『私花集』は「案山子」「秋桜」「主人公」といった知名度の高い曲が詰まっており、売れるのに何の疑問もない。しかし、『夢供養』には、さだまさしと聞いて、まっさきに思い浮かぶような曲が一曲も入っていないのだ。もちろんファンには人気の高い「まほろば」や「パンプキン・パイとシナモン・ティー」といった曲は収録されている。しかし、それ自体がこのアルバムの評価を底上げしているとは思えない。私は単に、音楽が一枚のアルバム単位で作品として評価される時代だったからこそ、この名盤が埋もれずに済んだのではないかと思っている。

1979年は、昭和歌謡を愛する私にとって一番好きな年かもしれない。カラオケの年代別ヒット曲検索の機能を使うと、いつも1979年の名曲の多さに驚いてしまう。1979年縛りのカラオケ大会を開いても、ゆうに一晩を明かせてしまいそうだ。70年代の終わりであるこの年に、まるで時代をせき止めるような勢いで昭和歌謡は煌めいている。私はこの年に生まれていなかったことと、その時代の焼け跡をしか見られない現代が、たまらなく口惜しい。

さて、さだまさしといえば今ではMCの上手いおっさんとか、ちょっと泣ける歌を歌うおっさんとか、そんな印象を抱かれているのではないだろうか。年配の方の多くも、たとえば関白宣言だったり、雨やどりだったりを、懐かしいと思うばかりで、この『夢供養』に触れる人はあまりいない。もちろん、ストーリー性のある歌詞を書かせたらさだまさしは間違いなく達人である。しかし、かつてのさだまさしの作詩能力はそれだけに留まらなかった。彼の書く詩は完全に文学の域に達していたのだ。

衣笠の古寺の侘助椿の
たおやかに散りぬるも陽に映えて
そのひとの前髪僅かにかすめながら
水面へと身を投げる

 これは「春告鳥」という曲の歌詩である。私が初めてこの曲を聴いたのは中学生の頃だった。衝撃だった。辞書をめくりながら聴かなければならない歌手など、これまでにいなかったのだ。

また、「空蝉」という曲について考察したサイトがある。

http://www008.upp.so-net.ne.jp/ichishu/sada/utsusemi.htm

後になってこの記事を読んで、私はとんでもない曲を聴いていたのだと思った。何の学もない中学生には、到底理解できるはずがなかったのだ。あの頃はただ、そのじんわりと胸の底に沈んでくるような暗いメロディーが心地よくて聴いていたのだから。

ただ難解であればよいかといえばそうではない。難解な歌詞を書くアーティストは他にもたくさんいる。ただ、狙って作れる難解さと狙っても作れない難解さがあって、さだまさしは紛れもなく後者である。狙っても作れないというのは、感覚がずれているというのではなくて、普通の人では及ばないという意味だ。知識と才能の裏打ちがなければ、こんな詩を書けるはずがない。井上陽水なんかは誰もが上下左右のベクトルの中でもがいているところをひとりだけ斜めに飛び出したような存在だけれど、さだまさしはひとつひとつのベクトルを極限まで突き詰めた存在であると思う。笑える曲も泣ける曲も作れる裏で、こうした悲鳴のような曲も作れるのだから。

そうしてこのアルバムでもっとも特筆すべきは先述の「まほろば」という曲である。曲調が恰好良いことからライブやテレビでも度々演奏されている。以前アルフィーがカバーしてめちゃくちゃハードロック調になっていたのには少しやり過ぎ感があったのを憶えている。

例えば君は待つと
黒髪に霜のふる迄
待てると云ったがそれは
まるで宛て名のない手紙

 この一節だけでもただのまろやかなラブソングとは一線を画した切実な恋の歌であることがわかる。どうやら万葉集をモチーフにしているらしい。

さだが師と仰いでいた詩人でもある宮崎康平が、この曲をして「さだは自分を超えた」と賞賛した。しかし、同時にさだは「聴き手がついてこないから、これ以上難しい曲は書くな」との忠告を宮崎から受けたともいう。wikipediaより)

 どうやらさだまさしは難しい曲を書いているという自覚があったのかもしれない。あるいは才能が氾濫した結果なのかもしれない。いずれにしても、そうした隙のない作品づくりが真っ当に評価される時代があったということが、平成を生きる私には嘘のようでならないのだ。1979年に生きていれば、学校で周りの友達とこのアルバムの魅力について語ったりできていたのかな、と思うと、タイムマシンの開発を願うことでしかこの悲しみのやり場を見つけられないでいる。

 

夢供養 プライス・ダウン・リイシュー盤

夢供養 プライス・ダウン・リイシュー盤

 

 

夜の街をドライブしていた頃

まだ故郷にいた頃、私はときどき夜になると思い立ったようにドライブへ出かけた。おんぼろの軽自動車に乗って、街灯もない山道を下って街へ出た。私にとって毎晩の憂鬱とたたかう燃料はアルコールだけだったから、ドライブをするという日には生唾を飲み込んでお酒を我慢しなければならなかった。だけどそれに替えられないくらいドライブは私の憂鬱を吹き飛ばしてくれることがあった。普段仕事で嫌というくらい車を運転していたくせに、やはりあてもないのが良かったのか。好きなところに好きなだけ、意味もなく車を走らせる。まるで夜を切り裂くような感覚だった。

例えば黙って淋しい音楽に耳を傾けていることもあったし、夏には窓を開けて夜風と月明かりに陶酔することもあった。けれどとりわけ好きだったのは尾崎豊を聴きながら大声で歌うことだ。ほとんど車もない寂れた国道線を飛ばしながら車の窓が割れるほどに大声で叫ぶのは、この上ない快楽だった。その日起きたすべての物事が煙草の煙とともに窓の隙間から夜空へ消えていった。

歌い疲れると私はそこでUターンした。そうして今度は尾崎の声に耳を傾けながら車を走らせる。心地よい脱力感と、どこか名残惜しさとで、訳もなくコンビニへ寄り道したりする。普段飲まないコーヒーを買って飲んでいると、私はなぜだか自分が今この世で一番「青年」という言葉がぴったりの存在になったような気がする。大人でも子供でもなく青年だった。

きっと尾崎もそうだろう。彼は一瞬の火花のように生きた。彼の作る曲は単なる少年の希望でもなく、青春の甘酸っぱさでもなく、かといって大人になりきれてもいない、青年という形容がまさに相応しい、その頃私にいちばん似合いの曲だった。人は「今時尾崎なんて」そんな風に私を懐古主義者のような目で見る。けれど自分が恰好良いと思うものに対してそこに世間のものさしなんて必要ない。私を肯定するためには、私一人いれば充分だったのだ。

やがてまた街灯が少なくなってくる。馴染みの山道を走りながら、明日も仕事だなんて絶望が挨拶を交わしてくる。これからずっと生きとおす自信はなかったけれど、もう一日だけならどうにか死なずに済みそうな気がした。そうして一日一日を積み上げてゆくのだ。そろそろ今夜も終わりだ。カーステレオに手を伸ばす。最後に聴くのはいつもあの曲だった。

 

今週のお題「卒業」